啓示8・9章-七人のみ使いが第一から第六のラッパを吹く(41)四人のみ使は二人の証人と同じ実体か

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

  啓示の書に「四人のみ使い」と「二人の証人」の二つのグループが登場します。四人のみつかいは、四方の風が吹かないように努力を払っています。(啓示7:1)さらに、啓示9章では、四人のみ使いは、「大川ユーフラテス」につながれることになりますが、ほどかれます。(啓示9:14)

 啓示11章に登場する「二人の証人」は、「大いなる都市」、つまり、大いなるバビロンに捕らわれになります。(啓示11:8)けれども、彼らは自分の足で立ち、天に上っていきます。(啓示11:11,12)それで、大いなるバビロンから解放されるという点で、二人の証人は四人のみ使いたちと似た特徴を持っています。 

 啓示7章の「四人のみ使い」と啓示11章に登場する「二人の証人」は、呼称が違いますが、同じ実体なのでしょうか。(啓示7:1;11:3)(1)四人のみ使いはどんな実体か 

 私は啓示の書に出て来るさまざまな象徴は、同じ呼称が使われていれば、とりわけ同じ実体であると言えると思います。 

 一方、呼称が違っても同じ実体である場合があります。それぞれの実体のさまざまな特徴について理解を深めるため、同じ実体が違った呼称で描写されていると思います。「四人のみ使い」と「二人の証人」の場合はどうでしょうか。 

 啓示7章の「四人のみ使い」は神の奴隷たちの額に神の証印を押す業を行なう「別のみ使い」と協力関係にあるようです。(啓示7:1-3)

 

二人の証人と四人のみ使いたちは同じ実体を表わしていますか

 ところが、この四人のみ使いたちは、「別のみ使い」が聖霊で油そそがれたクリスチャンを集める宣教の業を平和裏に行うことに貢献しているとはいえ、ひょっとすると、少なくとも当初は「別のみ使い」によって額に神の証印を押されないようです。すると、啓示9章によると、いなごの軍勢により、「額に神の証印のない人々」として、「五か月のあいだ責め苦に遭わせ」られることになります。(啓示9:4) 

(2)二人の証人はどんな実体か 

  「二人の証人」に関しては、「二本のオリーブの木,また二つの燭台によって象徴されており,地の主の前に立っている」とあるので、神の民としてある程度の誉れが与えられているように思われます。(啓示11:4)「燭台は七つの会衆を表わしている」とあるので、二人の証人は七つの会衆の中の二つの燭台です。(啓示1:20)ですから、「二人の証人」は復活されているイエスによる観察下、影響下にあるキリスト教の会衆です。 

 ダニエルの預言との関連からこの二人の証人は、ローマカトリック教会とギリシャ正教会の聖職者たちを表わしているのではないかと私は考えています。(ダニエル11:29,30) 

二人の証人とはローマカトリック教会とギリシャ正教会の僧職者たちだと考えられる

 

 「二人の証人」は預言の業を行なっています。(啓示11:3)「二人の証人」が預言の業をしていることは、一見していいことのように見えますが、それだけでは、神とイエス・キリストの是認を得ることはできません。なぜなら、イエスはご自分の名によって預言の業を行なっている者たちに、「不法を働く者たちよ」と述べています。ですから、イエスの名によって預言していても、神の是認を得ていません。(マタイ7:22,23)

 

 そして、「二人の証人」に関しては、「彼らを損なおうと思う者がいれば,火が彼らの口から出て,その敵たちをむさぼり食う。彼らを損なおうと思うような者がいれば,その者はこのようにして殺されねばならないのである」とあります。(啓示11:5) 

  昔のエホバの預言者に関しては、口から火を出したという預言者はいませんでした。ただ、エリヤが自分を捕えにきた五十人の兵士たちをエホバに祈って、エホバの奇跡により、滅ぼしたということがありました。(列王第二1:10) 

 しかし、「二人の証人」に関しては、火が彼らの口から出て、殺します。ですから、「二人の証人」の状況は、預言者エリヤのようにエホバに祈って、祈りの答えによって事態が動くのとは状況が違うようです。 

