12小預言書をわかりやすく解説! 小預言書が書かれた本当の目的とは?(後編)

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

こんにちは、ひよこです!
前回は小預言書の前半部分について詳しく見ていきましたが、今回はその後半部分になります!
後編のこの記事では、「ナホム書」・「ハバクク書」・「ゼパニヤ書」・「ハガイ書」・「ゼカリヤ書」・「マラキ書」という、6つの小預言書についてご紹介します。

前編で記した小預言書の概要と、小預言書が書かれた目的についても再度載せているので、さっそくナホム書から読みたい!という方は 「▶書簡ごとの要約」からお読みください。

目次

小預言書とは小預言書の概要小預言書が書かれた目的書巻ごとの要約1.ナホム書ナホム書が書かれた背景、ポイントなどナホム書の要約2.ハバクク書ハバクク書が書かれた背景、ポイントなどハバクク書の要約3.ゼパニヤ書ゼパニヤ書が書かれた背景、ポイントなどゼパニヤ書の要約4.ハガイ書ハガイ書が書かれた背景、ポイントなどハガイ書の要約5.ゼカリヤ書ゼカリヤ書が書かれた背景、ポイントなどゼカリヤ書の要約6.マラキ書マラキ書が書かれた背景、ポイントなどマラキ書の要約まとめ

小預言書とは

小預言書の概要

聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」の全66巻から成り立っています。そのうち旧約聖書は39巻で、天地創造から始まって、イエス・キリストが生まれる400年ほど前までのイスラエルの歴史について記されています。この39巻の書物は大きく「律法」「歴史書」「詩歌書」「預言書」の4つに分類することができます。

モーセが書いたと言われる創世記と律法の書からなる「律法のモーセ五書」ユダヤ王国の成り立ちや多くの人物が登場する「歴史書」詩や格言などが書かれている「詩歌書」救い主の到来と世界の終末に関する「預言書」

今回はこの最後の「預言書」についての解説になりますが、この預言書はさらに大きく「大預言書」と「小預言書」の2つに分類することができます。

この預言書の後半部分に記されている12の預言書は「小預言書」と呼ばれており、紀元前9-5世紀に登場した預言者たちが書き記しました。
しかし、これらの預言書は分量の大小でそう呼ばれているだけであって、内容の大小と重要度の差によるものではありません。また、これらは書かれた年代順に並べられているのではなく、全般的にアッシリア時代のものが先に置かれ、ペルシャ時代のものは後に置かれていると言われています。

小預言書が書かれた目的

聖書は書簡ごとに必ず中心的なメッセージがあり、目的をもって記されています。この小預言書が書かれた目的を一言で言い表すならば、「人間の罪に対する神からの非難と、来るべきさばきについての警告、また人間の罪にもかかわらずやがて訪れるユダヤ人の回復」です。

イスラエルの民は、モーセの時代に「シナイ契約」を神と結んでいます。そこで結ばれた契約関係とは「主がイスラエルの神となり、イスラエルは主の民となった」というものです。
イスラエルの民が、神と他の民族との仲介者になり、全世界の人々を神に導き、神を国々に示すという重要な役割のためにこの契約は結ばれました。そこでイスラエルは、神だけに信頼と忠誠を捧げる必要がありました。

後に、イスラエル王国は神に従い愛されたダビデ王によって確立され、その子ソロモン王の時代に繁栄を極めました。しかし、ソロモン王が異国の妻たちや多くの側女(そばめ)たちの持ち込んだ偶像を拝み、唯一の創造主なる神から離れた結果、神の祝福は離れ去り、王国は北イスラエルと南ユダの2つに分裂します。そしてその後も、祭司や王たちはイスラエルに道を誤らせ、民も異国の偶像を拝むようになって、創造主なる神から離れていきます。

ここで出てきたのが、預言者たちです。預言者たちはこの契約(協力関係)におけるイスラエルの役割を思い出させようと、神から託された警告の言葉を命の危険を顧みず語り続けました。それぞれ預言者たちの時代背景はみな違いますが、共通して2つのことを語りました。

