「インマヌエル預言」と題されている今日の個所は、14節がマタイ福音書1,23のクリスマスの記事に引用されていることもあって、特別にイエス・キリストとの関連で読まれることが多い。しかし、この個所の背景には紀元前8世紀の固有の歴史的事情があり、我々は先ずそれを理解するところから始めなければならないだろう。
イザヤが預言者としての召命を受けてから間もなく、紀元前738年、超大国アッシリヤのテイグラト・ピレセル王はパレスチナ地方に進出し、北王国イスラエルにも多額の貢ぎ物を要求してきた。イスラエル王ペカは、これに対抗するために、ダマスコ(シリヤ)と反アッシリヤ同盟を結んだ。この軍事同盟を一層強化するためには、南王国ユダも引き入れる必要がある。そこで、シリヤとイスラエル(エフライム)の連合軍はエルサレムを包囲して、反アッシリヤ同盟に加入することをユダに強要した。これが「シリヤ・エフライム戦争」(B.C.734-732)である。
当時の南王国ユダの王はアハズであるが、彼はこの事態にうろたえる。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(2)。
この状況の中で、イザヤはアハズ王に会い、「落ち着いて静かにしていなさい」(4節)と勧めたのである。シリヤ・エフライム連合軍の攻撃の前で王はうろたえているが、恐れることはない。シリヤもエフライムも、「燃え残ってくすぶる切り株」に過ぎない。彼らの陰謀は「実現せず、成就しない」(7節)、と言ったのである。
このイザヤの預言は、単なる大言壮語でも、口からでまかせの根拠のないホラ話でもない。当時の歴史的状況を、彼は大局的に正確に掴んでいた。
現代に例を取るならば、10年前にベルリンの壁が落ち、冷戦が終わって、イデオロギーによる東西対立は過去のものとなった。もはや後戻りすることはない。これが世界の歴史の大きな流れである。その結果、ヨーロッパでは、かつての主権国家の枠組みさえも消滅しつつある。アジアではヨーロッパほど進んではいないが、いずれはその影響を受けるであろう。
この中で、例えば北朝鮮のミサイルの脅威を声高に論じ、拳骨を振り上げて息巻く人々がいるが、これは大局的な見方を忘れた小児病的な見解である。イザヤが現代に生きていたら、きっと「落ち着いて静かにしていなさい」と言うだろう。
だが、アハズ王は、イザヤの忠告に耳を傾けない。「深く陰府の方に」(11節)、つまり、アッシリヤの援助に頼るか、あるいは、「高く天の方に」、つまり、神の約束を信じて自力で危機に対処するか、不決断に動揺した挙げ句、結局はアッシリヤの軍事援助に頼るという最悪の選択をしようとしている。このアハズ王の優柔不断な態度に対して、イザヤは厳しく決断を求める。「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にももどかしい思いをさせるのか」(13節)。それに続いて語られたのが「インマヌエル預言」(14節)なのだ。
この言葉は、「処女マリアより生まれ」という信仰の聖書的根拠を示すものとしてマタイに引用されているので、そういう方向で理解されることが多い。だがこれは本来、イザヤが直面した具体的な状況に即して語られた歴史的な証言なのである。
それは何を意味しているか?
アハズ王は歴史の大きな流れを見ようとせず、神に従って勇気をもって決断しようともせず、目先の不安にうろたえ、アッシリヤの軍事力や経済力を過大に評価してそれに頼るという間違いを犯した。
しかし、そういう事があったとしても、やがて彼に代わる王が生まれる。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(14a)というのは、そういう意味だ。どこかの女性が子を産む。そして、「その名をインマヌエルと呼ぶ」。つまり、その子は、「インマヌエル」の事実、つまり「神が我々と共におられる」という真理を実証するように、軍事同盟や財力にではなく、ただ神により頼んで、落ち着いてなすべき事をする王となるだろう。
だが、そうなる前に既に、アハズ王の恐れには根拠がないということが明らかにされるだろう。「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」(16節)。そして、事実、そのようになった。アハズ王は恐れる必要のない物の影にビクビクしていたということになる。
さて、「神が我々と共におられる」というのは、一般的・抽象的に言われてはいない。「自分がどんな生き方をしても構わない、とにかく神様はいつも自分と一緒にいて助けて下さる」ということではない。ヤクザの本部には、大抵、大層な神棚が祭ってあり(実際に見てきたわけではないが!)、子分たちが殴り込みに出かける前にはその前でお参りをする。「神が我々と共におられる」と自分に言い聞かせるのであろうが、そうはいかない。
モーセが律法を与えられるために山に登っていた間、イスラエル民族は指導者不在という事態に不安を押さえ切れず、金の小牛を造って「これこそ私たちをエジプトから解放してくれた神だ」と言って拝み、「座して飲み食いし、立って戯れた」(出エジプト32,1-6)という。「神が我々と共におられる」というのはこういうことでもない。
神に信頼し、その意思に従って正義と公平を重んじ、いと小さき者を大切に生きる者たちと共にいて下さる、ということである!イエス誕生の記事に、今日のイザヤ書の言葉が引用されたのは、この意味で当然なのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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