【疑問】「母教会」って何? ~“教会籍”という謎のシステム~

▼「母教会」という謎の言葉
▼「母教会」「教会籍」とは何か
▼「教会籍」システムの弊害
▼外側から見た「教会籍」の違和感
▼そもそも「教会」とは?
▼聖書に「教会籍」の根拠はあるのか ~概念的な“教会”と地域的な“教会"~
▼現代においての地域教会のあり方
▼クリスチャンは、もっと自由になったらいい

 「母教会」「教会籍」「転会式」っていう耳慣れない謎の言葉を、クリスチャンの世界ではよく耳にする。なんやそれ?

 

  • ▼「母教会」という謎の言葉
  • ▼「母教会」「教会籍」とは何か
  • ▼「教会籍」システムの弊害
  • ▼外側から見た「教会籍」の違和感
  • ▼そもそも「教会」とは?
  • ▼聖書に「教会籍」の根拠はあるのか ~概念的な“教会”と地域的な“教会"~
  • ▼現代においての地域教会のあり方
  • ▼クリスチャンは、もっと自由になったらいい

 

▼「母教会」という謎の言葉

 世間はゴールデンウイーク真っ只中。地元に里帰りする人も多いだろう。クリスチャンの世界では、こういう時期に、よく「連休中は母教会に帰る」という表現を耳にする。母教会・・・? なんやそれ。クリスチャン世界のよくワカラナイ専門用語である。正直、意味不明。

 母教会とは、一体何なのか。また、他にも「教会籍」という謎のシステムや、「転会式」という謎の儀式もある。実は、これらに精神的に囚われてしまっているクリスチャンは多い。クリスチャンはイエスによって自由にされたはずなのに、不自由になっているのである。なんと悲しいことか。

 今回は、この「母教会」「教会籍」「転会式」といった言葉、文化の意味不明さを明確にしたい。

 

 

▼「母教会」「教会籍」とは何か

 クリスチャン文化になじみがない人に、まず「母教会」の意味を解説する。「母教会」とは、「自分が生まれ育った教会」「自分が会員となっている教会」を指す。または、「自分が初めてつながった教会」や、「自分がイエスを信じるきっかけとなった教会」を指す場合もある。

 「母教会」という単語を使う人は、両親がクリスチャンの家庭で生まれ育った場合が多い(いわゆるクリスチャンホーム)。物心ついた時には、その教会に所属し、毎週日曜日にその教会に通うのが当たり前。地方出身の場合、彼らは都心の大学などに進学すると、必然的に違う教会に所属しなければならない。そうなると、彼らは、自分の生まれ育った「母教会」と「今通っている教会」を区別するようになる。

 その際、必ず「教会籍」の問題が発生する。クリスチャン文化に慣れない人には、違和感があるだろうが、日本の多くの教会には、「戸籍」のように、「教会籍」が存在する。いわゆる、「メンバーシップ」だ。教会の会員とも考えれば分かりやすいだろうか。教会の名簿に名前や住所を記載し、名実ともにその教会のメンバーとなる。それが「教会籍」だ。この「教会籍」が、これまたやっかいなシステムなのだ。

 

 

▼「教会籍」システムの弊害

 「母教会」に「籍」をおいている人は、引っ越しとともに、違う教会に「転会・転籍」する必要がある。「母教会」に愛着がある人は、この「転会」をしたがらない人もいる。または、様々な事情によって「転会」できない人もいる。これが問題を引き起こす。それは何か。

 教会によっては「転会」しないと、教会の中の役割(奉仕)を担えないところもある。そのため、「転会」するまで何もさせてもらえないという悩みを抱えるクリスチャンは多い。また、「母教会」のルールによって、ほかのクリスチャンの集まりに自由に参加できないという人もいる。中には、教会の「奉仕」を優先しなければならず、家族や仕事をおろそかにしてしまう人たちもいる(※この「奉仕」の問題については、また別途記事を書く予定)。どこから突っ込めばいいのか。ちゃんちゃらおかしい話なのだが、これが多くの教会の現状である。