人間の罪に対して神のさばきがあるその罪を悔い改めるならば神は救ってくださる

預言者たちがそれぞれ伝えたかった、警告と希望という2つのメッセージをこの小預言書から読み取ることができます。

 

書巻ごとの要約

神から預かった言葉という意味で「預言(よげん)」、またそのような言葉を取り次いだ人のことを「預言者」と呼んでいます。預言者は神から遣わされ、人々の間違った行いを明らかにして、神に立ち返るよう訴える仕事でした。しかし、王や身分の高い人たちから牢屋に入れられたり、殺されたりと命がけの務めでもありました。
そんな彼らが書き記した小預言書にはどのようなことが書かれているのか、ひとつずつみていきましょう!

1.ナホム書

著者は預言者ナホムで、「ナホム」という名前は、ヘブライ語で「慰める者」という意味です。

ナホムは、イスラエルを滅亡させたアッシリアに対する神のさばきを宣言し、この預言によってユダ(イスラエル)の人々は慰められました。

ナホム書が書かれた背景、ポイントなど

本書は、イスラエルの最大の抑圧者でもあったアッシリア帝国と、その首都であるニネベの破滅を告げるものです。アッシリアの滅亡はBC607年に起こっているので、BC663年~BC607年の間にナホムは活躍していたことが分かります。

ナホムの150年前の預言者がヨナでした。ニネベの住民はヨナが宣教に来た時に悔い改め、主に立ち返って仕え、神からのさばきを免れています。しかしその後、彼らはそれらのことを忘れ、偶像礼拝や暴虐と高慢な道を選び、再び神への不信仰を貫きました。
神はそのような悪を見逃さず、本書において滅ぼされることが決定的になりました。ニネベにとっては、ヨナは“憐みの預言者”であり、ナホムは“滅亡の預言者”なのです。

アッシリアは当時最も力のある国で、近隣諸国を恐れさせており、イスラエルだけではなく近隣諸国もアッシリアの滅亡を待ち望んでいました。アッシリアはとにかく残虐で、敵国の人たちを柱に吊るし、人々の皮を剥いで見せ物にしたりしていたのです。
そんなアッシリアは、アダド・ニラーリ2世以降さらに強大になり始め、次第に西アジアや、パレスチナ地方を支配するようになります。そのように自国の自給自足と軍事力を誇っていました。しかし、そのような高慢なアッシリアの国は、その罪のために最終的には神にさばかれるとナホムが預言します。

最終的にアッシリアは、力をつけたバビロンに負かされてしまいます。
ユダはアッシリアに支配されていたので、アッシリアの滅亡はユダにとっては解放であり慰めでした。
神は無敵と思われたアッシリアさえも完全に滅ぼされます。どんな理由があっても神の権威を侵害し、あざ笑うものを、神はゆるされないのです。神のさばきから逃れられる者も誰もいません。
しかし、神に信頼し続ける者は永遠に安全であるということをこの書からは学ぶことができます。

ナホム書の要約

ナホム書は3章という短い章から成っています。
ナホム書の1章は、神がどのようなお方なのかということが記されおり、神は罪と悪を嫌い、それらを見逃すことなく必ず罰せられ、復讐されるということがわかります。
先程、本書はアッシリア帝国と、その首都であるニネベの破滅を告げるものであると述べましたが、本書の1章ではアッシリアやニネベについては具体的に触れていません。それは、ナホムにとってはアッシリアやニネベの没落は、神のさばきの一つの例にすぎなかったからです。
神はすべての時代において、残虐で傲慢な帝国が永遠に続くことをゆるしはしないという大きなメッセージを伝えています。最初にこの視点を示しつつ、2章でニネベ陥落の様子を鮮明に描いています。

2章は、神に背き神の民を苦しめ続けたアッシリア帝国の首都ニネベの町が神の災いによって滅びていく様子が詩によって描かれています
バビロンの兵士たちがニネベに押し寄せ、戦車が攻め込み、多くの血が流されました。こうして止まることのない攻撃により、町は完全に略奪されました。