 二億の騎兵隊に関しても、口から火と煙と硫黄が出て、「これら三つの災厄によって人々の三分の一が殺された。」と描写されています。(啓示9:17,18)この騎兵隊は文字通りの軍隊を意味しています。ですから、その口からの火で人々が殺される結果になるというのは、文字通りに人々を殺すことを意味すると考えられます。ですから、「二人の証人」も、自ら剣をとって戦い文字通りに人々の命を奪うようです。 

二人の証人が口から火を出すとは彼らが殺人を行なって神の律法に違反して行動することを意味している

 

 「二人の証人」に関する別の描写はまた別の機会に詳細に考慮します。(啓示11:3-6)少なくとも、「二人の証人」は、クリスチャンに禁じられている「殺人」をしているので、イエスから「不法を働く者」と言われるに値することをしています。(マタイ7:22,23) 

 ですから、二人の証人は、神の律法に「違反」し、他の軍事強国から軍事攻撃を受けて捕らわれになるという経験をすることになるようです。(ダニエル8:12) 

(3)四人のみ使いの実体を再考する 

   では、「四人のみ使い」はそのような「不法を働く者たち」なのでしょうか。(マタイ7:22,23)彼らは神のご意志を行なっていないのでしょうか。四人のみ使いに関しては、「地の四隅に立ち,地の四方の風をしっかり押さえて,地にも海にも,またどの木にも風が吹かないようにしている」と描写されています。 

 これは、神の不興の結果として軍事紛争が起きて「剣」によってある国家に滅びが生じないように努力をしていることを意味しています。(ダニエル7:2,3。エレミヤ49:36-38)このこと自体は、何も悪い事ではないように思います。(啓示7:1)それどころか、イエスは「平和を求める人たちは幸いです」と言われました。(マタイ5:9)ですから、この地上から戦争がなくなり、平和が続くように努力すること自体は、良い事なのではないかと思います。 

 イザヤ書には、諸国家の間での「事を正す」こと、そして、「その剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変え」ることが推奨されることが預言されています。そのために、「国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」結果となります。(イザヤ2:4)それは、四人のみ使いの行う努力によっても、行なわれるのかもしれません。 

 

 ですから、四人のみ使いは、政治的に平和で安定した状況が続くようにする努力をしていることになります。そして、四人のみ使いに関しては、「二人の証人」に関する描写とは違って、自ら剣をとって戦うことを示唆する表現はないです。 

 さらに、四人のみ使いは、「地の四隅」に立っていることが述べられています。(啓示7:1)彼らは「地の諸国民」の間にいます。(啓示20:8)つまり、あらゆる国家に存在しているクリスチャンではないかと思います。 

 そうすると、四人のみ使いは、二人の証人と同じ捕らわれを経験する結果になっていますが、二人の証人とは完全に実体が一致するわけではないようです。彼らは、神の目にも正しいことを行なっているにもかかわらず、不当な経験をするようです。それゆえに、彼らのために祈りに基づいて大川ユーフラテスから「ほどきなさい」という命令が出されることになるのでしょう。(啓示9:13,14) 

四人のみ使いたちは剣をとって戦わず平和のために努力を払っているにもかかわらず不当な捕らわれを経験する

(4)四人のみ使いと二人の証人が全く同じではないと考えられる理由 

    確かに、聖書の中には、正しいことを言うクリスチャンに対して、反対する人々がいることを明らかにしています。アモス書には、「門の中で」「戒めを与える者を憎み,全き事柄を語る者を忌まわしく思う」者、「義人に敵意を示す者」がいることが述べられています。(アモス5:10,12) 

 そうした人々は、クリスチャンが正しいことを言うことに反対して黙らせようとしたり、迫害しようとしたりします。ですから、勇敢に神の目に正しいことを言うために、苦難を経験する場合があります。 

 確かに、諸国民の間で、戦争が起きないように努力をしている人々の中には、キリスト教の背景を持っていたり、少なくとも聖書の影響を受けていて、そういうことをする人たちがいるようです。私も、世の中の反対する潮流にめげずに、平和と義のために、努力をする人々の勇敢さには、敬服する場合があります。 

