十字架の道行きとはどんなものだったの?私達はそれから何を学ぶことができるの?

は、神、聖書、救い、そのほかの霊的な課題を理解することの助けとなる のを願って、それに専念し、訓練を受けたボランテイヤの奉仕者から成るミニストリーです。私たちはクリスチャンです。プロテスタント、保守主義、福音派、根本主義、そして無宗派です。私たちは、教会と相並んで、霊的なことに関しての質問の答を人々が見つける手伝いをするパラ.チャーチ.ミニストリーだと自分たちを見ています。
十字架の道行き、またはヴィア・ドロローサはイエスキリストの地上生涯の最後の数時間の物語で、キリスト者達に大切な事を教えてくれるのです。十字架の道行きはイエスがご自分を低くされ、神としての特権を手放される事を通して、十字架の犠牲を通して救いの道を与えてくださったことを教えてくれます。

十字架の道行きにはいくつか種類があり、聖書に忠実な物と、伝統的に教えられてきた物があります。伝統的に教えらててきた十字架の道行きは下記の通りです。

1.イエス、死刑宣告を受ける。
2.イエス、十字架を渡される
3.イエス、倒れる(1回目)。
4.イエス、マリアに会う。
5.クレネ人のシモン、イエスの十字架を背負わされる。
6.ベロニカ、イエスの顔から血を拭う
7.イエス、倒れる(2回目)。
8.イエス、エルサレムの女性たちに会う。
9.イエス、倒れる(3回目)。
10.イエス、着物を脱がされる。
11.イエス、十字架につけられる。
12.イエス、十字架上で死ぬ。
13.イエスの身体が十字架から取り除かれる。
14イエス、埋葬される。

この伝統的な十字架の道行きの3,4,6,7,9番は聖書にはっきりと記録されているわけではありません。ですから、下の物は聖書的な十字架の道行きで、14つの道行きとそれぞれに適用が書かれています。

1.オリーブ山でのイエス: (ルカ22:39-46)
イエスはオリーブ山で父なる神に十字架での死という杯を取り除いてくださいと祈りました。この祈りはイエスが完全に人間であった事を示しています(ルカ22:39-46)。イエスが直面しようとしていた出来事に対して辛い思いをしていた事は容易にわかります。キリスト者も信仰生活の中で自分の願いと神の御心の板挟みになる事があるでしょう。その際にどういう決断をするかによってそのキリスト者の神に対する忠実さがどれほどの物であるか、またそのキリスト者の心の状態がわかるのです。直面する全ての出来事を知っていたイエスは神に杯を取り除いて下さいと祈りましたが、イエスの祈りの結論は神の御心に従うという物でした。十字架の上で命が果てようとしているその時にも、イエスは私達に神のみ言葉に対する忠実さと、どんな時でも神に信頼する事がどれほど大切なのかを教えてくださっているのです。

2. ユダに裏切られ、捕らえられるイエス: (ルカ22:47-48)
ユダは、イエスを裏切った事によって歴史上最も軽蔑されている人物となった事と同時に、私達キリスト者達が誘惑に負け、罪を犯す事が度々あると思い起こさせてもいるのです。キリスト者にとって、誘惑に負けて罪を犯す事は私達のために命を捨てて下さった方を裏切ることと同じなのです。またその罪が自発的に、例の戒めを無視して犯した事ならばその裏切りはさらに重いものです(ルカ22:47-48)。ユダはイエスと共に生活し、食事をし、イエスの足元に座ってその教えを何年も受けたのですが、ユダのその心は本当の意味で聖霊に変えられなかったので、サタンの誘惑ににあった際にイエスを裏切ってしまいました。キリスト者として、私達も自分の信仰を吟味する必要があります(II コリント13:5)。

3. サンヘドリンから宣告を受けるイエス: (ルカ22:66-71)
70人の祭司と律法学者達で形成されていたサンヘドリンはピラトにイエスを十字架にかけるようにと要求しました。この出来事は私達キリスト者も自分を他人よりもさらに優れた、正しい者として人々を裁かないようにと教えています。聖書の知識とこの世での地位も神の聖なる完全さの前には及ばないのです。ですから、高慢な考え方はどんなに正しい人にとってもつまずきの原因となります。聖書は自分の上にたつ者達を敬うようにと教えていますが、最終的に私達の全てを治めるべきなのは神のみ言葉と御権威です。キリスト者は聖霊が、サンヘドリンのように励まし、慰め、教えと手引きを与えて下さるので、どんな状況にあっても神の御心にしたがった決断をする事ができるのです。ユダヤ人達がサンヘドリンに宗教的な権威を与えた事はサンヘドリン内での祭司や律法学者達の堕落につながり、イエスが公生涯を始め、神のみ言葉を教え始めると彼らはイエスの殺す計画を立てて、ローマ政府によってイエスを十字架にかけることになったのです(ルカ22:66-71)。