3章は、首都であるニネベの陥落に留まらず、アッシリア帝国全体にもたらされる災いについて描かれています。
3章のはじめは、「すぐれて麗しい遊女」をニネベの町に例え、ニネベが諸部族を売ったことが書かれています。そのことに対する神の答えは、ニネベが他の国の恥をさらしたように、ニネベにもそのようにするというものでした。
最後は、かつて最大の帝国であったアッシリアの王への嘲りで終わります。彼がかつて苦しめていた国々から彼を助けに来るものは誰ひとりおらず、むしろ彼の破滅を喜ぶものばかりでした。そしてアッシリアは近隣の国々からあざ笑われると言われるのです。そして、悲しい事に最終的にはニネベの人々はナホムの警告に応じる事なく、やがてバビロンに支配される事になってしまいました。

ナホム書は3章という短い書ではありますが、その中に神の義とさばきについて詳しく書かれています。神は寛容で怒るのに遅い方で、悔い改めの時間を与えてくださるのです。
しかし、神はいつの時代も、神に背を向ける悪しき国を必ず滅ぼされると教え、神の前にへりくだり、神に信頼するようにと呼びかけているのです。主の怒りの前には誰も立つことができませんが、ご自分の民との契約には忠実なお方であるということがわかります。

 

2.ハバクク書

著者は預言者ハバククで、「ハバクク」という名前は、ヘブライ語で「抱きしめる者」という意味です。
ハバククは、南ユダ王国の罪を懲らしめるために、神がバビロンのカルデア人を起こされたこと、そのカルデア人も高慢のために滅ぼされることを告げました。

ハバクク書が書かれた背景、ポイントなど

ハバククの活躍時期は、カルデア人がイスラエルを攻略しようとしていた時期で、BC597年および BC586年のバビロンのユダ侵略を指しています。
エレミヤの同時代の預言者と考えられていて、バビロンがアッシリアのニネベを陥落させたBC612年前後に預言しています。

このアッシリアを助けようとした南ユダ王国のヨシヤ王は殺されてしまい、次にエホヤハズが王になります。しかし、その後はエジプトのパロ・ネコによって失脚させられます。その後はエホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤと次々と王は変わっていきます。ゼデキヤは優柔不断な性格の持ち主だったために親エジプト派の圧力に負け、結局最後はバビロンに滅ぼされてしまいました。

ハバククは、不正と偶像礼拝がはびこる南ユダ王国の最後の十数年を生きました。
そんなユダ王国に迫りくるバビロンという驚異をみて大問題だと感じました。しかし、ハバククは他の預言者のようにイスラエルを非難することはせず、イスラエルの人々に悔い改めるよう伝えた様子も書かれていません。
この書は預言書でありながら、そのほとんどがハバククの神に対する個人的な言葉になっています。
ハバククは神に不平を述べ、世界の不正や痛み、苦しみに対してどうにかしてくれと訴え、それに対する神の応答が記されています。
悪と不正がはびこるこの世界であっても、神は良いお方であると信じようとする彼の葛藤も見ることができます。

ハバクク書の要約

ハバクク書は3章という短い章から成っています。
1章と2章はハバククが神に2つの不満をぶつけ、神がそれに対して返答するという会話形式で記されています。
1つ目の不満は、イスラエルの民はなぜこんなにも腐敗しているのかというものです。イスラエルは不正と暴力により堕落しているのに、指導者たちは見て見ぬふりをしているのです。
ハバククはこの現状をどうにかしてくれと神に懇願しますが、何も変わらないことに疑問をいだき、なぜ神は願いを聞いてくださらないのかと問いかけます。
神の答えは、「それが告げられても、あなたがたは信じまい。」というものでした。それを受けたハバククは「あなたこそ神です、しかし私は知りたいのです」と更なる答えを求めます。
その後神はさらにハバククに語り、イスラエルの民の堕落を赦したわけではなく、最終的に彼らをさばくためにバビロンの軍隊を用いてイスラエルを滅ぼされると言いました。

