共に恵みにあずかる

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共に恵みにあずかる

ゼカリヤ書8,14-17;

 先週、私たちの教会では宗教改革を記念して音楽礼拝を守った。私は信仰によって義とされるという主題で説教したが、その際、罪とは心も体も含めて私たちの人間関係を歪め・破壊する在り方のことだと述べ、その具体例としてパウロが『ローマの信徒への手紙』1章に挙げた罪表を引用した。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲(31節)というところである。

 しかし、それら一つ一つの言葉について、私は特に説明を加えなかった。説明するまでもなく明らかだと考えたからである。だが、その後である人から、なぜ、<無知>が罪なのかという疑問をメール上でぶつけられてハッとした。確かに、このリストの中で無知だけは知的な能力に関係していて、他の言葉とは感じが違う。不審に思われたのも無理はない。その人は続けてこう書いていた。無知とは、律法を知らないという意味なのか? 無知なまま、<知らないのだからしょうがないではないか>と開き直ること(学ぶ姿勢がない、傲慢)がいけないのか。この話題を巡って、インターネット上では興味深い意見が交わされた。その内容を紹介したい。

 ある人はマザー・テレザの愛の反対は憎しみではなく、無関心であるという言葉を引用しながら、大よそ次のような意味のことを書いていた。――無知とは、そこに苦しんでいる人がいて、その人のために何らかの行動を起こさなければならないのに、知らんぷりをする、あるいは知らないままにしておく、もしくは敢えて知るための努力をしないということではないか。このような無知は罪なのだ、と。

 また、ある人は、<全体を一つの体として>見る考え方を『コリントの信徒への手紙』から学んだと述べた後で、こう書いた。――知らない所で起こっていることも、いつかは私のことになる・・・普通、病気になる前に、<ちょっとおかしい>と休んだり、自然治癒力が働いてくれたりする。でも、その感覚が鈍くなっていたり・・・それを無視したりすると、動けなくなった時には手遅れで・・・手術しても新薬を投与しても治癒には向かわない。この人によれば、そんな時、体のある部分が助けてーという悲鳴を発しているのだ、という。その声を聞かずにいれば命に関わる。それと同じで、社会のどこかで助けを求めて叫んでいる人がいるのにそれを聞こうとせず、知ろうともしないことが無知で、これは社会にとって致命的だ、というのである。私は、これらの言葉からとても大切なことを学んだ。

 ところで、無知と訳されたギリシャ語はアシュネトスである。辞書には理解を欠くこととある。ただ、用例が少なく、『ローマの信徒への手紙』では3箇所に出て来るだけだ。その内、1章21節は心が鈍くと訳されている。福音書では、マルコ7章18節の物分りが悪い、マタイ15章16節の悟らない以外に用例はない。従って、決定的なことは中々言えないが、このアシュネトスは単に物事を知らないというだけの意味ではないようだ。そこには理解していなければならないことに対して鈍感であるというニュアンスがある。その意味で無理解(岩波版新訳)が適切であろう。他者の苦しみに対する鈍感・無理解が罪なのである。

 さて、今日のテキストである『フィリピの信徒への手紙』1章3節以下に眼を向けよう。ここには、他者に対する鈍感・無理解とは全く正反対の世界がある。古来、この手紙は喜びの書簡と呼ばれているが、パウロはフィリピの信徒たちに対して、わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神にし、あなたがた一同のために祈る度に、いつもをもって祈っています(3節)と書いて、喜びと感謝の気持ちを溢れさせている。

 私は先に、他者の苦しみに対して鈍感であること・無理解であることは罪だ、と言った。だが、他者の喜びに対して無頓着であることも罪ではないだろうか。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く(ローマ12章15節)というのが、人間の本来の関係なのである。

 主イエスは、貧しい人々や病人の苦しみを理解し、彼らと苦しみを共にされた方であった。しかし、喜びを分かち合う方でもあった。この点は重要である。病人を癒されたとき、彼はその人と共に心から良かった!と感じたに違いないし、社会から差別された人々と一緒に食事をした時は、大いにその宴会を楽しんだのである。そのために、大食漢で大酒飲みだ(マタイ11章19節)という評判が立つほどであった。まして、一人の罪人が悔い改めた時は、その喜びを最大限に表現して、99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(ルカ15章7節)と言った。

 だが、主イエスが人々と喜びを共にしたのは、単に病気が良くなったからでも、一緒にたっぷり飲み食いできたからでもなく、彼らが神の支配という新しい現実の中にいると信じたからであった。パウロは、そのことを今日の箇所であなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている(5節)と表現したのである。それが喜びの根拠なのだ。パウロにとってフィリピの信徒たちは、共に福音にあずかった者たちであり、共に恵みにあずかる者(7節)であり、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となる(10節)という約束の下にある人たちなのであった。フィリピの人々だけが特別なのではない。私たちはすべての人をそのように見るべきなのだ。そして、それには確かな根拠があるのである。



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