ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(6)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1 その2 その3 その4 その5)

『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の5章で、ピーター・エンズは聖書が証しする信仰の本質とは何かについて論じます。

エンズは決して、神について知ることや、神について正しい理解を持つことを否定してはいません。けれども、彼は正しい思考をすることに固執しすぎる態度について警告します。なぜなら、聖書において「信じる」という行為の焦点は、人が「何を」信じるかということではなく、「誰を」信頼するかにあるからです。

もちろん、誰かを信頼しようとするなら、その相手に対して一定の知識を持つことは不可欠です。その意味で、この二つは切り離すことはできません。しかし、エンズは聖書においてはあくまでも前者が中心であると主張します。信仰とは本質的には人格的・関係的な概念なのです。

エンズは聖書の中で最初に「信じる」ことについて出てくる箇所について語ります:

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。(創世記15章6節)

ここで「信じる」と訳されているヘブル語の動詞 ‘aman「アーメン」の語源となったことばですが、これは単に祈りの締めくくりを示す合図ではなく、信頼の宣言であるとエンズは言います。信仰者が祈りの最後に「アーメン」と唱えることは、祈った内容を神に信頼してゆだねることを意味するのです。神は老齢のアブラムに多くの子孫を与える約束を与え、アブラムはそれを「信じ」ました。彼はただ神にそのようなことが可能であることを認識しただけでなく、神が実際にそうしてくださることに信頼したのです。

新約聖書で「信仰」と訳されることの多いギリシア語pistisやその派生語においても、神についての正確な知識ではなく、人格的な信頼関係がその概念の中心にあります。ですからこの言葉は、文脈によっては「真実」「忠実」「誠実」のように訳すことも可能です。そのことは、ヤコブの手紙にはっきりと見ることができます:

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。(ヤコブ2章19節)

悪霊も「神が唯一である」という真理を知識としては信じていますが、それはもちろん神との信頼関係を表すものではありません。そしてヤコブはまた、「行いのない信仰は死んだもの」であると言います(2章17、26節)。ヤコブの言う生きた信仰とは、神に信頼して忠実に生きる人生の態度を表すのであり、したがって当然それに見合った行いを伴うものだということです。

そして、エンズは「信仰」はただ人間が神に対して持つだけのものではないと言います。聖書は繰り返し、神が人間に対して「真実」であられることを語っています(たとえば、詩篇89篇1-2節)。そして、新約聖書で従来「キリストを信じる信仰」と訳されてきた箇所(たとえばガラテヤ2章16節)も、「キリストの真実」と訳す方が良いのではないか、と多くの学者が考えるようになってきました。

そして、「信仰」(誠実、真実)はまた、人間同士の関係においても見られるものです。エンズはいいます:

私たちがこのように互いに誠実を尽くすとき、私たちはただ単に親切にしているというだけではない(それも含まれるが)。より重要なことには、私たちが互いに誠実にふるまうとき、真実な神また真実な御子のように行動しているのである。

神のようになること。これがゴールである。そして、私たちがもっとも神と似たものとなるのは、自分が神について正しく理解していると確信している時ではなく、他人に対して自分がどれだけ正しいかを語り聞かせる時でもなく、真実なる御父と御子のように互いに接している時なのである。(101-102ページ。強調は原文)

このように、「神を信ずる」とは、神に信頼することです。そして、エンズはこのことは危機的な状況にあるときだけすることではなく、いつでも行うべきことだと言います。

心をつくして主に信頼せよ、
自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
(箴言3章5-6節)

私たちは「すべての道」で主を認め、主に信頼していく必要があります。それは、どうしたらよいか分からない状況においてだけでなく、自分の力で状況を充分にコントロールできていると思っているときでも、そうなのです。

そしてもちろん、私たちは信仰を持てないと思えるような危機的状況において、それでも神を信頼する必要があります。エンズは、聖書記者たちは時として神に十全の信頼を置くことができない現実を正直に告白していることを指摘します。けれども、彼らはそれでもなお神に向かって語り続け、神を信頼したいという願いを持っていました。それこそ聖書的な信仰であるとエンズは言うのです。

*     *     *

本章はエンズが考える聖書的な信仰概念について説明したもので、本書の中でも鍵となる章であると思います。その基本的な主張は、信仰の本質とは神についての正しい理解にあるのではなく、人格的存在である神への信頼だ、ということです。

このような関係的な信仰理解は、神に対する確信がゆらぎ、疑いが生じたとき(いわゆる「信仰の危機」)において助けになることはもちろんですが、エンズも指摘するように、私たちが神を正しく理解し、従っていると思っているときにも、あるいはそのようなときこそ、「自分の悟りにたよらず」、神に信頼すべきことをつねに思い起こす必要があると思います。なぜなら、私たちが自分の神理解・聖書理解について確信を持っているからといって、その理解が必ずしも正しいとは限らないからです。この点を忘れてしまうと、自分の(誤った)確信に基づいて他者を攻撃し、傷つけ、しかもそうすることによって神に仕えていると思い込んでしまうことにもなりかねません。私たちは、上で引用した箴言にあるように、「すべての道で」主を認めていく必要があるのです。そして、自分の知識にたよらず、主に信頼することは、異なる意見を持つクリスチャンとの一致を可能にするものだと思います。

最後に、エンズも本書で引用している、トマス・マートンの有名な祈りを引用します。この祈りは本章でエンズが描写する「聖書的な信仰」の本質をみごとに言い表していると思います。

My Lord God, I have no idea where I am going. I do not see the road ahead of me. I cannot know for certain where it will end. Nor do I really know myself, and the fact that I think I am following your will does not mean that I am actually doing so. But I believe that the desire to please you does in fact please you. And I hope I have that desire in all that I am doing. I hope that I will never do anything apart from that desire. And I know that if I do this you will lead me by the right road though I may know nothing about it. Therefore I will trust you always though I may seem to be lost and in the shadow of death. I will not fear, for you are ever with me, and you will never leave me to face my perils alone.

私の主なる神よ
私はこれからどこに行くのかわかりません。
私の前にある道が私には見えません。
その行き着く先がどこなのか確かに知ることはできないのです。

私は自分自身のことさえ真に知ってはいません。
私があなたのみこころに従っていると思ったとしても、
実際にそうしていることにはなりません。

しかし、私は信じています。あなたに喜んでいただきたいという願いは、事実、あなたに喜んでいただけることを。
ですから、私がなすすべてのことにおいて、その願いをもちたいのです。
あなたに喜んでいただくという願いなしには、どんなこともしたくはありません。

そして、私は知っています。もしそうするなら、たとえ正しい道について何も知らなくとも、あなたは私をその道に導いてくださることを。

それゆえ、私はいつもあなたに信頼します。ときに道に迷い、死の陰の谷を歩むように思えるかもしれませんが。

私は恐れません。
あなたがいつも私と共におられますから。
私がひとりで危険に直面するとき、あなたは決して私を見捨てることはなさいません。

(日本語訳は後藤敏夫著『改訂版 終末を生きる神の民』から引用)

(続く)

 

 

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