ハバククは、その神の答えに対して2つ目の不満をぶつけます。
なぜ邪悪な国であるバビロンを使ってイスラエルを滅ぼされるのかというものでした。イスラエルは確かに堕落していますが、バビロンはそれよりも堕落しているのに、なぜそんな彼らを用いるのかハバククには理解できなかったのです。
この質問に対する神の答えは、来るのが遅いと思うことがあっても必ず来るということでした。それは、神は高ぶる者や、偶像礼拝をしている者には必ず災いを下すと宣告し、最終的にはバビロンもまたさばきを受けることになるというものでした。


●この動画の前半部分で、アッシリアに
イスラエル・ユダ王国が飲み込まれ、
さらにバビロンに飲み込まれ、
その後ペルシャによってバビロンが
崩壊する様子が見られます

実際にBC539年にペルシャがバビロンに勝利し、ユダの民を解放することになります。つまり、神はバビロンのような堕落した国をも用いられますが、その罪を赦しているわけではないということです。
彼らを用いたとしても、最終的に神は悪をさばかれます。神は、すべてが神のご計画通りに進んでいること、最終的にはすべての問題が解決することを信じるようにとハバククにお命じになりました。

「ハバククの詩篇」とも言われている3章では、ハバククの祈りと信仰をみることができます。
ハバククは、神の御業を見聞きすることが許された喜びと、変わらない神の道の確かさを心から信じて賛美します。やがて悪がすべて打ち負かされることを未来の出エジプトとして記し、かつて神が出エジプトにおいて、見せてくださった偉大な力をもって再び来てくださることを祈り求めています。
そして最後にハバククは、神の憐れみを祈り求め、苦難の中にあっても神へ信頼し、共に歩むということを記しています。
最初は不満を神にぶつけていたハバククも、最後には希望に満ちた賛美でこの書を締めくくっています。

私たちも試練に遭う時、悪者が栄えている時などにはハバククが抱いたような、神は一体何をなさっているのかという疑問を持つかもしれません。
しかし、ハバクク書は神がすべてを治めておられ、全知全能である事を再確認させてくれます。静まって神の働きを知る中で、神が真実な方で約束を守られるお方であることもわかります。
悪が勝利しているように見えても、神はなお世界を支配しておられるのです。目の前の状況に納得がいかず、今の自分には理解できないことがあっても、それでも神を信頼する信仰が大切だということを本書から学ぶことができます。

 

3.ゼパニヤ書

著者は預言者ゼパニヤで、「ゼパニヤ」という名前は、ヘブライ語で「神に守られる」という意味です。ゼパニヤが語ったさばきと励ましのメッセージには大きく分けて三つの教理が含まれています。

神は全ての国々を治めておられる方である事。さばきの日に罪人はさばかれ、正しい者は正しさが証明される事。神は悔い改め、御自身に立ち返る者を祝福される事です。

ゼパニヤ書が書かれた背景、ポイントなど

ゼパニヤ書が書かれたのはBC635年―725年頃だと言われています。ゼパ二ヤは南ユダ王国の最後の十数年を生きました。
彼はヒゼキヤ王の4代目の孫にあたり、ヨシヤ王の時代に活躍しました。イザヤやミカより後で、ナホムとほぼ同時代に活躍したことになります。

ヨシヤが16歳で王になったころ、ヨシヤ以前の2人の王マナセとアモンによる悪政によって、宗教的にも道徳的にも非常に暗く悪い時代で、イスラエルはとても堕落していました。
富んでいる人々は貧しい人々を不正に扱って、莫大な財産を築き上げ、民たちは偶像礼拝をしていました。まだ若かったヨシヤですが、この状況を脱し、真の神を礼拝することを確立しようと立ち上がります。この時、ゼパ二ヤの預言は、ヨシヤのこの改革の動機づけにもなっていたに違いありません。この預言は南ユダ王国の審判の日がくるわずか2、3年前に語られました。