 もちろん、「母教会」と言わない人もいるし、「教会籍」システムを用いない教会も一定数ある。本来、私たちはどこの教会に行くかは自由だし、教会のメンバーシップに縛られることはない。しかし、多くのクリスチャンたちは、「教会を何よりも優先しなければならない」という間違った強迫観念にかられ、本来の自由で解放された生活、自由で解放されたミニストリー、自由で解放された信仰生活ではなく、束縛された教会員としての生活に甘んじている。自分の所属する教会や、牧師や、牧師の妻や、教会メンバー同士の悪口を言っているというのも、実はよく目にする。

 日本のクリスチャンたちは、なんと不自由な生活を送っていることか。このような束縛から解放されたら、どんなに自由で活発な活動ができるだろうか。

 

 

▼外側から見た「教会籍」の違和感

 少し私の個人的な話をしたい。私が初めてプロテスタントの教会に行ったのは、10歳の時だ。ニューヨーク郊外の小さな日本人教会だった。その前は、1年間「エホバの証人」というカルトの集会に参加していたのだが、そこから一家命からがら逃げ出し、ようやくプロテスタントの普通の教会にたどりついたのであった。

 私が今まで参加した教会は、「教会籍」システムを採用していない教会ばかりだった。ニューヨークに始まり、長野の田舎の韓国教会、長野の小さな独立した教会、大学時代の教会、イスラエル留学中につながった教会、社会人になってからつながっている葛西の教会・・・etc。他にもカナダやアメリカ、韓国にも留学していたので、その間も様々な教会につながった。総合すれば10以上の教会に所属したことになるが、そのどれも正式な「メンバー」として「教会籍」を登録した記憶はない。

 私は、そんな感じで自由で自発的な信仰生活を送ってきた。だから、上京した際に、「教会籍」の問題で悩む同世代のクリスチャンたちを見て、ものすごく違和感を感じた。ある友人からは、「転会式がうまくいくように祈ってくれ」と言われた。私は1ミリたりともピンとこなかった。そんなの、自由にやればいいではないか。「教団が違うからこの集まりには参加できない」という人がいた。唖然とした。同じイエスを信じる仲間ではないのか。「“執事”に選ばれてしまったから、嫌だけど強制的に奉仕をしないといけない」という人がいた。理解ができなかった。嫌なら違う教会に行けばいいじゃないか、と思った。

 その教会が居心地が悪いのであれば、違う教会に行けばいい。とてもシンプルな解決方法があるのに、どうしてたくさんのクリスチャンたちがそうしないのか。私は本当に理解に苦しむ。たかだか人口の1%にも満たない信者たちの間で、そんな「囲い込み」をしているのである。このような弊害を生み出す「教会籍」システムは、百害あって一利なしだ。

 

 

▼そもそも「教会」とは?

 「教会籍」を議論する前に、「教会」とは何か確認する必要がある。「教会」は、ギリシャ語の「エクレシア」の訳語だ。「エクレシア」を広辞苑でひくと、以下のように書いてある。

エケレジヤ【ecclesia】

(キリシタン用語)教会堂。聖堂。エクレシア。<広辞苑六版>

 これは、日本人の誤解を示す、いい例である。正直、驚いた。広辞苑でさえ、「エクレシア」を「教会堂」と、場所の名前を指す語として記載していたからだ。「教会」でさえ誤訳なのに、「教会堂」とは……。これは明らかに誤った解説だ。

 「エクレシア」の本来の意味は、次の聖書の言葉からも分かるように、「人の集まり」を指す。太線の部分は、いずれもギリシャ語の「エクレシア」である。

 

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。(中略)町の書記官が群衆を静めて言った。(中略)「もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります」。(中略)こう言って、その集まりを解散させた。

(使徒の働き 19:33~40)

 太字の「集会」や「集まり」は、「教会」と全く同じ単語の「エクレシア」である。他の箇所は、ご丁寧に「教会」と訳してあるのに、この部分だけ意図的に「集会」や「集まり」と訳出されている。これは意図的な翻訳だ。

