ほんとうにたいせつなこと

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「ほんとうにたいせつなこと」

中村吉基
イザヤ書9:1~6;

 今から58年前の1962年、私たちの日本キリスト教団の総会において西中国教区より「平和聖日」の制定について提案されました。それを受けて、「毎年8月第1日曜日を平和聖日とする」ことを教団は決定し、翌年の8月より実施されました。ちなみに西中国教区には世界最初の被爆地であるヒロシマが含まれています。教団に連なる全国1700余りの諸教会は第2次大戦中の戦争協力への反省と近隣諸国へ与えた被害、また広島・長崎の被爆をおぼえ、今日の礼拝を捧げております。今日は平和について、祈り、志を新たにする日です。

 さて今日の福音には、
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)
とあります。これはどのような状況においての「裁くな」という言葉なのでしょうか? 主イエスはとにかく「裁くな」というのです。当時の社会では人々にレッテルを貼り(罪人、徴税人、町の女、大工の子など)、生身の人間であると言うのにどんどん分類し、差別化をしていきました。それによって地位を定め、他人との交際を制約していました。私はここを読む時にあのヨハネによる福音書8章の「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という箇所を思い起さずには居れません。しかしそこに居合わせた人々には受け入れる用意がありました。年長者からひとりまたひとりとそこを立ち去っていきました。

 話を戻しますと、もしかすると、この箇所は人と人、一対一のことだけではなく、ある人々(多数派)とある人々(少数派)との中で裁きあいをすることを言っているようにも読むことができます。2節に出てくる「秤」という言葉も秤という比喩を用いながら他者をはかるなということをイエスは勧めています。「裁くな」という言葉は同じマタイ福音書の5章22節に「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」とあるように主イエスの教えでは他者との関わりがその人自身の神様との関わり方に結びついてくるのです。すなわち他者に対して善悪の判定を下す(裁く)よりも、相手との和解こそ優先されるべきなのです。

 主イエスは今日の聖書の言葉「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」と一見厳しく聞こえるその言葉の奥に「となりにいる人ではないと思っている人や敵だと思っている人も本当はあなたのとなりにいる人なのですよ」と言っています。

 3節、4節の「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」

 これはだれにでも言える事ですが、「裁く」とき、人は相手には厳しく、自分には寛大になりがちです。

 私たちも「あの人がいなかったらどれだけいいだろう」と思うことがあると思います。顔も見たくない、と思う人もいるでしょう。人間というのは傷つけられた時のことはいつまでも憶えているものです。とても敏感です。でも反対に傷つけてしまった時のことは案外早く忘れたり、気づかなかったりするのではないでしょうか。主イエスはどうだったでしょうか。7たびが70倍であろうと、490回であろうと無限に赦されました。主の祈りの一節を取りましても、赦すことを私どもに繰り返し繰り返し教えておられます。そのようなことを思うときに主イエスのあのゲッセマネや十字架での苦難を思わずには居れないのです。主イエスがあふれるばかりの豊かな愛を注がれるのは彼自身のこうした苦しみが、私どもの苦しみを担うのです。

 5節「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
ここで言われている「取り除け」という言葉は新約聖書のもとの言葉では「追い出す」「投げ出す」という意味もあります。人間の性分というのは「取る」というような簡単な行為ではどうにもならないのではないでしょうか。自分の身体から「追い出す」というような強い意味があらわれているようにここを読むことができます。「目は口ほどにものを言う」と言われるが、人を判断する時には多分に目から心の領域でなされるのではないでしょうか。

 そして6節です。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
「神聖なもの」というのは、通常神殿に捧げられた供え物の肉のことを表わすと解釈されます。祭司のみが食することの出来た肉です。しかしここではキリストの「福音」そのものと読むことも出来ます。「真珠」はそれ自体が高価なものでありますが、古いユダヤ教の文献をひも解きますとそれは宗教的に価値のあるもの(たとえば祈り)などを意味する言葉であると考えられます。「犬」や「豚」は当時の社会では現代とは違い汚れた動物とされていました。つまり、ここからかけがえのない大切なものを容易に手放してはならないと読むことができます。それでは私たちにとってかけがえのないものとは何でしょうか?

 「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)は、1967年のイースターに当時の教団総会議長であられた鈴木正久先生の名で発表されたものです。特に私たち代々木上原教会では、「私たちの教会の姿勢」として定められた文章の第2項にこのように書かれています。「『戦争責任告白』の精神に沿い、世界の、とくにアジアの諸教会と協力して和解を追い求め、寛容の精神をもって他宗派・他宗教の人々とも対話しつつ、真の平和を実現するために努力したいと願っています」。

 その戦争責任告白の8段落目にこのようにあります。
「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会のまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主のゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また、わが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります」。

 教会の目的は何でしょうか?「隣人のために存在する時、教会ははじめて教会となる」とは神学者ボンヘッファーの言葉です。自己の組織の拡大や信徒をより多く獲得することではありません。戦責告白はまた、「教団が日本および世界の将来に対して負っている光栄ある責任」を考えるところから始まっています。それゆえに私たちは隣人を無視して行動すべきではないのです。光栄ある責任とは隣人が罪に陥ることのないように「見張る」ことであり、それとともに罪を犯して苦しむ隣人の傍らにあってそれを「とりなす」ことであります。これはイエス・キリストのみ業を現代において継続することです。それは決して「裁く」ことではありません。「見張り」「とりなす」ことが私たちに求められています。

 さて今日本においてはどうでしょうか。「平和憲法」をないがしろにする国になろうとしています。軍事力による紛争解決に向かい、ここにきてまた国民を戦争に協力させようとする動きが強まっています。沖縄の軍事基地はさらに強化されようとしています。

 かけがえのないもの……私たちは神様から多くのものを与えられております。いのち、生活の場、環境、世界、地球……数え上げればきりがありませんが、このように恵みにあずかりっぱなしというのではなく、これらの恵みに感謝するとき、必然的にいのちや自然や平和を守り、また一人の人間が何者からも脅かされることなく生きていく場を造りあげていこうとするのではないでしょうか。イエス・キリストの生き方を思い起こし、模範とするときそれを行う力が与えられます。どうか、今日ここから立ってこの世へと派遣されていく時、私たちに今何ができるのかということを問いつつ、平和をつくり出す一歩を歩み出したいと思うのです。


 
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