私は、基本的にエホバの証人を尊敬しています。彼らは、戦時中に良心的兵役拒否をしたクリスチャンのさまざまなグループの中で、もっとも人数の割合が多かったのです。殺人を避けるというのは、神のクリスチャンに対するご要求の中でも最も重要な要求の一つだと思います。(啓示21:8)エホバの証人は、それにかなっています。
また、わたしはエホバの証人だけでなく、他のキリスト教の教会にも交わってみましたが、客観的に見ても聖書の知識という点では、エホバの証人が一番すぐれていると思います。エホバの証人は、聖書の教育に力を入れているので、その分、他のキリスト教の教会員よりも聖書の知識ですぐれています。それで、わたしはエホバの証人は、限定的にエホバ神から是認と助けを得ていると思います。
しかし、残念ながら、エホバの証人は、大いなるバビロンが偽りの宗教の世界帝国であるという間違った教理を奉じています。その信条ゆえに、証人は、他のキリスト教の教会のメンバーを見下げてしまいます。その精神態度は、昔イエスに非とされたパリサイ人の態度に、通ずるものとなり得ます。
(1)自分たちのグループだけが正しいとするエホバの証人の間違い
私は、エホバの証人は、神の律法を守るように最善の努力を払っていることを知っています。エホバの証人は、殺人と淫行と偶像崇拝と心霊術と血を避けています。私は、エホバの証人のその立場は聖書に忠実で、正しいと思います。エホバの証人は、基本的に聖書的に、義なる者であると神からみなされると思います。(エゼキエル3:21)
しかしながら、エホバの証人は、緋色の野獣が今の国際連合であると解釈しています。そして、エホバの証人以外のキリスト教と諸宗教のグループは、国際連合によって、滅ぼされると考えています。そして、一世紀のクリスチャンが文字通りの山に逃げたにもかかわらず、山に逃れるとは、証人たちの組織という比ゆ的な組織の山に逃れることだと解釈しています。
エホバの証人は、啓示17章の大いなるバビロンをキリスト教を含むあらゆる宗教と解釈しているために、ローマカトリック教会やギリシャ正教、また、他のプロテスタント教会をすべて神が断罪し否認しているとみなします。それらの人々が将来は、緋色の野獣から滅ぼされてしまい神に断罪されると解釈しています。(啓示17:16)
そのため、証人たちは自分たちだけが神に是認され救われるキリスト教グループであるとみなしています。
わたしは、エホバ神がわたしたちの人間のからしの種粒のような信仰を評価されることから考えて、証人たちが正確な知識に欠如していたとしても、証人たちの信仰と忠実さを評価されていると思います。(マタイ17:20)確かに彼らの信仰と忠実さは、神に限定的に是認されていると思います。
(2)ローマカトリック教会により表明されたほめられるべき小さな信仰
しかしながら、そのことは、キリスト教の諸教会のクリスチャンについても言えると思います。ローマの法王が、カトリック教会の中から児童虐待の問題を根絶するために、児童虐待をしている聖職者を大量に免職したことがあります。それは、証人たちの会衆の中で、児童虐待をしていた長老や奉仕の僕を温存しようとした統治体や証人たちの支部よりも義にかなっている行為であるのでないかと思います。
2010年4月、教皇ベネディクト16世は、マルタにおいて、虐待被害者たちと会談し、涙をながして「遺憾と悲しみ」の意を表明し、祈りをささげるとともに、教会が全力で疑惑の調査を行って、虐待の責任者を処罰し、未来の若者達を守る方策を実施すると約束しました。 子どもへの性的虐待が原因で2011、2012両年に教会から解任処分などを受けた聖職者は384人に達しました。384人という聖職者の数は小さな数ではありません。これらの免職者の中には、法王の断固たる処置によって解任された聖職者も含まれていたでしょう。
また、ベネディクト16世に代わり、2013年3月に新たに教皇となったフランシスコは、この問題に関して「断固とした対応をとる」という声明を発表しました。それで、法王によりローマカトリック教会内の児童虐待をなくすために幾らかの努力は払われています。 わたしは法王によるこうした努力はローマカトリツク教会による小さな信仰の表明であると思います。もちろん、エホバ神に喜ばれるためには、そのために徹底的な努力を払う必要があります。
ローマの法王による聖職者の免職という断固たる処置をとることは、かなりの信仰と勇気が必要であったと思います。カトリック法王も自分の見地から、聖書の神に是認されるためにできるだけの努力を払っているのです。(3)ローマカトリック教会の野獣の崇拝という神への不忠実
確かにキリスト教の諸教会は、聖書の教えから離れた不忠実なところがあります。多くのキリスト教の教会は戦時中、政府の圧力に負けて兵士として戦いました。また、ローマカトリック教会の法王ピウス11世は、第二次世界大戦中、ヒットラーのナチス党と政教条約を結び、バチカンは、ナチス政権をドイツのために祝福するとともに、聖職者たちにナチス政権に忠誠を誓うことを命じました。 この法王ピウス11世の行いは宗教団体が神ではなく、政治組織に服従を誓うという政治組織の野獣の崇拝という偶像崇拝です。そのために、ローマカトリックの教会員は、聖書の殺人を禁ずる教えを投げ捨てて、ヒトラーのナチス党に服従して、ドイツの兵士として戦ったのです。
しかしながら、もし、証人以外のキリスト教の教会をすべて神に否認されていると断罪するならば、聖職者による児童虐待を正す努力をローマカトリック教会の法王が払ったこと、エホバの証人以外にも確かに、戦時中、良心的な兵役拒否をして殺人や国家に対する偶像崇拝を禁ずる神の律法に忠実を保ったキリスト教のグループ、あるいは個人が存在したことを無視することになります。また、戦時中、日本でも、天皇崇拝という偶像崇拝を避けるように努力したキリスト教教会は、エホバの証人以外にも存在していたのです。
