自分は神など恐れない

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

自分は神など恐れない

I

いつの世にも、不義や不正はあります。最近では、ある県知事が、会社社長の弟とグルになって、県の公共工事にからんで建設業者から多額の賄賂を受けとってきたことが発覚しました。全国の400あまりの高等学校では、大学進学の実績を上げるために、卒業には必要だが受験には不要な科目を、あたかも履修したかのように見せかけた成績証明書を偽造してきたそうです。

不義や不正を疑われた者には、釈明が要求されます。もっとも、きちんと釈明して謝罪することは容易ではありません。民間企業のさまざまな偽装事件の記者会見を見ると、世間をお騒がせして遺憾に思いますに始まり、知りませんでしたお答えできません私たちの方こそ被害者ですに終わるものが少なくありません。本当に謝罪しているのか、それとも言い訳、隠蔽、責任転嫁をしたいのか…。

もちろん不正を訴えられた人が、実際には無罪であることもあります。世界中に、基本的人権に反して牢獄につながれた良心の囚人と呼ばれる人々がいます。そして、そうした不当な裁きを受けた人が権利を回復することは、これまた容易ではありません。

何れにせよ不正義は、私たちを絶望に追いやります。不正義に加担した者たちの野合は、関係者に沈黙を強要して、真実を語ることを禁じます。ときに自殺者がでるほどです。他方、不正義を受けた者は、社会の中で孤立しがちです。犯罪の被害者は世間の好奇の目に晒され、被害を訴えた人は悪意の中傷を流されることがあります。そのような人が、社会に不信感を抱いても不思議はありません。不正義が放置されるとき、それは私たちの生活を内側からじわじわ蝕みます。

では、現実に不正義が存在している場合、正義を倒錯させることなく正しい裁きを行い、それでもその不正義に加担した人を赦し、自由な者として去らせることは可能でしょうか。10月31日は宗教改革記念日です。宗教改革者ルターが再発見した罪人を義とする神の福音は、まさにそのことを、神がイエス・キリストを通して人に対して行ったと主張します。神の前でまったく弁解の余地のない罪人が、それゆえ神なき者と呼ばれてふさわしい者が、神によって義とせられ、つまり決定的な承認を受けて、言葉のまったき意味において神と人々とともに生きてゆく権利を得た――この驚くべき主張が、キリスト教信仰の中心にあります。

II

イエスが語ったというやもめと裁判官のたとえには(ルカ福音書18,2-5)、神を畏れず人を人とも思わない裁判官(2節)が登場します。こんな悪役を登場させて神の国のたとえを語るのは、たいへんイエスらしいと思います。

法律は、人々を不正義から守るためにあります。そして裁判官とは、社会生活における法の番人です。このたとえにいう裁判官は、社会において責任ある立場にある人々のシンボルと見てよいでしょう。国家や自治体、企業その他で、弱い立場におかれた人々の権利を守り、世の中で不正がまかり通ることを防ぐ責任を負う立場にある人です。そのような立場にある人が神を畏れず人を人とも思わないとき、この人の存在そのものが倒錯しています。この裁判官にとって、法とはじつは自分自身です。自分こそが、あらゆる尺度の規準です。この人は善悪の区別に基づかないで、気まぐれに判断します。社会のルールや決まり事も、自分に都合のよいように勝手に変えてしまうでしょう。そこには、あくなき自己利益と保身の追求、そして際限のない自己正当化があります。

果たせるかなこの裁判官は、弱者の訴えに耳をかそうとしません。その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった(3-4節)。寡婦とは、旧約聖書で孤児と並んで、助けを必要とする人々の代表的な存在です。善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ(イザヤ書1,17)。イエスのたとえの裁判官は、この教えの逆を、地で行くかのようです。

ここまでイエスのたとえを聞いてきた人は、腹を立てたでしょうか。それとも、世の中とはそういうものだと心の中で冷ややかにコメントしたでしょうか。私たちの町にそのような裁判官がいたとしたら、私たちは抗議行動を組織するでしょうか。それともあの人は落ちこぼれだ自己責任だ負け組みの味方をして自分が損をしてはたまらないといって、当然守られるべき正義の要求をやり過ごすでしょうか。

III

私たちの心配をよそに、イエスのたとえでは、正義は思いがけない仕方で実現します。彼の独白をお聞きください、自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない(4-5節)。

