主なる神の助け

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主なる神の助け

 伝承によれば、主イエスが生涯最後の数日を過ごすためにエルサレムに入られたのは今日である。群衆は、「ホサナ(=私たちに救いを)。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マルコ11章9節)と叫んで彼を歓迎した。ヨハネによると、彼らはその時、「なつめやしの枝」(12章13節) を持っていたという。なつめやしと「棕櫚」は、厳密には同じではないが、感じが似ているからだろう。この日は後にPalm Sunday(棕櫚の日曜日)と呼ばれるようになった。この日から主イエスの苦難が始まる。そして、金曜日に彼は十字架上で絶命されたのであった。

 さて、今日の説教テキストに指定されているのは、だ。このことには大変深い意味がある。それが「主の僕の歌」の一つだからである。

 「主の僕の歌」とは、イザヤ書40-55章、つまり一般に「第2イザヤ」と言われている所に特有の不思議な歌のことである。全部で四つある。最初が42章1-4節で「主の僕の召命」を歌ったもの。第2は49章1-6節で「主の僕の使命」。次が今日読んだ50章4-9節で「主の僕の忍耐」。そして最後が、最も良く知られた52章13節-53章12節で「主の僕の苦難と死」である。

 一体、「主の僕」とは何者なのか?

 最初の歌に、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ・・・」(42章1節)と言われていることからも分かるように、神によって選ばれ、神によって支えられ、神に喜ばれ、神の霊によって導かれる存在である。

さらに言えば、この人は「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(2節)。その頃の預言者たちのように、自らをひけらかすために大言壮語したり、大声で人々の罪を追及したりはしない。むしろ、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこともない」(3節)ように細やかな心遣いをする。心に深い傷を負って前途に望みを失いそうになっている人々を、優しく助け起こす。しかも、その優しさが正義を犠牲にすることはない。「裁きを導き出す」とは、そういう意味だ。「主の僕」は愛と正義を両立させることができる。これこそ、第二イザヤが自らの目標として心に思い描いていた理想像だったに違いない。

この箇所を読んで、主イエスを想起する人は少なくないであろう。マタイ福音書によると、彼はヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(3章17節)という天からの声を聞いた。神に召されたのである。この神の召しに従って生き始めたイエスは、死の蔭の地と言われたガリラヤ地方を巡り歩き、「御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4章23節)。「主の僕」は驚くほどイエスに似ている。

第2の歌は「主の僕の使命」(49章1-6節)を描き出す。これによると、「主の僕」は、神の救いを地の果てまでもたらす」(6節)という使命を自覚して生きるが、やがて挫折する。第2イザヤは自分自身のことを言ったのかもしれない。彼は、イスラエル民族がバビロン捕囚から解放されるという大きな喜びを経験して慰めを語ったが、間もなく深刻な失望を味わった。解放者である筈のペルシャ王キュロスのその後の政策は彼の期待を裏切ったし、その上、解放された人々は必ずしも故国に帰ることを喜ばなかった。わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした(4節)という嘆きは、第2イザヤが直面した現実であった。

だが、第3の歌(50章4-9節)では、「主の僕」はその苦しい現実の中でじっと忍耐する。与えられた使命への道がどんなに辛いものであっても、「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(5-6節)。どうしてこのように耐えることができたのだろうか?

この人物には、生来、強い忍耐力が備わっていたのか?それだけではあるまい。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」(4節)。神がこの私の口と耳を呼び覚まして、命の言葉を語りかけ給う。だからこそ自分は預言者の使命を遂行できる、というのである。この主なる神の助けなしに忍耐することは不可能である。「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを(=嘲りと唾を)嘲りとは思わない」(7節)。「主の僕」は、しぶとく持ちこたえる。わたしの正しさを認める方は近くいます(8節)と信じるが故に、彼は高らかに「見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めよう」(9節)と歌う。

主の僕の忍耐。これも、主イエスを彷彿とさせる。イエスも十字架の直前、頬を打たれ、嘲りと唾を吐きかけられたが、黙ってそれに耐えておられたではないか。

さて、「主の僕」が何者であるかを決定的に明らかにするのは、52章13節-53章12節の最後の歌「主の僕の苦難と死」である。彼には「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(2-3節)。世間の人々は、この人がこれ程の苦難に遭ったのは、いわば「自己責任」であって、神の裁きを受けたのだ、と言う。しかし、「彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためだ」(5節)と第2イザヤは言う。「わたしの僕は多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)。何という深い思想であろう!

 そして、この「主の僕」の姿は、主イエスのそれとピッタリ重なるのである。


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