たとえ死んでも生きる”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”死後の世界”のことを考えてみました。先週、ラスベガス教会の若き姉妹が天に召されました。将来が楽しみな一生懸命に生きる人でした。しかし24歳の若さで地上の生涯を閉じるということは、どう考えてもあまりにも早いとしか言いようがありません。ましてや、愛する娘を亡くされたご両親にしてみれば、その悲しみは測りがたく、どんな慰めの言葉も役に立たないかも知れません。ただ神が下さる天からの慰めだけが、お二人を慰めることができることでしょう。ところで、聖書の中にイエス・キリストのこんな言葉があります。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25-2)イエス・キリストは、ここで二つの約束をしておられます。まずそのひとつは、「イエス・キリストを信じる者は、たとえ死んでも生きる」という約束です。これは、肉体の復活についての約束であり、キリストご自身の復活がその根拠です。聖書では、地上におけれ私たちの体は、幕屋(移動式の神殿)のようであると表現しています。私たちの実体は霊であり、体は霊の住まいです。そして、この地上に住んでいる間は、私たちの霊は、いつかは朽ちてしまう、不便な、幕屋の中に住んでいるのです。ところが、イエス・キリストを信じる者は、やがて新しい復活の体をいただきます。復活の体とは、いつまでも朽ちない肉体で、永遠の霊の住まいです。次に、もうひとつのことは、「生きていてイエス・キリストを信じる者は、いつまでも死なない」という約束です。これは、新生のことを言っています。つまり、霊的に死んでいた(神との関係を持っていなかった)者が、イエス・キリストを信じる信仰によって、霊的に生きる(神との関係を持つ)者とされるということで、その裏付けは十字架の贖いです。聖書によれば、死というのは、無になることではなく、分離することを意味します。したがって、肉体の死は、その人の本質である霊がその入れ物である肉体から離れることであり、私たちの意識が肉体から離れることを意味します。それに対して、霊的な死は、私たちと神とが離れていて関係を失っていることであり、私たちの意識が神から離れることを意味します。したがって、神に対する意識が全くない人は、生きていても、実はその霊は死んでいるのです。そういう意味で、この地上で生きている間にイエス・キリストを信じるなら、人は誰でも霊的に生きる(神との関係を持つ)者とされ、いつまでも神から離れることはなく、たとえ肉体が滅んでも離れることはないのです。そういうわけで、この24歳の姉妹は、たとえ短い生涯ではあっても、生きている間に霊的に生きる者とされ、「死んでも生きる」という肉体の復活と、「いつまでも死なない」という神との永遠の関係を持つ約束を自分のものにすることができたのです。そしてそれは、
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(ヨハネ14:)」と言われたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられる恵みなのです。
今日の一言: キリストを信じる者は、たとえ死んでも生きる平安鶴田健次
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