「正しい人の苦しみ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

この手紙は、第一世紀の終わり頃、ある無名の指導者が小アジア(現在のトルコ)で迫害に苦しんでいたキリスト者共同体に宛てて、ペトロの名を使って書いた励ましの手紙だと考えられている。

迫害といっても、キリスト教を禁止する法律が公に制定されたのはトラヤヌス帝の時(110年頃)で、それ以前は概して散発的であった。この手紙の背後に想定されるのは、「キリストの名のために非難される」(14)とあるように、キリスト者に対する中傷や非難といった地方的な性格のものであって大量虐殺を伴った全面的な迫害ではない。「火のような試練」(12)という言葉も、激しさを表すというより、第一コリント3,12-15 に言われているような「吟味」の意味だろう。

さて、初代のキリスト教徒は、いわれのない非難・中傷に悩まされた。イエス自身が「神を冒涜する者」というレッテルを貼られて処刑されたことを考えれば、その弟子たちが同じような目にあっても不思議ではない。だから、「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12)と言われる。むしろ、「キリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい」(13)。彼らは、キリストの十字架の苦しみにこそ神の臨在が示されたという逆説的な信仰を持っていたから、「キリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」と言うことが出来た。この信仰が、迫害に耐えて希望を持ち続ける原動力であった。ここには、迫害者への憎しみとか反撃といった思想は全くない。愛において苦しみを甘受する。これは人間関係を新しくする力を持つ。

 

昨夜のNHKテレビで、南独・オーバーアマガウの受難劇のことが取り上げられた。360年前から、10年に一度、村を挙げて上演されるもので、今年がその年に当たる。半年の間何度も上演され、世界中から、無論日本からも多くの観光客がこの劇を見るために訪れる。

ところが昨夜の番組は、この劇には、ヒトラーが実際にこの劇を見て、その「反ユダヤ的な」思想の故に賞賛したことを紹介していた。だが、正にこの「反ユダヤ主義」を理由に、この受難劇は戦後ユダヤ人団体から厳しい批判を受けるようになり、村でもこの批判に答えるために劇の改革を試みた、ということである。

イエスはユダヤ人の指導者たちによって宗教裁判にかけられ、十字架上で殺された。これは事実だし、その後、初代のキリスト教会がユダヤ教徒から迫害されたという事実もある。

もちろん、イエスはユダヤ人であったし、初代のキリスト教会を構成していた大部分の信徒たちもユダヤ人であった。ユダヤ人の内部に「迫害する人」と「迫害される人」があったわけで、これはどの民族でも同じことである。だから、「ユダヤ人はすべてキリスト教の迫害者」という言い方は、本来出来ないはずだ。

しかし、時が経ってユダヤ人以外のキリスト者の数が増えて主導権をとるようになると、特に、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されるようになった第4世紀以降、次第に「ユダヤ人がキリストを殺したのだ」という言い方が定着するようになる。「ユダヤ人はキリスト殺し・神殺しである」という「反ユダヤ主義」的なレッテル貼りがまかり通り、それはしばしば法律によるユダヤ人差別につながった。

先程、オーバーアマガウの受難劇が第二次大戦中ユダヤ人迫害のために利用された、ということに触れたが、これはヒトラーに限ったことではない。この種の「反ユダヤ主義」はキリスト教会成立の頃から広がり始めていたのであり、1981年にはドイツの教会が、「ホロコースト」についてはキリスト教会にも責任があると告白して、ユダヤ人との関係修復に乗り出したのであった。

さて、この「ペトロの手紙」では、キリスト教徒はまだ少数者で迫害を受ける側であった。この人たちを慰めたり励ましたりするために、あなたがたは「正しい人」であり、「神の栄光の霊はあなたがたの上に留まる」と言われている。だが、敢えて言うが、これは「永遠に変わらない真理」ではない。キリスト教が国教としてあらゆる特権を受け、ユダヤ人を迫害するようになってからは、もはやこの言葉を無批判に使うことは出来ないのだ。

 はじめ迫害を受けていたキリスト教会が、立場が変わるとユダヤ人を迫害する側にまわる。ユダヤ人も同様だ。これが、人間の「原罪」であって、それはキリスト教会の中にもユダヤ人の中にもある。このことを深刻に考えさせられる。

親友のドイツ人から手紙が来た。この春、タマルという所で開かれた「マルチン・ブーバーの『我と汝』に関するゼミナール」に出席して深く学ぶことが出来たといって、詳しい報告を送ってくれたが、それに自作の詩が添えられていた。――「『アウシュヴィッツの後では、』と何年も前にあるドイツの詩人が言った。『アウシュヴィッツの後では、もう詩を書くことなど出来はしない』と。この詩人が何を言おうとしたのか、僕にはずうっと分からなかった。タマルで、ホロコーストを経験した人の娘に出会い、彼女の痛みが僕を撃つまでは」。

彼はこの女性と出会って、衝撃を受けた。故なく苦しめられた人の苦悶の表情を見、苦しむ魂のうめきを聞き、その体の震えに触る。イエスの十字架を見上げるということは、本来、そのような出会いであって、真にこのような出会いを敬虔する時、我々は、「被害者が何時の間にか加害者に変わる」という災いから解放されるだろう。



The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help