イエス・キリストは主である

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「イエス・キリストは主である」

村上 伸
イザヤ書42,1-4;

今年、「棕櫚の聖日」の説教テキストには、フィリピの信徒への手紙2,1-11が選ばれている。今日は、この箇所について共に考えたい。

前半(1-5節)で、パウロは、キリスト者の生き方について、あるいは教会生活の在り方について教えている。先ず1節で、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と言う。これは、互いの関係を正しく保つための前提である。つまり、共にキリストを見上げて励まし合う。神の愛を信じて慰め合う。神から注がれる「いのち」の力によって上っ面でない交わりをする。そして、互いに慈しみと憐れみの心を忘れない。

その上で2節では、パウロは、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして・・・」と命じた。ほとんど同じ内容の言葉が4度も繰り返されているのは、パウロが、「心を合わせる」ことが教会生活においてどんなに大切かを知っていたからである。これこそが、キリスト者の生活の基本原則であり、教会の目標である。

これをやや具体的に展開したのが、3-4節の「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」であろう。

この教えに従って生きることは、口で言うほど簡単ではないかもしれない。しかし、「そんなことは理想だ」と言って片付けてしまってはならない。というのは、パウロがこの勧めを書いたとき、彼の心の中には、実際にそのように謙虚に生き、自分のことだけでなく他人のことにも心を配っていたイエスの弟子たちの姿がありありと映し出されていたからである。パウロが回心する直前に殉教の死を遂げたステファノもその一人だった。そのような生き方は、パウロにとっては単なる「理想」ではなく、イエス御自身がその弟子たちと共に示された「現実」なのである。

5節に、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」とある。これは、やや持って回った言い方だが、文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」となっていて、私はこの簡潔さが大好きだ。

だが、この「キリスト・イエスの心」とは何だろうか? それを明らかにするために、パウロは今日の後半部分(6-8節)で、イエス・キリストの生き方を要約したのである。

すなわち、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

これが、いわば「キリスト・イエスの心」である。それは、「神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しない」ことであり、「自分を無にする」ことであり、「僕の身分になる」ことであり、「人間と同じ者になる」ことであり、「十字架の死に至るまで従順である」ことであり、一言で言えば、「へりくだる」ことであった。

私はここで、十字架の直前のイエスの特異な振る舞いを思い起こさずにはいられない。そのことについては、ヨハネ福音書13章に書かれている。その冒頭の言葉は私たちの胸を締めつけるように感じられる。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。そして、イエスは弟子たちの足を洗われた。彼は、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(4-5節)という。

足というのは、人間の体の中で唯一、地面に直接接する部位である。古代の人々は、簡単なサンダル位は履いていたかもしれないが、ほとんど裸足に近い格好でそこらを歩き回っていた。畑や道路には、羊やロバなどが所嫌わず糞を落として行くし、道も大抵は舗装してないから埃が立つ。雨が降ると泥濘になる。足はひどく汚れる。日本でも昔はそうだったが、旅人が宿について真っ先にしたことは足を洗うことであり、それは最下級の使用人(僕や婢)の仕事であった。この「汚れ仕事」をイエスは自ら行った、というのである。これが「へりくだり」の意味である。

弟子たちの足を洗った後で、イエスは、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14-15節)と言われた。これによって、彼の振る舞いの意味が明らかになる。人の汚れを嫌って避けるのではなく、むしろ、それを自分の手でふいてあげる。イエスの生涯は、このことのために捧げられたのではなかったか。。

それ故にパウロは、キリストの「へりくだり」について述べた後でこう言ったのである。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父なる神をたたえるのです」(9-11節)。これには深い意味がある。つまり、キリストの「へりくだり」こそ、神にとっては全世界で最高の価値を持つ、ということである。

「僕」として仕えられた方が「主」となられた! 十字架上で屈辱的な絶望の死を遂げた方が、三日後に栄光に包まれて復活された! この世界史上最大の逆説を、私たちは今日、深く心に刻まなければならない。



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