ゼパニヤは、神が道徳的、また宗教的罪を嫌っておられる方であると私たちに思い起こさせます。神の民が頑なに罪を犯し続けるならば懲らしめを免れる事はできません。しかし神は罪に対しては厳しい方ですが、罪人に対しては優しいお方なのです。そのため、様々な方法を通して警告を発し、悔い改めを促してくださるのです。

ゼパニヤ書の要約

本書は「主のことば」で始まり、「主は言われる」という言葉で閉じられます。ゼパニヤ自身が、主の言葉を語っていることを知っていたので、すべての預言をはっきりと語ったことがよくわかります。
ゼパニヤ書は3章あり、3つのセクションから成っています。

神からのユダとエルサレムに対するさばきの宣告と悔い改めの勧告(1:1~2:3)周辺諸国とエルサレムに対するさばきの宣告(2:4~3:8)異邦人とエルサレムに対する回復の希望の預言(3:9~20)

最初のセクションではまず、「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く」。という神のさばきの宣告によって始まっています。
偶像礼拝などの罪で堕落している者も、不正に手を染めていた指導者たちも最終的にすべて滅ぼされ、エルサレムの城壁とともに崩れ去るというさばきの預言を最初にしました。
神がこのさばきを下すためにバビロンを用いたということは、ハバクク書を見ればわかりますが、この書ではその国名を具体的に記すことはせず、栄えさせるのも滅ぼされるのもすべて神によるものであると強調しています。
それは希望のメッセージでもありました。なぜなら、エルサレムは滅ぼされるというさばきを免れることはできませんが、その中でも、主を尋ね求める者は助けられ、滅ぼされないからです。
そこで、ゼパニヤは主を求める者たちに呼びかけ、悔い改めを促しています。

2つ目のセクションではユダ、そして周辺諸国にまでさばきが来ると預言しています。ペリシテ、モアブ、アンモン、アッシリア、クシュなどの地域も最終的にバビロンによって滅ぼされるというのです。
反イスラエルである国々の、主の民に対するそしりは、主へのそしりとなりさばかれます。しかし驚くことに最後にはエルサレムに住むイスラエル人たちをも非難し、彼らもまた滅ぼされると言われました。

イスラエルの指導者や祭司たちは堕落しきっており、神は彼らをもはやご自分の民としては見ていないのです。そして神の決断により、神の愛から来るねたみのゆえに、全地は火によって焼き尽くされると預言されます。
神の正義が火となり、地上にあふれる悪をすべて焼き尽くすのです。しかし、この神のさばきは人々を滅ぼすためのものではなく、エルサレムをはじめとするすべての国々を清めるためなのです。
ゼパニヤは、人々が崇拝していた偶像の神々も、アッシリア軍の力も人々を救う事ができないと知っていました。
神は哀れみ深く、恵み深い方ですが、その警告が無視されるならば、さばきは避けられません。神のさばきの日については聖書には何度も出てきます。預言者たちはこれを「主の日」と呼び、エルサレムの崩壊などの出来事はやがて必ず来る主の日を指していると語ったのです。

そして最後のセクションでは、諸国民は神を礼拝するために集まってきて回心すると記されています。イスラエルが繁栄して祝福を完全に回復することが約束されています。

ゼパニヤ書は短い書ですが、神の正義と愛の姿をまっすぐに伝えています。神に忠実な人々の数は少ないかもしれませんが、神はその人たちを決して忘れることなく、栄誉ある者としてくださるのです。

 

4.ハガイ書

著者は預言者ハガイで、「ハガイ」という名前は、ヘブライ語で「祭り」という意味です。
バビロンにおける70年間の捕囚の後にエルサレムに帰ったユダヤ人にむけて書かれました。神殿の再建を成し遂げるように民を説得しています。

ハガイ書が書かれた背景、ポイントなど

イザヤ書から始まるこれまでのすべての預言書は、バビロン捕囚よりも前の時代、または捕囚されている期間に書かれました。これから解説するハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書はバビロンから帰還したユダの民に預言されたものになります。

