教会で悩み相談をすると、よく「そんなの証し<あかし>にならないよ!」と言われます。どういう意味でしょうか?
「それは証し<あかし>にならないよ」。教会でよく言われる言葉だ。「証し<あかし」という単語にピンとこない人も多いかもしれない。要するに、「そんな生き方を他人に見せたら、クリスチャンらしくないからやめなさい!」という意味である。例えば、酒を飲むとか、テストでいい点をとらないとか、きちんと働かないとか、失敗してくよくよ悩んでいるとか、そういう姿である。そういう人たちに対して、教会のオバちゃんたちは、「そういうのは証しにならないわよ」とバッサリ言うのである。教会で、仕事の悩みなどを相談すると、絶対にこの言葉を聞くことになる。そういう経験を一度すると、教会で本音の話ができなくなってしまう。
「証しにならない」と言う人たちの頭の中には、「クリスチャンたるもの、常に清く正しく美しく生きなければならない」という考えがあるのだろう。または、「クリスチャンは常に成功していなければならない」という想いがあるのかもしれない。でも、その考えは本当に正しいのだろうか。
今回の記事は、「そもそも証しって何?」「本当の証しとは何か」という視点で書いていこうと思う。
教会で聞く「証し<あかし>」または「証し<あかし>をする」という耳慣れない表現は、どこから来た表現なのか。実は、聖書にはこの「証し」という表現がたくさんある。その例を見てみよう。
彼(バプテスマのヨハネ)は光ではなかった。ただ光(イエス)について証しするために来たのである。
(ヨハネの福音書 1:8)
もしわたし(イエス)自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。
(ヨハネの福音書 5:31)
このように、「あかし」という言葉は聖書のいたるところに出てくる。では、「●●が●●を証しする」というのは、どういう意味なのだろうか。「ガリラヤのイェシュー」を書いた山浦玄嗣氏は、このように解説している。
聖書には「証し」とか「証しする」という言葉がよく出てきます。国語辞典にはこうあります。
証し=①証拠・証明。
②後ろ暗くないことの証明。
普通、世間では「証しする」という言い方はしません。「証し」は、「身の証しを立てる」とか、「生きている証しだ」という言い方で用います。「証し」は「あかす」という動詞の連用形から派生した名詞です。クリスチャンと名乗る方はよく「聖書の学びをする」という奇妙な言い方をします。「聖書を学ぶ」と言えばいのに、なぜでしょう。これはキリスト教特殊語法です。「証しする」も、この類です。
ところで、聖書で「証しする」という意味は、前後関係から見て、「証し=証明・証拠」と説明する国語辞典の意味とは趣が違います。(中略)
「犬が哺乳類であることを証明する」という文は意味が通りますが、「犬を証明する」は何のことやら見当もつきません。証明とは常に「AがBであることを」が内容として示されなければなりません。A、Bどちらを省いても証明になりません。
「証しする」と訳された「マルテュレオー(ギリシャ語)」の意味は、辞書によると「証言する、証人である、証しする」です。日本語の「証言」の意味は次のようです。
証言=①事実を証明すること。
②証人の陳述。
出展:山浦玄嗣「イチジクの木の下で 上」P:224-227 2015.