 「エクレシア」の元々の語源は、「呼ばれた人々」で、神に呼ばれて集まった人々の集合体を指す語であった。同時に、上記のように、「人の集まり」を意味する語として、当時、一般的に使われていたことがうかがえる。「正式な集会」という記述から分かるように、ローマの直接民主制の文化では、そのような町のさばきごとを人々の「エクレシア」で決めていたようだ。

 いずれにせよ、「エクレシア」は、「集会」とか、意訳しても「共同体」とするのが自然である。なぜ、「教える会=教会」になってしまったのか。それは、聖書用語を日本語に翻訳する過程で、多くの言葉が中国語の聖書から直接輸入されてしまったからだ。なまじ日本の知識人たちが漢文を読めてしまったばかりに、中国で採用された訳語がそのまま入ってしまったのだ。中国語と日本語の意味のズレを無視して入ってしまったのである。「神」「愛」「洗礼」「聖霊」などがいい例だ。「教会」もその誤訳の中のひとつで、今だに日本に福音が広まらない大きな障害のひとつなのだ。

 ちなみに、ヘブライ語では「ケヒラー」という言葉がこれにあたり、同じく「集会」という意味になる。イエスをメシアと信じるユダヤ人たち、メシアニック・ジューの人々は、決して「教会・チャーチ」という単語を使わず、「集会・ケヒラー」という単語で自分たちの集まりを表す。

 

 

▼聖書に「教会籍」の根拠はあるのか ~概念的な“教会”と地域的な“教会"~

 さて、聖書の中に「人の集まり」たる「エクレシア」において、「教会籍」のシステムを採用することに、根拠はあるのだろうか。ハッキリ言う。全くない。あるなら示してほしい。もちろん、「教会籍」を禁止する記述も、聖書にはない。中には、「教会」は「キリストのからだ」なのだから、そのメンバーを登録するのは当然だ、といった理論を展開する人もいる。該当するのは、以下の聖書の部分だ。

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1:23)

 「教会はキリストのからだ」なのだから、自分もその一員になるべき、という主張は一定理解できる。しかし、私は、それを「ある教会の会員になる」ことだとは思わない。「教会はキリストのからだ」という時の「教会」は、概念的な信者の集合体を指すのであって、具体的な場所と名前がある「ひとつの教会」を指すのではない。

 聖書に出てくる「教会」は、この「概念としての教会」と、「具体的・地域的教会」の2種類がある。前者は、上記のようなエペソ人への手紙に代表される、「教会」とは一体何かを説明する際の「概念的」なもの。概念的には、私たちひとりひとりが「教会」であり、その私たちクリスチャンの集合体が「教会」である。

 後者の「具体的・地域的教会」は、「コリントの教会」「テサロニケの教会」といったように、ひとつの共同体のことを指す。聖書の時代には、「●●教団・●●教会」といったような教会は存在しなかった。ただ、「コリント」とか、「テサロニケ」といった町々に、それぞれ信者のふわっとした集まり、共同体が存在していただけだった。集まる場所も、「会堂管理者・会堂司」という表記(使徒18:8、使徒18:17など)から分かるように、ユダヤ人のように「会堂・シナゴーグ」で集まる場合もあれば、誰かの家に集まる場合もあった(使徒16:40など)。現代においては、「●●教団東京●●教会」みたいな感じで、ひとつの教会を指す。

 この2つの違いに注意しないと、間違いが起こる。まとめると……

 

【概念としての「教会」】

・イエスがペテロに「わたしはあなたの上にひとつのエクレシアを建てる」と言った「教会」

・イエスが臨在している状態、キリストのからだ。

・私たちひとりひとり、そして互いの関係性が「教会」である。

【具体的・地域的な「教会」】

・「コリントの教会」、「テサロニケ」の教会といったように、地域それぞれにある「教会」

・かつては、地域でのふわっとした集まり、共同体だった。

・現代においては、「●●教団・東京●●教会」のように、ひとつひとつの「教会」を指す。

 「キリストのからだ」は、私たちひとりひとりを指す概念的なものだ。だから、「キリストのからだ論」を地域教会の「教会籍」問題にそのまま当てはめるのはナンセンスだ。もし、「東京●●教会」が「キリストのからだ」であるのなら、「●●教団」とか、「●●派」みたいに分裂している現状こそ、キリストのからだをバラバラにしていることそのものではないか。