 それで、四人のみ使いの中には、ローマカトリック教会やギリシャ正教会の信者が含まれているかもしれません。しかし、それらの人々は、完全に二人の証人に関して、描写されていることを行なっているわけではありません。ですから、四人のみ使いと二人の証人の実体は、重なる部分もあると考えられますが、完全に一致しているわけではないようです。 

 それで、大いなるバビロンは、剣をとって戦うことを行なうクリスチャンを捕らわれにするだけでなく、神の目に正しいことを行なう、平和のために努力をしているあらゆる国籍のクリスチャンたちを捕らわれにするようです。 

 それで、私たちはある場合、クリスチャンが正しいことをするために、迫害という不当な経験をする場合があることを覚悟する必要があります。 

 しかし、その場合でも、エホバに依り頼んで、正しい原則を固守するならば、エホバ神の介入を経験し、救われる場合もあります。 

 四人のみ使いが、大川ユーフラテスから、ほどかれる結果になるのはその例です。いつも、エホバ神に依り頼んで、正しい原則を固守するように努力をしましょう。エホバ神は助けてくださるかもしれないのです。 

(5)四人のみ使いたちは自分たちの経験によって背教する者たちもいるかもしれない 

 四人のみ使いたちは、神の目に正しいことを行ないながら、大いなるバビロンに捕らわれるという苦い経験をします。しかし、その中には、その経験のために大いなるバビロンに対して憎しみをつのらせて、教会員に対して剣をとって戦うことを奨励する者たちも現れるでしょう。 

 捕らわれになったとしても、その復しゅうのために剣をとって戦わないようにすることには、「忍耐と信仰」が求められると書かれています。(啓示13:10)「忍耐と信仰」が求められるとは、それらの特質を失って、剣をとって戦う者たちがいるかもしれないことを示唆しています。神の忠実なクリスチャンは、神が公正を行なって下さることに信仰を働かせて、自ら剣をとって戦うことを避けなければらないのです。 

 また、ダニエル書の中にも、捕らわれになるクリスチャンの中には、背教してしまうクリスチャンもいることが預言されているようです。「つまずきに渡されている時,彼らは多少の助けによって助けられる。だが,多くの者が滑らかさによって彼らに加わる。」と預言されています。(ダニエル11:34) 

 ですから、多くの者たちは、「滑らかさ」によって、北の王の「滑らかな言葉で背教に導き入れられる」人々の仲間になります。(ダニエル11:32) 

 さらに、啓示の書には、「地に住む者」が「皆」海から出て来る野獣と北の王に崇拝を捧げる時が来ることを予見しています。しかし、野獣の崇拝者の名前は、「ほふられた子羊の命の巻き物には,彼らのうちのだれの名も,・・・書かれて」いません。(啓示13:8)ですから、全世界が北の王に従って、南の王に敵対して戦うことが当然だという風潮になる時、その風潮に抵抗するのはとても難しい事になるでしょう。 

 ですから、大いなるバビロンから解放された四人のみ使いの中には、背教してしまって、剣をとって戦う立場になる者たちが存在することになるでしょう。 

大いなるバビロンから解放される四人のみ使いたちの中には背教して剣をとって戦うようになる者たちもいる

 

 それで、世界の趨勢が背教が人気がある時に、神の律法に固守するには、信仰と神に対する忠実が求められます。たとえ、神の律法を守るために命を落とすことがあるとしても、神の律法を守るならば、神の王国の新しいエルサレムに入るという希望は守られています。そのようにする人々をエホバ神は復活させて、「命の冠」を与えて不滅の霊者として復活させてくださいます。(啓示2:10) 

 神の律法を固守して、神の王国に入る希望を守るようにしましょう。聖書はそのようにする時、最終的には、その立場のクリスチャンの仲間は、あらゆる国籍の数えきれない大群衆になることを示しています。(啓示7:9,10,14)それで、将来的には、エホバ神に対する真の崇拝を固守する崇拝者のグループが全世界に存在することになります。

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