エリコという町は、死海の北西約10kmの所にあり、昔から交通の要衝であった。ヘロデ大王が作った壮麗な宮殿もあり、人の行き来で賑わっていた。こういう場所に「網を張る」ようにして、ローマは税関を作り、通行税や市場税を取りたてていたのである。当時、ローマの占領当局は、税金徴収の業務をユダヤ人の「徴税請負人」に任せていた。今日の言い方で言えば、「民間に委託して」いたわけであろう。今日登場するザアカイという人物は、その「徴税人の頭」(2)、つまり親分であった。
これら徴税請負人が立場を利用して「さや稼ぎ」や「ピンはね」をしていたことは隠れもない事実であり、従って徴税人の多くは金持ちであった。もちろん、ザアカイも親分であるから、しこたま貯めこんでいたことであろう。
さて、イエスはこの時、エリコの町を通り過ぎようとしていた。ザアカイは、イエスという人物について、何らかの噂を耳にしていたのであろう。興味を持って、一目見たいと思ったが、「群集に遮られて見ることが出来なかった」(3)という。これは変である。いくら背が低いといっても、人一人分の隙間を空けてやることぐらい、出来ないはずはない。これが親しい人であったら、「どうぞどうぞ」と言って見せて上げるだろう。そうしなかった所に、群集の悪意を感じる。もしかしたら、わざとひじを張って「ここは満員だよ」と意地悪をしたのではないか。――この男は徴税請負業者の親分で、憎いローマの手先になったばかりか、俺達から巻き上げた税金を「ピンはね」して私腹を肥やしている。いわば、二重に俺達を裏切った悪い奴だ――そういう気持ちが、この情景から伝わってくるようではないか。
そこで、ザアカイは「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(4)。この姿はいささか滑稽だが、どことなく哀れである。金はうなるほど持っているが、だれからも愛されず、尊敬されない孤独な男!
ところで、「いちじく桑」というのはクワ科の常緑樹で、高さは10-15メートルにも達するという。エリコには今も、「ザアカイが登った木」なるものが残っていると聞くが、本当だろうか。写真で見ると、かなりの大木だ。とにかく、彼はこの種類の木の上からイエスを眺めていた。すると、彼にとって実に意外なことが起こった。
その木の下まで歩いて来たイエスが、いきなり上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5)と呼びかけたのだ。どうしてこの方は、私の名前を知っているのだろう。なぜこの方は、誰からも相手にされない私の家に、泊まりたいと言うのだろう。だが、驚きは一瞬の内に大きな喜びに変わる。ザアカイは転がるようにして降りてきて、「喜んでイエスを迎えた」(7)。
だが、イエスのこの行動は、それを見ていた人々の冷たい批判にさらされた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(7)というのである。
福音書が「罪深い男」、または「罪人」と言う場合、それは今日我々が考えるような刑法上の「犯罪人」(例えば殺人犯)という意味ではない。あるいは、夏目漱石が『こころ』など後期の作品群で問題にしたような「内面的・道徳的な罪」というのとも違う。いわば、「社会が貼りつけたレッテル」である。
つまり、当時の宗教活動の中心的な担い手であった律法学者やファリサイ派が、「安息日に働いた」とか、「定められた犠牲を献げていない」とかいうことを咎めて「あれは律法を守っていない」と断定すると、その人々は「罪人」になる。そして、周りのすべての人がそういう目で見るから、「罪人」と言われたら最後、そこから自由になることは難しい。その中には、いわゆる「犯罪人」の他に、売春婦・乞食・船乗り・羊飼い・肉屋・皮なめし業者・各種の下級労働者・異邦人なども入っていた。そして、その代表が徴税人だったのである。
だが、『罪と罰』のソーニャのように、貧しさの故に、生きるためにはそういう職業に就かざるを得なかった人もいる。その人たちは「罪人」というレッテルを貼られ、軽蔑され、差別される。しかも「正しい人々」は、ある意味でこれら「罪人」の生業を利用して生きている。この悲しさや悔しさを、誰も理解してくれない。
だが、イエスはこのような社会一般の見方から全く自由だった。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」!こういう言葉をかけてくれた人、「罪人」の家に泊まってくれた人が、これまで一人でもいただろうか?
誰からも愛されず、尊敬もされず、深い孤独感の中で、頼りになるのは金だけだと自分に言い聞かせて、「ピンはね」に精を出してきたこの年月。だが、そんな風にして貯め込んだお金が、一体何の役に立つというのか。そのことに、彼は自分でも気づいていたはずだが、止められない。この絶望感の中にいる彼に、一人の尊い人格に呼びかけるようにして、イエスの人格的な言葉が来た。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」!これがザアカイを解放したのである。「今日、救いがこの家を訪れた」(9)。
ザアカイは変わる。彼は「私は財産の半分を貧しい人々に施します」(8)と約束する。 当時、ファリサイ派のラビたちは、義援金を出す時、財産の五分の一を寄付していたという。また、徴税人は騙し取った金額を弁償する時、その全額に更にその五分の一を加えることを義務づけられていた。「半分を施す」とか、「四倍にして返す」というザアカイの決心・約束は、当時の水準を遥かに超える。これは、彼の喜びがどんなに大きかったかを示すものだ。
このように、「人の子(イエス)は、失われたものを捜して救うために来た」(10)。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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