「賛美するために戻る」

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2000・5・28

「賛美するために戻る」

村上 伸
列王記下 5,1-14 ; ルカ福音書 17,11-19

ここに「らい病」と言われているのは、「ハンセン病」と厳密に同じではないという。それも含めて、レビ記13章に「重い皮膚病」と言われているさまざまな症状のことらしい。とにかく、この症状が出た人は祭司のところに行かなければならない。そして、祭司に「あなたは汚れている」と宣告された人は、「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。…その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(13,45-46)、と定められていた。伝染を防ぐという意味もあっただろうが、村の中で交際を絶たれるわけである。

こうして、単に肉体の苦しみだけでなく、交わりから排除されるという精神的な痛みを負わされた人が十人、イエスと出会った。彼らは、声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんで下さい」(13)と叫ぶ。これがどんなに切実な求めであるかは、我々にも想像できよう。

この求めに対して、イエスは他の癒しの場合のように、「体に手を置く」といった特別の行為をしたわけではない。ただ、「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」(14)という言葉を与えただけだ。旧約の預言者エリシャがナアマンに向かって、使いの者を通じて、ただ「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」(列王記下 5,10)という言葉を与えたように。

十人の病人は、祭司たちのところへ行く途中で癒された。イエスの言葉には力があったということであろう。しかし、今はこのことには深入りしない。問題はその後にある。

癒された十人の内、大声で神を賛美しながら戻ってきたのはたった一人で、しかもその人はサマリア人、つまり外国人であった、というのである。

この「サマリア人」について説明する。元々、彼らもユダヤ人である。ユダヤ王国はソロモン王の後の代になってから南北に分裂したが、「サマリア」というのは北王国イスラエルの首都の名である。だが、北王国は、紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされた。その際、上層部は捕囚として連れ去られ、サマリアの地には多くの外国人が移住してきて混血が起こったばかりではなく、宗教的にも純粋なヤハウエ信仰が失われた。それ以来、ユダヤ人はサマリア人に対して強い「近親憎悪」に近い感情を持つようになり、あらゆる交際を絶ち、もはやユダヤ人とは見なさなくなった。

今日の話で、イエスが「この外国人」と言ったのは、この当時のユダヤ人の言い方を逆用して皮肉を利かせるためだろう。

さて、この時イエスはエルサレムに向かって歩んでいた。エルサレムには、自分たちこそユダヤ人であるという誇りを持った人々が住み、その中心には律法学者やファリサイ人がいて「自分たちが純粋な信仰」を守るのだ、と信じていた。だが、このエルサレムで、イエスは極悪人のように十字架につけられて殺されたのである。

「民族の純粋性」を唱える時、人はしばしばこのように排他的になる。

 

ナチス・ドイツは、「ドイツ民族の純粋性」という架空の理論を作り上げたことで知られる。ドイツ人を「アーリア民族」と」呼び、これこそは世界で最も優秀な民族である、アングロサクソンやスラブ民族などは、第二級、あるいは第三級の民族と格付けされた。アジアやアフリカなどは論外である。中でも、ユダヤ民族は最低に位置づけられた。これがあの大量虐殺の動機となったことは周知の通りである。

可笑しいのは、当時ナチス・ドイツと同盟を結んでいた日本が「東洋のアーリア民族」と持ち上げられたことである。「天皇を中心とする神の国」という思想に酔ったようになっていた日本の指導層は、これでますます好い気になった。だが、このような排他的な純粋性信仰は、近隣諸国を苦しめ、そして遂には自分の国を台無しにした。これが破綻したことは、ドイツでも日本でも同じである。

残念なことに、この歴史の教訓は、日本でもドイツでも十分に生かされているとは言えない。ドイツでは少数のネオナチが「外国人排斥」を唱えて顰蹙を買っているし、日本では都知事が「三国人が悪い」と言い、総理大臣は昔の言い方を平気で使う。

 

実は、ルカ福音書はここで、「民族の純粋性」を唱える狭い考えを厳しく批判しているのである。

あの真実な、愛に満ちた、良い方であったイエスは、排他的な民族主義の牙城エルサレムで抹殺された。その反面、エルサレムへ向かう途上で、邪悪な外国人と疎んじられていたサマリア人の真実な振る舞いが何度も語られる。代表的なのは、言うまでもなく「善いサマリア人」(10,25-37)だが、今日の個所でも、癒された十人の中で神を賛美するために戻ってきたのはサマリア人だけであった、という。

国も民族も、狭い枠の中で純粋性を守ろうとしているならば必ず衰弱する。決して健全に成長しない。この島国でも、昔から外国との交流は思いがけず深く広かった。古代の中国や朝鮮から、さらには遠くシルクロードを経由して、どれだけ多くの恩恵を我々の国は受けたことであろう。それなしには日本文化は考えられない。

狭い民族主義の壁は乗り越えなければならない。それが、「神を賛美するために戻る」道なのである。

この後、我々は李有彩(イ・ユチェ)さんのお話を伺うが、この機会を、その意味でも心から感謝したい。



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