ハガイはゼカリヤより2カ月ほど前から活動をはじめ、この書はBC520年頃に書かれました。彼は4カ月という短い期間に神の言葉を大胆に、そして情熱的に語り、捕囚から帰還した民を励ましています。
BC538年クロス王がバビロンからユダヤの民を解放し、祖国へと帰らせました。帰国するとすぐに神殿再建に着手しますが、ユダの残留民やサマリヤ人たちの妨害にあい、挫折してしまいます。
しかし、神がゼルバベルやヨシュア、預言者たちを与え、励まし、また再開しています。この書からは正しい優先順位について学ぶことができます。

ハガイ書の要約

ハガイ書は、オバデヤ書の次に短い2章から成る短い預言書で、ハガイが4カ月にわたってエルサレの民に述べたメッセージが記されています。

旧約時代の預言書たちは何世紀にも亘って、偶像礼拝や不正によって神との契約を破ったイスラエルの民を問い正してきました。
そして神はバビロン帝国を遣わしてエルサレムとその神殿を滅ぼして民を捕囚にするだろうと警告していました。そしてそれはBC587年に現実のこととなりました。
このハガイ書が書かれたのはBC520年頃で、捕囚から約70年後、バビロン帝国が滅んだすぐ後で、支配者がペルシャに変わった頃でした。
ペルシャは自分たちの国に帰りたいと願うイスラエル人たちの帰還を許し、大祭司ヨシュアとダビデの子孫ゼルバベルの指導のもと彼らはエルサレムに帰りました。そしてそこで町を再建し、新しい生活は明るいもののように見えました。

しかし、エルサレムに戻ってきた民たちは、70年前に崩壊した神殿をそっちのけで自分たちの贅沢な家を建てることに一生懸命になっていたのです。
そんな彼らにハガイは今の生活は自己中心的であり、神を最優先することが祝福の秘訣であると優先順位を正しています。その言葉を聴き、ヨシュアとゼルバベルをはじめとするイスラエルの民たちは主に従い、神殿を建て直し始めました。

しかし、神殿再建をはじめてから数日たった後、以前のソロモンの神殿がどれほど立派であったかを知っていた彼らは、今の神殿がみすぼらしく見えてしまい、士気が下がってしまいます。しかし、ハガイは今の状況に落胆せず希望をもって再建するように励まし続け、困難の中にあっても神殿の再建を通して神に栄光を帰することができると伝えました。

最後にハガイはレビ記にある律法を用いて、悔い改めて心をまず聖めてから神殿再建に携わることの大切さについてもふれています。「死体に触れると汚れるが、その汚れた手で食物に触れるとそれまでも汚れる」というのです。つまり、罪があるままでは、神殿再建に携わっても神殿までもが汚れると伝えたかったのです。

イスラエルの民がへりくだり、不正から離れて真の悔い改めをすることは、神殿再建をする上で必要不可欠なのです。そして神はご自分の民が誠実なものになるのを待っておられるのです。
人間はすぐに言い訳をしてしまいます。しかし、そのような姿勢からは良い結果は生まれません。神を優先順位の1番にする時、必ず祝福を受けるのだということがこの書からわかります。

 

5.ゼカリヤ書

著者は預言者ゼカリヤで、「ゼカリヤ」という名前は、ヘブライ語で「神は覚えておられた」という意味です。
ハガイと同じく、バビロン帝国における70年間の捕囚の後にエルサレムに帰ったユダヤ人に対して、神殿再建を成し遂げるようにと励ましています。

ゼカリヤ書が書かれた背景、ポイントなど

ゼカリヤはハガイと同時代の人物で、2人とも神殿の再建のため神の民を説得していますが、ハガイが4カ月間という期間で預言をしているのに対して、ゼカリヤは50年間に亘って活動しました。