この内面の表白は、二つの点で興味深いものがあります。一つ目は、この裁判官が自分は神など畏れないし、人を人とも思わないと述べていることです(4節)。この人は、外面はさておき、内面では自分に対して非常に正直です。通常私たちは、自らの罪深さを自覚しようとしません。失敗が露見して釈明を求められても、これくらいのことは皆やっている仲間をかばうのが自分の務めだ、あるいは私を訴えたのは信用ならない人物だ、挙句の果てはこんなに責められても我慢している私は偉いんだなどと心の中で言い訳をして自分をごまかします。ところが、この裁判官はどうでしょう。彼は自分は神など畏れないと言い切るのです。何だかスカッとしたものを感じるのは、私だけでしょうか。本物の悪党はこうでなくっちゃ!

ゲーテの『ファウスト』で、ファウスト博士の前に、遍歴学生の姿で現われた悪魔メフィストは、お前の名前は何だ?と問われて、私はあの力の一部分 常に悪を欲し常に善をなす あの力の一部分です(Ein Teil von jener Kraft, die stets das Bose will und stets das Gute schafft)と返答します(柴田翔・訳、第一部書斎)。悪を欲しながら善をなす力とは、メフィストによると常に否定する精神、すなわち貴方がたが罪と呼び 破壊と呼び つまり悪と呼ぶものだそうです。闇こそが光を生んだという言葉は、創世記の記述を受けているように思われます(創世記1,2-3 闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった)。

しかし、私たちのたとえの裁判官は、メフィストほど立派な悪者ではありません。これが二つ目に興味深い点です。彼は、それでも寡婦のために正当な裁判をしてやることにした理由を、こう述べます、あのやもめは、うるさくてかなわない。しかも放っておいたらひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない(5節)。ここでさんざんな目に遭わすにちがいないと訳されたギリシア語は、もとはボクシングの用語法で、目の下を殴ってあざを残すという意味だそうです。この神をも畏れぬ大悪党は、孤立無援の女性から顔面に一撃をくらうのが怖くて、正当な裁判をしてやることにしたのでした。

自らをあらゆる尺度の規準と見なし、善悪の彼岸に生きていた恐るべき男が、まさにその原則に基づいて、痛いのは嫌だからというだけの理由から、ささやかな正義を生み出した。ここまでイエスの話を聞いた聴衆は、豪胆な男の臆病な決断について聞いたとき、実際にもいたにちがいない不正な裁判官たちのことを思い浮かべながら、腹を抱えて笑い転げたのではないでしょうか。

IV

この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい(6節)――イエスは、そう聴衆に語りかけます。不思議に正直な悪役の登場する、この奇想天外なたとえを語ることで、彼はいったい何をしているのでしょうか。

考えてみれば、自分は神など畏れないと豪語する裁判官も、また相手を裁いて、わたしを守ってくださいと訴えつづける寡婦も、それぞれの仕方で神に絶望している私たちの世界の代表者であるように見えます。私たちの多くは、裁判官のような権力者でもなく、寡婦のような無産者でもなく、いわばその中間です。それでも、強者も弱者もそれぞれの仕方で、しかし同じように神に絶望している。この弱さのゆえに、私たちは、まともに神に語りかけることができません。義にして聖なる神と、俗にまみれた私たちの間には、深い裂け目があります。

 しかし、ついさきほど私たちは、裁判官の言いぐさを聞いて笑いました。この笑いは、まずは裁判官の奇妙に一貫した判断の、全体としての滑稽さに向けられたものですが、もう一つには、思いがけない仕方で、寡婦に対して正義が行われたことに対する喜びの笑いでもあります。この笑いには、神と人間の間の断絶を橋渡しする力、人を再び神に近づける力があるように感じます。それが、神の人間らしさを思い起こさせるものだからです。愛する者も友も、あなたは私から遠ざけてしまわれた。今、私に親しいのは暗闇だけです(詩88,19)という嘆きの訴えに、神は無関心ではありえない。それは、神の内面に何かを引き起こすからです。イエスが私たちに差し向ける笑いは、思いがけない仕方で義を作り出す神を、私たちが受け入れることを容易にします。

そして神の人間らしさは、最終的にはイエス・キリストを通して明らかにされました。彼は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とあるとおりです(ヘブライ書4,15)。私たちの弱さを知ることを通して、私たちを義とする神に御栄えあれ!

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