「高ぶる者は低くされる」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「ファリサイ派」は、福音書の中にしばしば登場する。この一派は、紀元前2世紀半ば頃に始まったと言われている。「ファリサイ」の語源は「分離」ということらしい。モーセ律法をちゃんと守らない不真面目な連中から「自らを分離する」という意味だ。「朱に交わって」赤くなってはいけないので、その連中とはあくまで一線を画し、厳格に律法に従って生活することによって自分たちの倫理的・信仰的な純潔を守ろうとする誇り高い人々である。

その一人が祈るために神殿に入った。彼は「立って、心の中でこのように祈った」(11)。ここで少し注釈を加えると、当時、人は祈る時、立って両手を天に伸ばして神に呼びかけるのが普通であった。だから、同じ時に神殿に入った徴税人も「立って」(13)いる。しかし、この人の場合は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈った、という。同じように「立って」はいるが、いかにも自信がなさそうである。ファリサイ派の方は、恐らく胸を張り、徴税人を「見下す」(9)ような感じが姿勢にも現れていたのではないか。

さて、ファリサイ派の人の祈りはこうである。

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11-12)。

「奪い取る」とは十戒の中の第八戒「盗むな」への違反、「不正な者」は第九戒「偽証するな」の違反、「姦通を犯す者」は第七戒「姦淫するな」の違反である。自分は、そのような律法違反を決してしていない、というのである。「週に二度断食する」とか、「全収入の十分の一を献げる」というのも、並みの人間以上に律法に忠実な生き方をしていることを誇った言い方であろう。

さすがにこの人は、自慢げにそれを言葉に表して祈ることはしていない。だが、「心の中で」そう言っている。イエスは、ファリサイ派の心の中を見抜いていたのである。この人々は、確かに真面目だ。ユダヤ人として模範的な生活と言ってもいい。だが、彼らは心の中で、「自分で自分の正しさを証拠立てる」ことが出来るかのように考えている。自分は、律法違反を決してしないし、週に二度断食もしている、その上、全収入の十分の一を献げている、等々。

しかもその際、絶えず自分を他の人と比較しながら自分の正しさを主張する。「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。律法主義というのは、他人と比較して自己の正しさを誇る「比較級」の思想であり、それに基づいて自己を義と認めさせようとする「自己義認」の道である。このような、「自分は正しい人間とうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、イエスは今日の譬えを語られた。

他方、徴税人のほうは、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」、ただこう祈った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13)。これは実に単純な祈りだ。誇るべきものは何一つ持たないから、弁解も言い逃れもせず、ただ自らの罪を認めてひたすら神の憐れみを祈り求める。そしてイエスは、この祈りを神は聞いてくださる、この人は義とされる(14)、というのである。

 

私はしばしば考える。

聖書の中の代表的な人物は、「自己義認」とは無縁の人々であった。モーセもダビデも、あるいはペトロもパウロも、自分の罪を知っていた。それを神の前で告白した。単純に、真っ直ぐに告白して、神の赦しをひたすらに乞い求めた。→ 詩編51編

他の人もやっているとか、あいつらに比べればまだマシではないかとか、そういった比較をせず、ただ一人神の前に立ち、いかなる弁解も言い逃れもせず、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る。神は、このような在り方を喜ばれる。

 

第二次世界大戦が終わった時、1945年の10月に、ドイツの教会はナチズムに抵抗できなかった自らの罪責を告白した。「シュトウットガルト罪責宣言」である。反ナチ抵抗の有力な指導者だったニーメラーや、後に西ドイツの大統領になったハイネマンなど、最も良心的な指導者たちが署名している。

この罪責告白の心臓部とも言うべき部分は、次の一節である。

「大いなる痛みをもって我々は言う。我々によって、終わりなき苦しみが多くの民族と国々の上にもたらされた。…それを我々は今、全教会の名において告白する。確かに我々はあのナチズムの精神に抵抗して戦っては来た。しかし、我々は自らを告発する。我々はもっと勇気を持って告白せず、もっと真実に祈らず、もっと喜ばしく信ずることも、もっと熱く愛することもしなかった」。

ところが、今読んだ最後の文章は比較級で書かれている。これが「言い訳がましい」として、共にナチズムに抵抗した告白教会の仲間たちから厳しく批判された。ある人は、「聖書の中で罪の赦しを祈り求めた人が、一度だってこんな言い方をしたことがあるだろうか」、と疑問を呈した。

これは正しい。赦しを求めるのに、言い訳も言い逃れも要らない。単純に「お赦しください」と祈るだけでいい。徴税人のように単純に祈ればいい。このような祈りが神によって聞かれるのである。



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