ゼカリヤの預言は、ペルシャの王ダレイオスの第2年の第8の月に与えられ、ダレイオスの第4年の第9の月で終わっているので、神殿工事再開の2カ月後から神殿完成の半ばまでの期間であることが分かります。
神殿再建のために捕囚の民はバビロンから帰ってきましたが、作業は妨害され、思うように進んでいませんでした。
ハガイとゼカリヤはその際に励まし続けました本書は数多くの幻が記されているので、エゼキエルやダニエルとともに「幻を見る預言者」と呼ばれています。

ゼカリヤ書の要約

本書の冒頭部分で、「あなたがたの先祖たちのようであってはならない」と民に告げ、同じ過ちを犯してはいけないことと、悔い改めが必要であることを伝えています。
そしてその後、ゼカリヤが見た8つの幻について記されており、エルサレムの回復と神の民に良い時代が訪れることなど、神が将来されようとしている計画が細かく記してあります。今回はこの8つの幻について詳しくは解説しませんが、1章から6章にわたって非常に奇妙なイメージにあふれていて、象徴的な幻がたくさん出てきます。

最後のセクションである9章から14章では、今までの章とはまったく違うスタイルになっており、メシヤ到来の預言についてもはっきりと記されています。
ゼカリヤ書には、イザヤ書を除けば、やがて来られるイエス・キリストについて、他のどの預言書よりも多くの預言が記されています。

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。(9:9)

このように9章~11章では、メシアがすべての国々の上に神の王国を築くためにろばの子に乗ってエルサレムに入る様子から、1度は受け入れられたメシアがその後、イスラエルの民や指導者に拒絶される様子までが記されています。(この預言は新約聖書のマタイ21:1~11で成就し、イエスはイスラエルの民によって十字架にかけられました。)

しかしそれで終わることはなく、ゼカリヤは偉大な王が全く異なった2つの方法で来られることを預言しました。
最初は、人間として生き、人の罪のために十字架で死ぬお方として来られ、2度目は国々をさばき、天と地を支配し、栄光に満ちた王としておいでになるというのです。これらの預言から、人々の罪を救い、王として治めるという両方の目的のためにイエスが来られるのがわかります。
また、エルサレムを回復されることを預言していて、最後は終末の出来事について記されています。

このようにゼカリヤ書には黙示的イメージや、難解な文章がたくさん出てくるので理解するのに難しさを感じますが、神のみわざを見ることができます。

 

6.マラキ書

著者は預言者マラキで、「マラキ」という名前は、ヘブライ語で「主の使者」という意味です。

マラキは、捕囚の期間の後にエルサレムに帰ったユダヤ人たちに、神に立ち返るようにと警告を送りました。旧約聖書最後の書物でもある本書では、神のさばきと、来るべきメシアを通しての救いのメッセージが語られています。

マラキ書が書かれた背景、ポイントなど

マラキ書が書かれた正確な年代は記されていないので不明ですが、彼は、ハガイとゼカリヤの時代から約100年後のバビロン捕囚後にユダで活躍した預言者と考えられているので、BC440年-400年頃ではないかと言われています。

ハガイとゼカリヤの時代、イスラエルの民は2人の激励もあり、神殿再建をしましたが、期待していた祝福がこなかったため、民は堕落してしまいます。礼拝も形式的になってしまい、神への捧げものや律法は軽んじられていきます。このように民は神に背を向けるようになってしまいます。そこでマラキは、メシアは来られるがそれは彼らにとっては栄光よりもさばきを意味している

マラキ書の要約

神殿はしばらく前に再建されていましたが、その時のイスラエルの状況は良いものではありませんでした。
捕囚から帰ってきたばかりの頃の民は希望で満ちており、預言者たちが語ったメシアの到来という約束の成就を見ることができると思っていました。しかし、時間が経つにつれて彼らは神への不誠実によって再び不正を働くようになってしまいます。マラキはそんな道からそれてしまった神の民、また神に背を向けている祭司たちに神の言葉を語りました。