 私たちは、どこの教会に集っていても、イエスを信じるただその一点で、同じ「キリストのからだ」である。だから、本質的にはどの教会に集っていようが、関係はない。各々の教会が、名簿を作って、信者を登録して、数を数えて、その信者を囲うことは、どんなに愚かで無意味な行為だろうか。

 

 

▼現代においての地域教会のあり方

 聖書時代は、「東京の教会」とか、「文京区の教会」といったように、ふわっとそのエリアに住んでいる信者たちの集まりがあった。どちらかと言えば、「労働組合」チックなものを考えればいいのだろう。「卒業生会」のようなものかもしれない。早稲田で言えば「東京・稲門会」みたいなものをイメージしていただければいい。いわば、「イエス同盟」みたいなものだ。

 しかし、それをそのまま現代に当てはめるのも、またナンセンスだろう。そもそもの人口が、当時とは比べ物にならない。クリスチャンも当時より比率として多くなっている。全員が一カ所に集まるのは不可能だ。その一方で、移動手段も格段に進歩した。今は、比較的遠い場所でも、その集会に集うのが可能になった。インターネットも発達し、極論を言えば、地球の裏側の教会の一員になるのも可能である。

 そうなってくると、確かに、「コリントの教会」のように地域に教会がひとつだけ、というのは現代の日本社会では難しい。田舎では、まだ可能かもしれないが、特に東京なんかの都心では難しいだろう。人と人とのつながりもどんどん薄くなっている。そんな時代だからこそ、一定のつながりを保つために、メンバーシップの制度を取る。これは目的としては一定の理解ができる。しかし、それは、メンバーを拘束していい理由にはならない。

 やはり、大切なのは「心の動機」だ。教会を「母教会」と呼ぶ時、あなたの心はどこに帰属意識を持っているか。あなたの「教会」か。それとも「イエス自身」か。あなたが「教会籍」を作るとき、あなたの心にあるのは、「教会で認められること」か。それとも、「イエスに根ざす」ことか。あなたが教会でメンバーシップを作るとき、あなたの心にあるのは、ダビデが失敗したような「自分の力を誇る気持ち」か。それとも、「仲間のために名前を挙げて祈るだめ」か。

 

 

▼クリスチャンは、もっと自由になったらいい

 私のオススメは、以下である。オススメであって、聖書がこう言ってるからという命令ではない。オススメである。

 

【教会の運営者へのオススメ】

1:教会の運営者は、公式にはメンバーシップの制度をとらない。とるとしても、目的に合わせて、内々でやった方が良い

2:教会の運営者は、集まるメンバーを数えて、その数字に一喜一憂しない

3:教会の運営者は、来る者拒まず、去る者追わずの精神が望ましい。ただし、カルト・異端からのスパイ・潜入者は別である。カルト・異端のメンバーは、下着さえも忌み嫌って追い出せ

【ひとりひとりのクリスチャンへのオススメ】

1:今集っている共同体の居心地が悪いのであれば、悩む必要はない。違う共同体を探せば良い。あなたが帰属するのは「教会」ではなく「イエス」なのだから

2:できれば、共同体には一定の時間は留まった方が良い。そうしないと、永遠に「知り合い」で終わってしまう。「信仰の友」になるには、時にはぶつかる必要もある

3:何事も、祈って決断した方が良い。しかし、必ずあなたの「心の動機」を吟味せよ

 

 日本のクリスチャンたちは、あまりにも「教会」への帰属意識が高すぎる。ここで育ったから。ここでイエスを知ったから。ここで奉仕をしているから。だから違う教会に行くことは、その恩を裏切ることになる。義理堅い日本人は、そう考えてしまいがちだ。

