ルカ9章51節に 「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とある。この時から、十字架を覚悟してエルサレムへ向かう旅が始まる。この旅の途中で、イエスはいくつかの注目すべき業を行い、印象的な教訓を与え、後世に残る多くの譬え話を語られたと、ルカは書いている。今日の譬えは、エルサレムに入る前に語られた最後のものだ。
しかし実際には、ルカはイエスの死後50年も経ってから、この福音書を書いているのである。だからここには、紀元1世紀末頃のキリスト教会の意識や思想が反映されている、と言わなければならない。
初代の教会は「主イエスは復活した、今も我々と共に生きている」と信じた。しかし、主イエスは目に見える形で手の届く所にいるわけではなく、「天に上げられた」(24,51)。つまり、目には見えない形で我々と共に生きているのである。
やがて終末の時が来て、彼は再び来たり給う。だがそれまでは、我々はこの世で、彼を目で見ることはできないけれども、帰って来られる日に備えていわば「留守番」をしているのだ。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために遠い国へ旅立った」(12)という冒頭の言葉は、この初代教会の意識を反映している。この、「王の位を受けるために」旅立った「立派な家柄の人」とは、イエス自身のことであろう。
今、私は「留守番をしている」という言い方をした。この考えは、現代の私たちにも当てはまるのではないか。私たちのこの世における生活は、主イエスが再臨されるまでの「留守番」である。
「王の位を受ける」ことになっていた「立派な家柄の人」は、出発前に「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」(13)という。つまり主人は、ただ漫然と帰宅を待つようにと言ったのではない。そうではなく、留守中に果たすべき課題と、そのために必要な元手を与えて旅立った、のである。我々の人生はこういうものだ、というのが初代の信徒たちの人生観だった。そして、現代の我々もそう考えるべきである。我々は、限られた時間の中で、与えられた可能性を活用して、それぞれの課題を果たして生きなければならない。
さて、今日の譬えでは、一人当たり「1ムナ」づつ与えられたという。それをどう使うかは各自の自由に任された。「ムナ」はギリシャの銀貨で、1ムナは百ドラクメ(=百デナリオン)。当時、労働者の1日分の給料が約1デナリオンと言われるから、「1ムナ」はおよそ三ヶ月分の生活費に相当する。何千億円という「不良債権」に比べれば些細な額だが、しかし、ちょっとした可能性である。「これで商売をしなさい」(13)、と主人は言う。実際、給料の三ヶ月分もあれば、それを元手にして何かの商いを始め、利潤を上げることは十分に可能である。それだけの可能性と課題が、我々には与えられているということだ。
十人の僕たちは、早速その「1ムナ」を使って商売を始めた。主人が帰ってきた時、それぞれその結果を報告するのだが、この辺は、現代企業の「業績主義」と似た所がある。ある人は十ムナを儲けたと、鼻高々だ。それに対して、上司は「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」(17)と表彰状を渡し、出世させる。五ムナを稼いだ人も、同様に報いを受ける。だが中には、預けられた1ムナをなす所なく「布に包んでしまって」(20)置いた「やる気のない」人がいて、そのことを上司に厳しく叱責される。マタイにも同じような話があって、そちらの方では「地の中に隠しておいた」 (25,25)ために叱られる。業績を上げさせるために厳しく尻を叩くトップの話と似ていないことはない。
だが、むろんこの話は、「業績主義」を主張しているわけではない。いずれの場合も、重点は「自分に与えられている可能性を活用する」という所にある。我々には、どんな人であっても、そしてどんなに小さくても、何らかの可能性が与えられている。それを生かすことが、我々の人生の意味なのである。
一昨日の毎日新聞夕刊に、痛ましい、しかし心を打たれる記事が載っていた。昨年7月、山梨県富士吉田市の中学校の、4階建て校舎の屋上から16歳の少年と少女が飛び降り、暴走族のリーダーだった少年だけが死んだ。警察は、シンナーの幻覚症状による衝動的自殺と断定したが、調べてみると、少女はかねてからこの少年を信頼して「両親や周囲との人間関係が上手く行かない、死にたい」と打ち明けていたことが分かった。少年は何度も説得して思い止まらせようとしたが及ばず、一人で死なせるのは哀れだと同情して一緒に飛び降りたらしい。ところが、生き残った少女の話では、一緒に飛び降りた少年は少女の体を自分の上に抱きかかえ、自分から先に地面に激突した。そして、地面に叩き付けられる一瞬前に、彼は「生きろ」と叫んだという。
1秒にも足りない短い時間を、この極小の可能性を、彼は生かした。
一周忌に当たる今週の木曜日に、追悼の集まりが計画されていて、それには500人ほどの元暴走族の仲間たちが集まることになっているが、この集会にはバイクや車は一切使わずに参加するという。
その少女からの手紙が最近届いた。「目が見える、耳が聞こえる…。当たり前のことがこれほど素晴らしいとは思わなかった」。少年は、自分に与えられた小さな可能性を生かした、と言えないだろうか。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.