私は、戦時中に日本では、セブンズデーアドベンティスト教会やホーリネス教会、また、美濃ミッションなどその他のキリスト教の教会がその信仰のゆえに迫害されていたことを知っています。四日市市の美濃ミッションは、偶像崇拝を断固として拒絶するという立場により戦時中に迫害されました。その際に、美濃ミッションの信者は聖書から証言しており、聖書を良く読んでいることを示しました。ですから、エホバの証人以外のキリスト教の諸教会の中にも、殺人や偶像崇拝や淫行を退けるクリスチャンが存在していました。
また、諸教会の中には、貧困に苦しむ諸外国や地震などの災害時に国内や諸外国で実際的な援助を行なうキリスト教のグループが存在します。その行いは、愛ある親切な行いであり、親切なサマリア人の行いにも例えられることを否定することはできないでしょう。(ルカ10:33-37)
(2)わたしの解釈と立場
私は、ローマカトリック教会やギリシャ正教を緋色の野獣に攻撃される大娼婦であるとは解釈していません。しかしながら、誠実に聖書を解釈していき、現在の所、ローマカトリック教会とギリシャ正教の諸国家は、その「違反」のゆえに、緋色の野獣から軍事攻撃を受けることになるという解釈にたどり着きました。(啓示11:3,7)これは、わたしが恣意的に解釈したものではなく、聖句をひとつひとつ解釈して結びつけていった結果たどり着いた解釈です。
これからも、このわたしの解釈が正しいかどうかを聖書全体を調べて検証していきます。しかしながら、わたしは、それでも、ローマカトリック教会とギリシャ正教のクリスチャンたちがすべて神から断罪されといるとは考えていません。その中には、忠実な個々のクリスチャンが含まれていると考えています。聖書を読めば、聖書が何を正しいと言い、何を悪いと言っているか誰でもある程度のことは分かるはずだからです。
また、聖書は、神が小さな信仰でも評価してくださることを示しています。そうであれば、ローマカトリック教会とギリシャ正教のクリスチャンたちは、神から「多少の助けによって助けられる。」ことにはなるでしょう。(ダニエル11:34)それで、わたしはローマカトリック教会とギリシャ正教のクリスチャンの中には、神に忠実なクリスチャンと不忠実なクリスチャンが含まれていると考えています。 さらに、聖書は、ギリシャで真のキリスト教の復興が行われることを預言しているようです。(ゼカリヤ9:13)ですから、聖書は、ローマカトリック教会やギリシャ正教が違反があることを認めていますが、見捨ててはいません。
そして、自分自身に関しては、聖書の知識に関してはすぐれていると考えています。しかしながら、単に知識があるだけで神に忠実であるとは言えません。ですから、これから死ぬまで、神のご意志を行ない、忠実で思慮深い奴隷としての務めを果たし続けて、「冠」、つまり神の王国に入るという希望をだれかに「取られないように」しなければならないと思います。それで、怖れの気持ちを持ちながら神に依り頼みつつ、努力をし続けています。(啓示3:11)
(3)パリサイ人は自分たち以外の人々の信仰を見下げてイエスから非とされた
しかし、エホバの証人は、自分たちの宗教グループに属するクリスチャンだけが正しく、救われると考えています。そうすると、聖書の中で、イエスが非とされたパリサイ人のように神からみなされる危険があるのではないでしょうか。
イエスは、あるパリサイ人が、自分が罪人のように罪を犯していないことを祈りの中で誇ったことに言及しました。あるパリサイ人は立って次のように祈りました。「神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。」(ルカ18:11)彼は、収税人や他の人々を見下しました。
イエスはその話の中で、収税人の方は、胸をたたきながら『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言ったと述べました。(ルカ18:13)確かに、イエスの話の中のパリサイ人が、神の律法を守っていることは良いことでした。ところが、イエスは、「この人(収税人)は,先の人(パリサイ人)より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」と言われました。(ルカ18:11-14)
また、パリサイ人は、聖書の中に要求されていない義の基準を設けて、それに達しない人々を、独善的に断罪して見下げていました。パリサイ人は、イエスに小さな信仰を抱く大勢の一般の人々に関して、「律法を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ」と言って見下げました。(ヨハネ7:49)
大いなるバビロンに関する教理のゆえに、そのような精神をエホバの証人は、示してしまうかもしれません。
なぜなら、エホバの証人は、その教理のゆえに、他のキリスト教の人々を大いなるバビロンで神に裁かれるとみなします。ですから、他のキリスト教教会の人々の良い所を認めません。それで、エホバの証人は神の律法を守る立派な努力をしているのですが、その教理のために、他の人々、また、他のキリスト教の教会の人々を一様に悪いとみなして見下してしまい、イエスが言及されたパリサイ人のようになってしまうかもしれません。
ですから、わたしはエホバの証人は、神の律法を守る立派な努力をしていると認めざるを得ませんが、諸宗教を大いなるバビロンとする間違った教理のために、パリサイ人の精神を示して、他のキリスト教の教会員たちを一律に悪いと裁いてしまう危険性があります。 それで、エホバの証人は、大娼婦大いなるバビロンの実体は、果たして諸宗教であるのかその教理を見直す必要があると思います。そうしなければ証人は、その教理のゆえに、神の律法を守る立派な努力を払いながら、パリサイ人のようにみなされてしまうという危険性があると思います。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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