山浦氏によれば、聖書の「証しする」は、「証人として●●を証言する」、言い換えれば「ああ、いかにもそうだなぁ、と思わせる」ということだそうだ。
若干補足すれば、福音書の著者たちの宗教的な思考言語であったであろう、ヘブライ語の「あかし」は、「エイド」という言葉で、こちらも「証人・証言」という意味である。つまり、ヘブライ語的にも、「証しする」という言葉は、「証拠・証明」というよりは、「証言する」「証人となる」という意味なのだ。わかりやすく言い換えれば、「明らかにする」「確からしくする」という意味と考えられる。
以上のようなことから、先に示したヨハネの福音書の内容を、山浦氏は以下のように訳した。
その人(バプテスマのヨハネ)はその光ではなくて、光(イエス)についてあまねく世に知らせようとして来た人だ。
(ヨハネの福音書 1:8)
もし俺(イエス)が、俺の言うことは本当なんだと自分でいくら言い立てたとて、そんな言葉は信用できまい。
(ヨハネの福音書 5:31)
「証しをする」というのは、「『ああ、●●って本当なんだなぁ』と思わせるように、証言する行為」と言えるだろう。
では、クリスチャンたちが「証しする」と言う時、何を「本当なんだなぁ」と思わせようとしているのか。無論、「神の存在」「イエスの存在」である。もっと踏み込めば、「神がどれだけ偉大な方か」「イエスの懐がいかに深いか」を明らかにするのが「証し」である。
よく、クリスチャンの集会に行くと、「証し」と称して誰かの過去話を聞かされる場合がある。「証し」は、神やイエスの素晴らしさを明らかにするものだが、時々この重要なポイントを忘れてしまっている人がいる。そういう人たちの「証し」は、「私はこれだけ頑張って、これだけ成功しました!」という、ただのサクセスストーリーだ。そういう人たちの証しは、一見、「神」という言葉は使っているが、その結論がしょうもない。「たくさん献金したら、もっとお金が入ってお金持ちになりました!」とか、「神様のおかげで一流大学に合格しました!」という、「神、関係なくない?」といった話が多いのである。これでは、「証しではなく」ただの「深イイ話」である。これらは、驚くべきことに、全て私が教会で聞いたことのある実話だ。
今まで聞いた証しで一番しょうもなかったのは、某国の自称クリスチャン・アーティストが、「神様はボクをこんなにカッコよく造ってくれました。だからこうしてみんなの前で歌えます」と言って、上着を脱ぎ、タンクトップ姿になった証しだ。えっ・・・神の素晴らしさではなく、結局ただの自慢じゃん・・・と思ったのだが、会場は「キャー」という黄色い声援に包まれていた・・・。
「神を信じたら、人生うまくいった」
「神にお願いしたら、お願い事が叶った」
クリスチャンの「証し」って、そんな程度のものなのだろうか。努力で勝ち得るものなのだろうか。否。本物の証は違う。
私が考える、本物の証しは、「神がどれほど憐れみ深い方か」明らかにするものである。クリスチャンは、自分が清く正しく生きたから、救われるのではない。イエス自身が、まだ私たちが生まれるはるか前に、十字架で死ぬことを選び、私たちに寄り添うことを選んだのである。自分たちの努力によらない、一方的な救いである。クリスチャンはこれを「恵み」と呼ぶ。
努力によらず、行いによらず、ただ「恵み」による救いを信じるのが、クリスチャンだ。であるならば、その神の「懐の深さ」を証明するには、「清く正しい生き方」ではなく、「どんなに自分がしょうもない人で、だけどそんな自分を神が見つけてくれた」という話が「証し」なのではないか。もっと単純に、「俺が信じてる神ってすごいんだぜ?!」というのが証しなのではないか。
「そんなの証しにならないよ」と言われても、クヨクヨ悩まなくてもいい。そんなあなたの等身大の姿を、イエスは愛してくれたのだから、それを思いっきり誇ればいいのだ!