4. ペテロ、イエスを知らないと言う: (ルカ22:54-62)
イエスが捕らえられた際、その場ににいた者達はペテロがイエスの弟子なのだろうとペテロに迫りました(ルカ22:54-62)。イエスが前もって言っていた通りに、ペテロは三回イエスを知らないと言いました。ペテロはイエスに愛され、イエスの数多くの奇跡をその目で目撃し、イエスと一緒に水の上まであるいた弟子でした(マタイ14:29-31)。そのペテロでさえも人間的弱さのゆえに、自分も捕らえられるかもしれないという恐れに負け、イエスを知らないと言ってしまったのです。世界中では未だに数多くのキリスト者達が迫害と屈辱に日々直面しています。ローマ政府による迫害の恐れによって、イエスとの関係を隠してしまったペテロを人々はさばくかもしれませんが、公の場であっても、プライベートな状況であっても、キリストの名が汚されている時に黙ってしまった事がないキリスト者はどれほどいるでしょうか?これが人間の弱さなのです。聖霊が内に住んでいなかったペテロの信仰は決して完全な物ではありませんでしたが、ペンテコステの日に聖霊が降った(使徒2章)後のペテロは雄々しい、獅子のような信仰を持っていた、大胆な信仰者となったのです。

5. ピラトによって宣告を受けるイエス: (ルカ23:13-25)
今日の法的基準によれば、イエスはどこの裁判所でも有罪判決を受けなかった事でしょう。イエスには彼が有罪であると証明できる証拠が一つもなかったのです。ポンテオ・ピラトはイエスに罪はないとし、彼を釈放しようとしましたが(ルカ23:13-24)、サンヘドリンはピラトにイエスを十字架ににつけるようにと要求し続けました。モーセの律法に従ってさばきを行っていたはずのサンヘドリンはイエスが彼らの権威を脅かす存在であると恐れていました。イエスは人々に救いはサンヘドリンの戒めを行う事によって得られる物ではなく、神の恵みによる物だと教えたのです。このイエスの教えはサンヘドリンの権威を脅かし、当時の宗教指導者達の生活をも脅かしました。今日も、私達の行いではなく、神の力と選びによる救いの教えは決して人気のある物ではありません。罪によって汚れている人類はいつでも、自分の力で救いを得ようとするのです。それによって栄光を受ける事ができるからです。しかし、救いは栄光を誰にも渡されない神によるのです(イザヤ42:8)。

6. むち打ちの刑を受け、いばらの冠をかぶされるイエス: (ルカ23:63-65)
この箇所にある癒しは霊的な物で、罪からの癒しと、神の恵みの復帰という形で表れている物です。マリヤがイエスを産む500年以上も前に、イザヤはイエスが私達の罪の為に刺し通され、私達のとがのために砕かれ、その打ち傷で私達が癒される事を預言したのです(イザヤ53:3-6)。

7. 十字架を背負われるイエス: (マルコ15:20)。
イエスが十字架を背負った際、イエスはただ木材を背負っていたのではなく、全人類の罪をその身に背負い、それぞれの罪が受けるべき罰をその身に受けられたのです。イエスはマタイ16:24で「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われ、それは任意的な物ではない事も語っています「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)。処刑の道具であった十字架を背負ってイエスについていくという事は新しい創造として(II コリント5:17)キリストに使えるために日々自分に死ぬという事です。つまりは神の御心の元に私達の好み、願望や計画を明け渡して生きるという事です。私達は自分の幸せを優先する生き方をするのではなく、神が望まれるならば全てを手放して生きるべきなのです。

8. 十字架を背負わされるクレネ人シモン: (ルカ23:26)
クレネ人シモンは状況の犠牲になった人と言えるでしょう。彼はおそらく過越の祭りのためにエルサレムに来ていた、一連の出来事は全く知らなかった人物でしょう。イエスが架けられる十字架を背負った後はこのクレネ人シモンの事は聖書に書かれていないので私達は彼の事はあまり知りません(ルカ23:26))。十字架を代わりに背負うようにと命令された彼が反論しなかったのはローマ兵達に逆らうことは命の危険を意味したからでしょう。すすんで十字架を背負ったイエスとは違い、シモンは無理やりこの十字架を背負わされました。キリスト者である私達はイエスと共にすすんでその苦しみを共にうけるべきです。パウロは「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」(II テモテ1:8)と書いています。

