聖書は世界で最も読まれている本です。これまでに全世界で発行された数は50億とも70億とも言われ、一説では約3880億冊がすでに印刷されているとも言われています。
ある調査では1年間に世界中で約6億3300万冊が配布されたという報告もあります。
新生宣教団もまた、そんな聖書印刷をなりわいとしている団体で、日々さまざまな国の聖書を印刷しています。今回は「聖書とは何なのか、とにかくざっくり知りたい!」という方のために、簡単に説明してみようと思います。
目次
聖書って何?聖書はキリスト教の聖典聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれているユダヤ教・イスラム教における「聖書」プロテスタント教会とカトリック教会における聖書の捉え方の違い聖書の成り立ち聖書は様々な文書の集合体旧約聖書の構成新約聖書の構成聖書はいつ、誰によって書かれたもの?聖書は何語で書かれている?聖書には、ざっくり言うとどんなことが書かれているの?旧約聖書をひと言で要約すると…新約聖書をひと言で要約すると…信じる者は救われる?ご存じの通り、「聖書」はキリスト教の聖典です。
キリスト教ではこの聖書が信仰の基礎となっており、言い換えるなら、この聖書に書かれていることを信じているのがキリスト教徒(クリスチャン)です。
日本で一般的に呼ばれる「聖書」は、「旧約聖書」と「新約聖書」が一つにまとめられた「旧新約聖書」のことで、それを略して「聖書」と呼んでいます。
「旧約聖書」と「新約聖書」という呼び名はキリスト教の立場からなるもので、旧約聖書というのは「旧(ふる)い契約」、新約聖書というのは「新しい契約」を意味しています。
旧い契約というのは、具体的には神とユダヤ人(イスラエル民族)との間で結ばれた契約のことで、新しい契約というのは、旧約の時代に約束されたメシア(救世主)であるイエス・キリストの来臨によってもたらされた、神と全世界の人との間で結ばれた契約のことを表しています。
これについては、「聖書には、ざっくり言うとどんなことが書かれているの?」の項で後ほどもう少し詳しく解説します。
「旧約聖書」と「新約聖書」という呼び名がキリスト教の立場によるということをお話ししましたが、それに対して、「旧約聖書」のみを唯一の正典としているのがユダヤ教です。
ユダヤ教ではもちろん「旧約聖書」という呼び方はしません。「律法(トーラー)」・「預言者(ネビイーム)」・「諸書(ケトゥビーム)」という3つの分類の頭文字をとって「聖書(タナハ、またはタナク)」としています。タナハは、キリスト教でいう旧約聖書と同じ内容ですが、書簡の並び順は異なっています。
またイスラム教では「旧新約聖書」を部分的に認めていますが、「旧約・新約」という呼び方はしません。そして旧新約聖書に書かれた内容には誤りがあり、その誤りを正すためにムハンマドによって啓示された「コーラン」が最も重要かつ権威のある正典であるとしています。
プロテスタント教会においては、この「聖書」のみが信仰の基(もとい)であると考えています。
それに対して、伝統を重んじるカトリック教会ではまず「教会」が信仰の最高権威であるとされ、聖書はそれに次ぐ重要な信仰の基盤であるとされています。
プロテスタント教会とカトリック教会では聖書の内容にも違いがあります。
プロテスタント教会では旧約聖書39巻と、新約聖書27巻からなる計66巻のみを正典(カノン)・聖書としていますが、カトリック教会ではそれに加えて「旧約聖書続編」と呼ばれる文書を用いています。そのうちの10巻は「第二正典」として、聖書の一部と位置づけていますが、プロテスタント教会では「外典(アポクリファ)」と呼ばれ、正典(カノン)とは認められていません。またカトリック教会でも正典として認められていない文書というものもあります。
※上記は一般的に知られる文書の一例です。正典・外典などの位置づけは宗派などによって異なります。
日本語の聖書でも「新共同訳聖書」「聖書 聖書協会共同訳」という訳がありますが、これは「カトリック教会とプロテスタント教会の共同によって訳された聖書」という意味の名称です。新共同訳聖書が出版される以前は、カトリック教会とプロテスタント教会では別々の聖書を用いていました。これらの共同訳聖書にはカトリック教会のために、上記の「旧約聖書続編」を収録したものも出版されています。
聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれているというお話をしましたが、さらに言うと旧約聖書は39の文書、新約聖書は27の文書で構成されています。
旧約聖書は、モーセが書いたと言われる創世記と律法の書からなる「モーセ五書」、ユダヤ王国の成り立ちや歴史について書かれた「歴史書」、詩や格言などが書かれた「詩歌書」、救世主の到来と世界の終末に関する「預言書」という4つに区分されています。
新約聖書は、イエス・キリストの誕生、公生涯、教え、死と復活について書かれた「福音書」、福音を伝えるための働きついて書かれた「歴史書」、パウロが書いた手紙である「パウロ書簡」、パウロ書簡以外の手紙である「公同書簡」、ヨハネによって書かれた預言書である「黙示録」という5つに区分されています。
聖書は一人の人物によって書かれたものではありません。旧新約を合わせると約40人の著者によって、およそ1500年にわたって書かれたと言われています。
このようにさまざまな人々によって執筆された聖書ですが、キリスト教徒はこの聖書を「神ご自身が霊感(示し)を与えて書かせたもの」であり、すなわち「神の言葉」であると信じています。
日本で最も大きいプロテスタント教派である日本キリスト教団では、毎週礼拝の中で行う「信仰告白」の中で、以下のように告白しています。