マラキ書では、神と民の口論が繰り広げられています。神が民に対して非難しても、民はそれを否定して逆に疑問を投げかけます。そしてその疑問に対してさらに神が答えるという形式が6回続きます。神に口答えする民の態度から、彼らは捕囚を経験しても根本的なところで何も変わっていなかったということが見て取れます。

1つ目の口論では、まず神が「わたしはあなたがたを愛している」とイスラエルの不誠実にも関わらずご自分の民を愛しているとを伝えているのに対し、民は「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と問いかけます。そこで神はエサウとヤコブの話を出して、彼らの先祖であるヤコブを選んだことから彼らの選びを思い起こさせました。

2つ目の口論で神は、民が神殿を軽んじて蔑んでいることについて言及しますが、民はどのように軽んじたのかと問いかけます。それに対して神は、民だけでなく祭司たちまでもが律法で禁止されているにも関わらず、傷物の動物を捧げるなど神への供え物をおろそかにしていることを明らかにしました。

3つ目の口論で神は、イスラエルの男たちが神と自分たちの妻を裏切ったことを責めますが、彼らはそれを否定します。しかし神は、イスラエルの男たちが理由もなく妻と離婚し、さらに異邦人と結婚してその地で拝まれている偶像を家庭に持ち込んでいるという最悪な状況を暴きます。

4つ目の口論はイスラエルの民が、神は何もしていない、神の正義はどこにあるのかと神の不在を訴えるところから始まります。そんな彼らに神は、主の日に神ご自身が戻る時のために民を準備させる使者を遣わすと答えます。神は偶像礼拝や性的不道徳という不正をすべて滅ぼし、誠実なものだけが残され、彼らは神の民とよばれるのです。

5つ目の口論で神は、民に立ち返るように呼びかけ、それに対して民は、どのようにして立ち返ることができるのかと問います。神は具体的に、民が什一献金を捧げていないことを取り上げて、彼らの自己中心的な態度を非難します。年に1度自分の収入や作物から十分の一を捧げる決まりをやぶっていたので、神殿も荒れ果ててしまいました。彼らの不誠実は神からの祝福を遠ざけてしまっていたのです。

6つ目の口論で、民は神に仕えるのは無駄だと神を非難したのです。神が悪人や高慢な人たちが栄えていることに対して何もしていないではないかと言うのです。ここで神は、はじめて短い物語を通して民たちに教えられ、彼らが神のご性質と約束を思い起こすことができるようにしました。そして最後は主の日、キリストの再臨の時のさばきのことを預言しています。

ここまで見てもわかるように、イスラエルの民たちは神から離れてしまっていることにそもそも気がついていませんでした。
主に仕えていると思いながら、主の悲しむことばかりしてしまっていたのです。このように聖書は、人間の罪を明るみに出し、同時に神がやがて使者を遣わして、次に神ご自身が来られて悪に立ち向かい、神の民を回復するという神の約束を伝えています。

これはすべての預言書が語っている未来の希望なのです。そしてマラキ書は最後に、モーセの律法を覚えて忠実に守るようにという教えで終わっています。

 

まとめ

マラキの時代から新約時代の始まりまで400年間ありましたが、この期間に預言者は1人もいませんでした。そこで、これらの期間は「沈黙の時代」や、「中間時代」と呼ばれています。
400年の沈黙の後、神は次にバプテスマのヨハネをマラキと同じように悔い改めを呼びかける預言者としてこの世に送りました。
そのため旧約聖書の最後は、「メシアがこられる直前に現れる先駆者の到来」を告げる預言で終わっていますが、新約聖書はまさに、「キリストのために道備えをするバプテスマのヨハネ」の活動から始められています。

これらの預言書の中の言葉は、新約聖書においてイエス・キリストによって「成就した」と記され、たくさん引用されています。新約聖書では、旧約聖書に書かれていることをよく引用しているので、新約聖書を理解するためには、旧約聖書全体やその中の預言書もよく読んで、知っておく必要がありますね!

以上ひよこでした。

●新約聖書・旧約聖書についてもっと知りたい方は、こちらの記事もお読みください!

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