「神の秘められた計画」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・12・12

「神の秘められた計画」

村上 伸
イザヤ書 41,8-13 ;コリント第一 4,1-5

二人の兄弟を天に送った悲しみが私たちを包む中で、そして今、二人の友が新たに入院するという気がかりな知らせを聞く中で、アドヴェントも第三週を迎えた。アドヴェント…主が来たり給う。讃美歌でも私たちは繰り返しこのフレーズを歌う。主の到来を待つ。

 だが、正確に言うとこれはどういう意味だろうか。

 子供たちが「もういくつ寝るとお正月」と歌うように、単に「クリスマスの祝祭が近づいて来るのを待ちこがれる」というだけの意味ではないだろう。そういう面もあっていいが、もっと深く私たちの生きる姿勢に関係している、と言わなければならない。それは、具体的に言えばどういうことだろうか。

 

 今日の説教テキストに、コリント第一4,1-5が選ばれているが、ここで使徒パウロは、自分の使徒としての使命、あるいは在り方について弁明している。

 そもそもこの人物は、初めキリスト教の迫害者であった。使徒言行録9,1-19に書いてある通りである。ダマスコ途上で不思議な出来事が起こってそれまでの生き方が根本的に変わる。それ以来、名前もパウロと変え、福音の伝道者として苦労に満ちた後半生を生き抜くのである。

 だが、他の使徒たち、つまり、イエスの生え抜きの弟子で、いろいろ間違いは犯したにせよ、教会の中で揺るぎない信頼を得ていた他の使徒たちに比べると、パウロは元迫害者ということもあって、使徒としての資格をしばしば疑われた。「コリントの信徒への手紙」の中で、彼は度々このことに言及している。

 代表的なのは、コリント第二11章であろう。22節後半以下で、彼は敢えて「愚か者になって」、こう記している。

 「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」。

 「彼ら」、つまり、他の使徒たちとは違って疑わしい存在であると噂されることに対して、彼は一生懸命に抗弁しているのだ。そんなことは愚かなことだと分かってはいても、抗弁せずにいられない。激しい言葉がこれに続く。(23節以下)

 今日のテキストにも、「あなた方から裁かれる」とか、「自分には何もやましいところはないが…」とかいう表現があるが、これはそのような事情を反映している。

 さて、このような問題がある中で、彼は、自分には「神の秘められた計画」(1節)が委ねられていると言う。人からどんなことを言われようが、そんなことを気にしない。自分は何よりもこの使命に忠実でなければならない。そう述べた後で、彼は「わたしは自分で自分を裁くことすらしません」(3節後半)と言う。

 人間の見え透いた思惑ではなく、「神の秘められた計画」に忠実であること。従って「自分で自分を裁くことすらしない」ということ。これが、「主の到来を待つ」ということの具体的な形なのではないか。だから彼はこうも言う。

 「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはなりません」(4-5節)。

 

 アドヴェントに相応しいことは、この態度・姿勢を学ぶことではないか。

 先週私は、自分たちの体験的な結論を最後の言葉にしてはならないと述べた。最後の言葉を持ち給うのは、神である。今日のパウロの言葉は、同じことを言っているのである。

 私たちは、何事につけても「先走って裁いて」いる。

 個人的には、「彼は(彼女は)結局の所、こういう人間なのだ」と決めつける。そのことによって、どんなにしばしばお互いの関係を壊していることだろう。詫びる時には「知らなかった」と言い、それが和解に結びつくのと全く対照的だ。

 国際的にも同じことが言える。相手国の「正体が分かった」と断定し、「それならこっちにも考えがあるぞ」と脅かす。戦争は、先ず例外なく、このように「先走って裁く」ことから始まる。

 第二次世界大戦の後で、戦勝国が敗戦国を裁くということが行われた。ドイツの場合、ナチスの戦争犯罪は、連合国が設けた「ニュルンベルク国際裁判」で裁かれ、責任者は処刑された。日本の場合も、同様に連合国によって設定された「東京国際裁判」で戦争犯罪人が裁かれた。

 健全な「裁判制度」は、社会に秩序を保持するためには必要だ。だが、戦勝国が敗戦国を裁くということに、我々は「いかがわしさ」を感じる。それは、特定のイデオロギーが前提になっていはしないかという疑いが拭いきれないからだ。つまり、その場合はやはり「先走って裁く」ということがなされているのではないか。

 いずれにせよ、「先走って裁く」ということがなされると、ろくなことにはならない。私たちは、「最後の言葉を持つ主」が来られるまで、何か決定的なことを言ってはならないのだ。それが主を待ち望む人間の姿勢なのである。これは、現代において特に意味を持っているのではないか。



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