我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆいいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言ことばにして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
…
それは聖書の中にこのように書かれていることに由来しています。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。マタイによる福音書5:18
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。Ⅱテモテ3:16-17
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。Ⅱペテロ1:20-21
旧約聖書の原文は主にヘブライ語(ヘブル語)で、部分的に(エズラ記の一部や、ダニエル書の一部)アラム語で書かれています。新約聖書はギリシア語(ギリシャ語)で書かれています。
ヘブライ語はもともとユダヤ人が用いてきた言語です。旧約聖書はユダヤ人のための宗教であり教えだったため、ヘブル語で書かれています。
その後ユダヤ人はアラム語を使うようになり、イエス・キリスト時代のパレスチナでもアラム語が用いられていました。ではなぜ新約聖書はアラム語ではなくギリシア語で書かれているのでしょうか。それはその時代の地中海沿岸地域の共通言語がギリシア語だったことに由来しています。旧約聖書がユダヤ人のためのものであったのとは対照的に、新約聖書はユダヤ人だけではなく、世界中の人々に広められるようにと、著者である弟子たちによって編纂されました。そのため、よりグローバルなギリシア語で書かれたのです。
現在、世界で最も多くの言語に翻訳された本は聖書です。実に3,200か国語以上の言語に翻訳されていると言われ、現在も翻訳作業は進められています。このようにキリスト教が広がってきた背景には、新約聖書が当時の世界の共通言語であるギリシア語で書かれたことも深く関係していると言われています。
聖書が66巻の書簡からなる本であることは説明しましたが、ページ数にすると旧約1300ページ以上、新約400ページ以上、合計1700ページ以上(※訳によって異なります)というボリュームです。そして2000年以上前の異文化下で書かれた書物ですから、ユダヤ文化にもキリスト教の文化にもなじみのない私たち日本人にとっては、非常に難しい本であることは間違いないでしょう。ハードルの高さはかなりのランクです。
このページを訪れた方も「ひと言で言うとどんな事が書いてあるの??」と、ひと言で説明してほしいという方は多いのではないでしょうか。
そんな方のために、できるだけ短く説明してみようと思います。(なお、クリスチャンである著者としての説明となりますことはご了承ください)
いかがでしょうか。ちなみに、ユダヤ教の人々はキリストをメシアとして受け入れていないため、今もメシアの到来を待ち望んでいます。
特に理解が難しいのは「4」の、「自らが罪人であることを自覚し、神の贖(あがな)いにすがるほかない存在であることを認めるとき、憐れみによって神から赦され、己の罪と神の裁きから解放される。」という部分かなと思います。
この内容を要約した聖書の言葉がありますので以下にご紹介します。パウロがローマの人々に向けて書いた手紙の一節です。
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。ローマ人への手紙3:19~26
つまりひと言でいうと、「罪を贖(あがな)われた者として生きよ」というのが聖書の教えなのです。
「贖(あがな)い」という言葉は、日本人である私たちにはあまりなじみのない言葉ですが、「払うべき代価を代わりに支払う」という意味で、ユダヤ人たちにとっては、非常になじみ深い概念でした。
それはかつてユダヤ人がエジプトの奴隷だった時に、いけにえの子羊の血によって贖(あがな)われ、エジプトから解放されたという、非常に重要な歴史があったためです。ユダヤ人たちはこのことを覚えるために毎年「過ぎ越しの祭り」を行っていました。そしてイエス・キリストが十字架にかけられたのは、奇しくもこの過ぎ越しの祭りの時期でした。
「罪があがなわれた?信じる者は救われる?そんな簡単で都合のいい教えがあるだろうか」と思う方も少なくはないでしょう。しかし、その教えを受け入れるということは、「自分が救われる必要がある」と認めるということ、そして「神を信じて仰ぐことしか自分にはできない」と認めるということなのです。それは「簡単」であると同時に「難しい」ことです。
AIの発展が目覚ましい昨今、その能力と比例して、脅威やリスクについても耳にすることが多いと思います。私たち人間も、神から見たら被造物(ひぞうぶつ)にすぎません。非常に素晴らしいものであると同時に、恐ろしい性質(罪)も持っていて、普段は何気なく過ごしていても、ちょっとしたきっかけ一つで人を傷つけたり、血を流し合ったりしてしまう存在なのです。そしてその罪の性質はやがて大きな渦となり、私たち自身でも制御できないほどの混沌となって、私たちを引きずり込んでいく恐ろしいものなのです。
AIにルールや制御システムが必要なのと同じように、人も「神」を畏れ、自分の中の「罪」の恐ろしさを認めて謙遜に生きることが必要だと聖書は語っています。
しかも聖書は、神様が人間に与えたルールは、恐れや不安だけで構成された冷たいものではなく、お互いに愛し合うこと、「赦された者」として赦し合う中で全うされる、平安に満ちたあたたかくてすばらしいものだと教えているのです。
あなたもぜひこの聖書を読んでみませんか?
参考文献:
新聖書辞典(いのちのことば社)
聖書事典(日本基督教団出版局)
参考サイト:
GotQuestions
wikipedia
日本基督教団信仰告白
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