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(中略)「誇る者は主(神)を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
(コリント人への手紙第一 1:26~31)
「証しにならない」と言う人々が、おそらく「でもこう聖書に書いてありますよ」と、主張する聖書の言葉がある。以下の言葉だ。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
(マタイの福音書 5:13~16)
これは、有名なイエスの言葉である。ここだけを読むと、「ああ、自分の良い行いを見て、他の人の証しにならなくちゃ」と思うわけである。でも、果たしてそうなのだろうか。聖書の別のところには、こうも書いてある。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
(エペソ人への手紙 2:8~10)
この聖書の言葉によれば、以下の2つは明らかである。
1:行いではなく、恵みによって与えられる信仰で救われる。
2:良い行いは、自分のものではなく、神があらかじめ備えたもの。
「良い行い」は、自分が頑張ってするものではなく、神が備えるものなのである。
「良い行い」は、自分の力ではなく、神の備えであると分かった。すると、もう一つの疑問が浮かんでくるだろう。「良い行いができていないのは、神が働いていないからだ。自分は、神の力が働くに値する者ではないのだろうか」という疑問である。本当にそうなのだろうか。別の聖書の言葉を見てみよう。
しかし主(神)は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私(パウロ)は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(コリント人への手紙第二 12:9~10)
パウロは、「弱いときにこそ、強い」と断言している。このパウロの姿勢から、以下のことが分かる。
1:自分が弱い時にこそ、神・キリストの力が完全に働く。
2:人間の弱さは、実は神の強さである。自分の弱さのうちに神の力が働くので、その弱さを誇ることができる。
クリスチャンは、もはや自分の力で歩まなくて良い。また、等身大の自分を隠して、「オモテムキ」の自分を作る必要もない。なぜなら、神が弱いままの自分を愛し、その弱さの中に働いてくださるからだ。
だから、本当の「証し」というのは、この自分の「『弱さ』の中に、神がどのように働いてくださったか」というものだと思う。クリスチャンにとっては、もはや弱さは「自慢」なのだ。
カンチガイしてほしくないが、「弱さをそのままにしていいや~好き勝手やっておくんなせぇ」と言っているわけではない。詳しくはまた別記事を書くが、クリスチャンは「神のきよさ」に向かって、「変えられ続ける」必要がある。しかし、それは、この世の中で「活躍」することだったり、「成功」することだけを指すのではない。それだけが「証し」ではない。人の心をゆさぶるのは、「サクセスストーリー」ではなく、「失敗や挫折、弱さのその先にあるもの」なのである。
では、イエスの言う「地の塩、世の光」とは、どういう意味なのだろうか。もう一度見てみると、スッキリすると思う。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
(マタイの福音書 5:13~16)
クリスチャンは、自分で輝けるのだろうか。否。クリスチャンは自ら輝けない、月のような存在である。月が輝くには、方法はただ一つ。光の方を向くことだ。クリスチャンにとっての光は誰か。それは、神であり、イエスである。イエスが、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネの福音書1:9)なのである。
つまり、イエスは、「俺を信じることをハズカシイと思うなよ。俺をシッカリと見て、俺の光を受けて輝け! 俺についてこい!」と言っているのである。イエスを信じる人は、もはや「弱さ」を隠さない。なぜなら、その弱さのうちにイエスの力が働くからである。
「証しにならない」と言っている人はどうか。むしろ、その人たちは、「自分がもっとシッカリしていないとダメだ」と考え、そこにイエスが働くことを忘れていないか。「もっと清く正しく美しく生きなければ」という考えに支配されると、いつのまにか、ありのままの自分を愛してくれたイエスを忘れていく。だんだんと、「こんな自分がクリスチャンだと言ったら、悪影響だ」という言い訳を自分に作って、「クリスチャンであること」「イエスを信じていること」を隠していく。まさにそれは、「塩気をなくした塩」「升の下に置かれた明かり」ではないか。
クリスチャンは、堂々とありのままの自分をアピールしていい。「俺はイエスを信じているんだ! イエスはすごいよ?! そりゃ毎日大変なこともあるけど、でもイエスが自分の中で働いてくれるんだ! こんな喜びに満ちた人生ないよ?」と、イエスを自慢しよう。それが、一番の「証し」ではないだろうか。
「証言をする」のが「証し」なのであれば、ありのままの弱い自分に寄り添って、そっと抱きしめてくれたイエスの姿を、明らかにしていこうではないか。
「クリスチャンたるもの、こうでなければならない」「クリスチャンはこれをしてはいけない」という考え方ではなく、「クリスチャンだからこんなことができる!」という考え方になろうではないか。
ですから、だれでも人々の前でわたし(イエス)を認めるなら、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。
(マタイの福音書 10:32~33)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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