人生は旅”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、“人生は旅” ということについて考えてみました。今年ももうじき一年の終わりを迎えようとしていますが、この時期になると、人生のいろいろなことを考えさせられます。人生はよく四季に例えたり、旅に例えたり、宝石に例えたり、いろんなものに例えます。ある人は、人生とは“人 + 牛”のようだと言いました。どういう意味かと思ったら、人牛は人生に似てるということでした。(笑)さて、今回は人生を旅に例えて考えてみたいと思いますが、聖書的観点から人生を旅に例えるなら、その旅は、私たちが目的地を決めてから出発した旅ではなく、気がついた時には、もう既に列車に乗っていたという旅です。しかも、自分が行き先を決めていないばかりでなく、その列車にも行き先が表示されていないのです。そこで近くに座っている同乗者に尋ねるのですが、誰も最終目的地を知りません。しかし一つだけ同乗者の意見が一致していることは、次の停車駅が「死」という名前の駅だということです。その駅が、終着駅なのか、それともさらに列車は走り続けるのか、そのあたりになると同乗者の考えはまちまちで、意見が分かれてしまいます。つまり人生は、肉体の死で終わりなのか、それとも死後の世界があるのかということです。仮に死後の世界があるとしても、肉体を離れた霊は、一体どうなるのか? また「天国」とか「地獄」は本当に存在するのか? もしそれらが存在するなら、「天国」に入るための条件は何か?など、答えが分からない疑問が次々に生じます。人生という旅の目的は、一体何なのでしょうか? 人間は何のために生きて、どこへ向かっているのでしょうか? 人は誰でも、この世に生を受けた後、再びこの世を去っていくということは分かっています。しかし、人が生きるということは、それだけのことでしょうか? あるいは死後の世界があるのでしょうか? この問いは、人類の歴史が始まって以来、今日まで続いているテーマです。ある人は、「人間は死んだら終わり。死後の世界などあるはずがない」と言います。あなたは、どう考えますか?分からないことは考えても仕方がない・・・・。これは多くの人が取っている態度かも知れません。しかし、どんなに考えないようにしても、すべての人に確実に来るものが死であるなら、分からないから何もしないという態度は、とても危険です。なぜなら、そのために永遠を損なうかも知れないからです。あなたは、「私は何のために生まれてきたのか?」という問いに対し、あなたの造り主である神に問いかけたことはありますか? 私たちは、自分の中に自分の存在意義を見出そうとますが、自分の中に答えが見つかるでしょうか? それは無理です。なぜなら、私たちの存在は私たちによるのではなく創造者なる神によるものだからです。ですから、私たちは、神の言葉である「聖書」によって、人生に対しても、生きる意味や目的についても、確かな答えを得ることができます。これらの問いに関して、聖書にはこのように記されています。(1)天地万物は神によって創造された「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1) (2)人間は神によって造られた「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)(3)神が人を創造された目的「わたし(神)の名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれ(人間)を創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)(4)すべての人間はみな罪を犯し、罪人となった「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥」(ローマ書3:23)(5)死んだ後、人間の罪に対するさばきがある「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル書9:27)「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして、人々はおのおのその自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」 (6)神は正義であるが、愛の神であり、人類の救いのためにご自分の御子を世に遣わされた「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネ3:16) (7)イエス・キリストは、人間の罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々(私たち罪人)の身代わりとなったのです。」(第一ペテロ3:18)「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ書4:25)(8)クリスチャンの本当の希望(再臨と復活)「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 」(ピリピ書3:20、21) 「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。 」(第一ペテロ1:21)「‥‥また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3、4)今日の一言: 普遍的な人生の意味と目的は聖書の中にしか見出せない平安鶴田健次ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。