9. エルサレムの女達に会うイエス
イエスは泣いている女達と弟子達にあった時、彼らはイエスのことを泣くのではなく、むしろエルサレムに起こる悪を知り、自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさいと言われました(ルカ23:27-31。計り知れないほどの苦しみと屈辱を受けている間も、イエスは自分よりも、罪に汚れていたために永遠のさばきを受ける危険があった人々のたましいの事を思っていました。現代のキリスト者も、この世での心配や思い煩いが私達の神に使える事よりも大切にならないように気をつけるべきです。イエスは36「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18:36)と言われました。私達も、天の民として、天の民が気にかける事を考えるべきなのです。

10.十字架に架けられるイエス: (ルカ23:33-47)
イエスが十字架に架けられてから2000年も経った今、イエスが地上での最後の呼吸をしたその十字架にイエスの手と脚が釘打たれ、それを茫然と見守る事しかできなかったイエスと近しい関係にあった人々が感じたであろう恐ろしい感情がどんな物であったのかはわかりませんが、イエスの愛された人々や弟子達はその時一連の出来事の重大さと意味を完全に理解してはいませんでした。彼らはこの人類最悪の罪が神がキリストを信じる人々に救いを与えるために許された事とは理解していなかったのです。今日の私達は、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)とわかっていますから「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。」(ヘブル2:3)

11. 信じた犯罪人がパラダイスに行くことを約束するイエス: (ルカ23:43)
このイエスの隣の十字架に架けられた犯罪人はイエスは死んでそれで終わりではなく、人類のために天国に入るためのその働きを成就しようとしていた事を理解した可能性があります。この人が恵みのゆえに、信仰によって(エペソ2:8-9)救われてパラダイスに入った最初の人かもしれません。イエスは、神の御子を受け入れて信じたので彼がその日にパラダイスに行くと言われました。これはイエスを十字架に架けた人々が教えていた行いによる救いではなく、人々が恵みのゆえに、信仰によって救われる事をはっきりと示している例です。

12. 十字架上で母マリヤと弟子達と話すイエス
死が近づいていたイエスはその時も人々の必要を自分よりも優先し、弟子ヨハネが母マリヤの世話をするようにと命じられました(ヨハネ19:27)。その死も含め、イエスはその生涯全てを通して模範をもって私達も自分よりも人々の必要を優先し、神の御心に従うようにと教えているのです。キリストが内に住んでいる事は、私達が神の御言葉にとどまり、人々のために自分を犠牲にするという行いをもって示す事ができるのです。

13.十字架上で死ぬイエス: (ルカ23:44-46)
イエスが死んだその瞬間、人類と聖所を隔てていた幕は上から下に裂かれました。この出来事は古い契約が終わり新しい契約の時が来た事を理解していなかったユダヤ人達にとってはとても恐ろしい物でした。人類はもう罪のゆえに神から隔たれる事はなく、大胆に、恵みの王座に、罪の赦しのための祈りをもって、近づく事ができるのです。イエスの人生と犠牲の死は死の隔てを取り除き、人類が恵みによる救いを得る事を可能にしたのです。

14.墓に埋葬されるイエス: (ルカ23:50-54)
十字架上で死なれ、十字架から降ろされた後、イエスは アリマテヤのヨセフという人によって埋葬されました(ルカ23:50-54)。このヨセフはサンヘドリンの一員でしたが、イエスが受けた不当な裁判もイエスが十字架に架けられる事にも反対していました。イエスは実はイエスが聖書の言う通りのメシヤである事を信じていましたが、自らの信仰を告白する事の結果を恐れていたのです(ヨハネ19:38)。イエスの死後、ヨセフはこっそりとピラトの元に行ってイエスのからだを引き取る事を願い、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って埋葬しました。

イエスが払った偉大な犠牲は人類の罪の贖いを成し遂げただけでなく、罪のある全人類がたどるべきであった道であった死の力を破り、それに打ち勝つ勝利となったのです。罪には必ずついてくる罰があり、それが死です。私達の創造主である神は正しい方ですから、罪の代償が払われる事を必要とされました。それと同時に、神は愛と哀れみに溢れているので、永遠の刑罰を受けるべきである私達を愛され、そのひとり子を世に遣わされました(ヨハネ3:16)。神の愛と哀れみはイエスの十字架上での、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)という言葉に示されています。人が神の御言葉や律法に従いたくないのは、彼の知識と知恵が欠けているからである事は容易にわかります。皮肉なことに、十字架の上でのイエスに与えられた致命傷はその知識と知恵の欠けを持ち続けている人々の霊的な致命傷に繋がっていることです。イエスが可能にして下さった救いを拒む者は反抗的な無知と人類と神を隔てる罪によってその状態に陥っているのです。

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