死をもたらす神学

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

昨年のこの時期に書いた「クリスマスの星」という記事が、今年になってまた読まれているようです。そこでも取り上げた、マタイ福音書の降誕物語を改めて読み返していると、昨年とは違う側面に目が留まりました。

異教徒の占星術師である東方の博士たちがエルサレムを訪れて、ヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と訊ねると、王とエルサレムの住民は不安に陥ります。マタイは次のように続けます:

そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。(マタイ2:4-6)

ここで興味深いのは、ユダヤの宗教家また学者であった祭司長や律法学者たちは、キリストがベツレヘムで生まれるはずだということを、聖書から正確に読み取っていたということです。にもかかわらず、彼らは東方の博士たちのようにベツレヘムまで行ってキリストを訪ねようとはしなかったのです。(エルサレムからベツレヘムまでは10キロもありません。)

マタイの降誕記事では、自分の王位を脅かされるのではないかというヘロデの猜疑心とともに、これら宗教家たちの冷たい無関心も物語に暗い影を落としています。ヘロデや民の指導者たちは聖書からメシアについての正確な情報を把握していましたが、それが最終的にもたらしたのは死だったのです――ヘロデはベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしました(マタイ2:16)。

この箇所から分かることは、正しい聖書知識や神学が人を神に近づけるとは限らない、ということです。その反対に、そのような知識が誤った目的で用いられる可能性はつねにあります。マタイ福音書の祭司長や律法学者の場合は、権力への迎合や自己保身ということだったと思われます。その結果、神学が死や束縛をもたらすことは、まれではありません。

知識は力です。「真理」を所有していると主張する人間は、それを持たない(とされる)人々に対して影響力を行使することができます。したがって、知識を持つ人間はそれを用いて他人を自分の都合のいいようにコントロールしようとする強烈な誘惑に常にさらされていると言っても過言ではありません。これは物理的な暴力と同じく、人間性を破壊する力の支配です。

キリスト教会も例外ではありません。むしろ、「正しい神学」「正しい教理」「正しい釈義」等々を強調するグループでは、そのような知識が偶像化していく誘惑が大きいように思います。ある特定の主張や体系を絶対的真理と同一視することによって、見解を異にする人びとを「真理(神)の敵」と呼んで排撃する態度は、グループ外部の人よりむしろ内部の人により大きなダメージを与えるような気がします。外部にいる人は相手にしなければいいだけの話ですが、グループのメンバーは、その「真理」から外れるならば救いを失うのではないかという恐怖に縛られるようになるからです。このような、「真理」による支配の構造は、「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)とイエスが教えたこととはまったく異質なものに思えるのです。

このように、神学は人を束縛し、霊的ないのちを窒息させてしまうことがあります。それは必ずしも神学自体が悪いということではなく、どういう意図を持って神学を用いるか、が問題になのではないかと思います。刃物は人のいのちを救う手術にも、人を傷つけるためにも用いられます。その刃が鋭ければ鋭いほど、悪用された時のダメージは大きくなります。

私がこれまで拙いながらも聖書学や神学を学んできて見えてきたことは、逆説的ですが「信仰者にとって一番大切なのは神学ではない」ということです。神学はつねに変化し、多様性に富んでいます。神は人間のつくり出した特定の神学大系で把握できるようなちっぽけなお方ではありません。このブログの「鏡を通して」というタイトルも、そのことを忘れないようにという願いを込めてつけました(この記事を参照)。

けれども、私は神学を学ぶ必要などないと言っているのではありません。むしろその反対です。人は誰でも何らかの神学(神についての理解)を持っています。そして、神学に興味などないという人々は往々にして、誰か他の人間から教え込まれた特定の「神学」を無意識的に持っており、それが唯一の真理だと思いこんでいるのです。ですから、これまた逆説的な表現になりますが、神学から自由になるためにはどうしても神学を学ぶ――つまり、意見の異なる人々と対話する――必要があるのです。自らの立場をより広い視野から相対化することによって、はじめて自由になることができるのだと思います。

信仰者にとって一番大切なものが神学でなければ、では何なのか? それは、生ける神ご自身を体験し、この神との愛の関係に生きることだと思います。「神について知る」のではなく「神を知る」ことです。もちろん、ここでも特定の「神体験」が偶像化する危険性はないわけではありません。けれども、真に神を愛することは神の前にへりくだることであり、また隣人を愛することでもあります。そのような謙遜と隣人愛は、力による他者の支配とは相容れないものであると思います。

これは新しい主張でも何でもなく、昔から繰り返し教えられてきたことです。たとえば古典的名著である『キリストにならう』では、次のように雄弁に表現されています:

あなたに謙遜の心がなく、そのため三位一体に喜ばれないなら、三位一体について議論したところで何の益になるであろう? 人を聖なる者、正しい者とするのは、深遠な言葉ではなく、徳に満ちた生活であって、それが神の愛を呼ぶのである。私は痛悔の定義を知るよりも、むしろその心を感じたい。もしあなたが、全聖書と全哲学説を知ったとしても、神への愛と神の恵みとをもたなければ、それが何になるであろう? 神を愛し、神に奉仕する以外は、「空しいことの空しさ、すべては空しい」(コヘレト1・2)。世間を軽んじて天の国に向かうことこそ、最高の知恵である。(フェデリコ・バルバロ訳)

最後の部分の「天の国」をこの地上から隔絶した「天国」というふうに受け取るのでなければ、この言葉には全面的に賛同することができます。いいえ、この文章の趣旨からするなら、聖書的な「天の国」の概念とは、などと議論することは、生ける神の支配する天の国に生きることの重要性にくらべれば、些細な問題なのかも知れません。複雑な三位一体論を展開することができても、三位一体の神を愛することをしない神学者は、三位一体の神に喜ばれることはないのです。

*     *     *

異教徒であった東方の博士たちは、ユダヤ教の神学論争には無縁でした。むしろ彼らは星占いや夢といった頼りない(ある人々にとってはオカルト的でさえある)情報に導かれていました。けれども、彼らは救い主に出会っておおいに喜び、この方を礼拝しました(マタイ2:9-12)。彼らこそ、まことの神学者と言えるのかもしれません。なぜなら、神学(theology)の目的は、神を礼拝すること(doxology)にこそあるからです。

 

 

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