 それは違う。その教会があなたにイエスを伝えたのではない。イエスご自身があなたを見つけ出してくれたのだ。その教会があなたを育てたのではない。イエスご自身が聖霊を通して、あなたを養ってくれたのだ。あなたはその教会に奉仕をしているのではない。イエスご自身に対して奉仕しているのである。だから、他の教会に行きたければ、好きにすれば良い。まさか、違う教会に行くと、イエスが違うイエスになるわけでもあるまい。

 

 重ねて、教会を選ぶ際に、参考にすると良い、4つのポイントを挙げよう。

 

1:地理的要因

2:ミニストリー的要因

3:スタイル的要因

4:神からの示し的要因

 

【1:地理的要因】

 スラムダンクの流川楓が「近いから」という理由で高校を選んだように、単純に近い教会を探す。簡単だ。一番大切な要因でもある。

 長距離の移動というのは、以外に骨が折れるものだ。教会の集会に通うだけで疲弊してしまっては、元も子もない。ムリして通っても、往々にして続かない。

 私の友人の中には、牧師が引っ越したので、県をまたいで引っ越した、という人がいる。さすがに驚いた。あなたが礼拝するのは牧師ではない。神ご自身だ。知っている牧師や教団が近くにないからといって、自分の生活まで捻じ曲げる必要はない。たいていの人は、週5とか6日働いて、週に1日教会に集う。7分の6より7分の1を優先して、あなたの人生が潰れてしまわないよう、地理的にムリをしないことは大切だ。

 地理的に、教会の建物や集会の場所がある町の人々に福音を伝えるためにも、地理的条件というのはとても大切である。

 

【2:ミニストリー的要因】

 あなたが神から与えられている能力、パッションはどこにあるだろうか。海外宣教をしたい人と、国内のホームレス伝道をしたい人では、まるで方向性が違う。教会によって、力を入れているミニストリーは違うだろう。イベントごとかもしれない。賛美かもしれない。祈りかもしれない。日本人伝道かもしれない。発展途上国への伝道かもしれない。聖書翻訳かもしれない。教会開拓かもしれない。クリスチャン教育かもしれない…。

 全ての教会が同じである必要はない。全てのクリスチャンが同じである必要はない。私たちは、互いに器官なのだから。

大勢いる私たちも、キリストにあって、一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 (ローマ人への手紙 12:5)

 

【3:スタイル的要因】

 教会の礼拝会(※「礼拝」についての記事はこちら)のスタイルも重要な要素だ。あなたの好みの音楽、雰囲気、時間、メッセージのやり方、集会の規模、、、まちまちだろう。私の個人的意見では、自分の好みのスタイルのところに行けばいいと思う。正解はないのだから、そんなスタイルとかどうでもいいことで悩んだり、心から神を賛美できなくなるくらいなら、自分が腑に落ちるところを探せば良い。

 日本人は、よく、「この教会を内側から変える」と言うが、私には理解できない。一度あるものを作り変えるエネルギーは莫大だ。ゼロから作り上げる方が、よっぽど楽だ。「教会」を変えることにエネルギーを注ぐぐらいなら、福音を伝える方にエネルギーを使った方が良い。

だれも、真新しい布切れで古い頃もに継ぎ当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしません。そんなことをすれば革袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、革袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

(マタイ 9:16~17)

 

【4:神からの示し的要因】

 一番大切なのは、神の導きに従うことだ。それには祈りが必要だ。祈って、神に示されたらそれが一番いい。たとえ人間の目には全く合理的でなくとも、それが神の道なら、それに従うのが一番いい。

 しかし、私の経験上、「あなたは●●教会に行きなさい」と神が示すことは、まぁかなりのレアケースだ。神は、あなたがどこの教会に行こうが、たぶんどうでもいい。大切なのは、あなたがどう生きるかだ。

 だから、あなたは集う教会を選ぶ時、自分の「心の動機」を探った方がいい。そこに答えはあるのだから。

 

 

 私たちが帰属するのは教会ではない。イエスご自身だ。私たちクリスチャンは、どの教会に集っていても、同じイエスを信じる、信仰の友であり、家族なのだ。家族同士でいがみあったり、そねみあったりするくらいなら、いっそのこと、その集いから離れてみるというのも、ひとつの手ではないだろうか。

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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