「聖なる神」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・6・13

「聖なる神」

村上 伸
イザヤ書 6,1-13 ; 使徒言行録 9,1-9

 

 ここには、預言者イザヤが召命を受けた時のことが書いてある。

「召命」とは皆さんにとって聞きなれない言葉かもしれないが、キリスト教会では良く使われる。「神にされて」、「使を授けられる」ことを言うのである。

神学校に入る人は「召命の自覚があるかどうか」と問われる。「召命感」が何よりも重要だというわけである。私が東京神学大学の入学試験を受けた時も、小さな召命経験はあったから、試験の成績(特に聖書の試験)は余り良くはなかったけれども割に平気だった。面接の時に、並み居る先生方からその点をつかれた。「君は、聖書の試験がまるでできていないじゃないか」。私は、「だから、それを勉強するために来たのです」と応じて、彼らを呆れさせた。「まあ、熱意はあるな」と助け船を出してくれた先生がいて、私は辛うじて合格した。

 

私の場合は、「召命」といっても「命懸けでやろう」という決心を与えられた程度だったが、預言者の場合は、非常にスケールが大きい。

「ウジヤ王が死んだ年」(1)とあるから、紀元前739年のことであるが、イザヤは幻を見たという。

もちろん、神ご自身を見たのではない。聖書では、神は人間の目には見えない。神は「見えざる神」である。ただ僅かに、神の臨在を暗示するもの、―――ここでは「衣の裾」だが―――それが神殿いっぱいに広がっているのを見たのである。イザヤは神の臨在に触れたのだ。神は、いと高き天にいて、地上の混乱をよそに涼しい顔をしておられるのではなく、我々の歴史の中に入ってきて、我々と共に生きてい給う。神はこの歴史の中に臨在される。これが彼の「召命経験」であった。

その他にイザヤが見たものは、「セラフィム」であった(2)。「セラフィム」とは、「炎のように飛び回る蛇」(14,29)のようなものであって、これも神の臨在を示す象徴の一つである。奇妙な蛇で、六つの翼を持っていた。その内の二つで顔を覆い、二つで足を覆い、残りの二つで空中を飛行していた。我々の感覚からは「竜」に近い。

むろん、これは想像上の動物だ。古代人は、洋の東西を問わず、実際には存在しない奇妙な動物をしばしば想像した。平家物語には、源三位頼政が紫辰殿の上で射落としたといわれる「鵺」(ぬえ)という動物が出てくる。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似ていたという。

だが、何と言っても一番の傑作は、預言者エゼキエルが「召命」を受けた時に見た幻に出てくる「四つの生き物」であろう(エゼキエル 1,4以下。1296頁)。

こういった動物はむろん実在しないが、何らかの意味で当時の人々の精神状況、例えば「恐れ」とか「不安」「満たされぬ願望」、や「憧れ」を反映していたと言える。

 

一体、預言者たちの場合はどうだったのか?彼らの見た奇妙な動物(イザヤ書では「セラフィム」)は何を意味していたのか。

畏れと祈りである!

イザヤはこれから、彼の愛する同胞の民族の中へ遣わされようとしている。それは、神に選ばれたのにいつか堕落し、正義と公平を見失い、力ある者にへつらい・弱者を虐げるようになってしまった民族である。その同胞の中へ彼はこれから出て行き、神から預かった真実の言葉を語らなければならない。

しかも自分は、彼らと違う清らかな人間であるわけではない。自分もまた、同胞の罪を分け持っている。どうして神の言葉を語るなどという、大それた事ができようか。「災いだ、私は滅ぼされる…」(5節)といううめきは、彼の本音であったろう。神よ、どうか私のそばにいて、私を助けて下さい!この畏れと祈り。これが、イザヤに「セラフィム」を見させたのである。

「すると、セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た」(6-7)。イザヤの畏れと祈りは聞かれた。セラフィムが祭壇から火挟みで持ってきた、真っ赤に燃えた炭火が、彼の唇に触れた。彼の持つ人間的な才能や知恵がそのまま生かされるというのではなく、それらが一旦裁かれるという痛みを伴って、ただそのようにしてのみ、彼の口は清められる。こうしてイザヤは、改めて神から与えられた使命のために派遣されるのである(8)。

しかし、神の派遣の言葉(9-10)は、余りに逆説的に感じられる。「この民に理解されないために語る」などということがあり得るだろうか。それなら、語らない方がましではないか。だが、これは本当である。

預言者の語る言葉は、誰からもすぐ理解され・受け入れられ・歓迎されるような言葉ではない。それは、神から示された言葉であるがゆえに、差し当たりは強固な反対に遭う。誰からも理解されず、受け入れられない。だから、イザヤは「主よ、いつまででしょうか」と問わざるを得ない。

しかし、長い時を経て、それが真実であることが現れるであろう。「切り株が残る」という13節の言葉は、その事を示す。神の真実を無視する人々の世代が滅ぼされた後、残った切り株から種子が芽を出すようにして残る者があり、その人々によって真実は遂に理解され、受け入れられる。この希望によって預言者は語ったのである。

教会が語る言葉も、そうではないだろうか。



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