山上の垂訓・講解説教も、今日から第7章に入ります。マタイ福音書の5章から7章にわたり展開されている「山上の垂訓」も、いよいよ、その結論部に入ります。7章12節の「黄金律」と呼ばれる「教えの中の教え」が、云わば、頂点であるとすれば、その山頂に向かって、富士登山に例えれば、8合目あたりに辿り着いた、と云えるでしょう。残り少なくなると、マタイ記者は持ち駒であるイエスの言葉集から次々と、イエスの大切な言葉と教えを「山上の垂訓」に繰り出しています。それが7章の特徴です。
この7章に収められている語録集は、一見、それぞれが独立していて前後に関連がないように見えるかも知れません。新共同訳聖書には、それぞれの区切り毎にタイトルが付けられています。それをお読みになると、やはり各語録がバラバラであるように感じます。本日のテキストである7章1~5節には「人を裁くな」と云うタイトルが付けられています。続く6節は、次回のテキストになりますが、まるで、今日のテキストと繋がっているように置かれているのですが、「聖なるものを犬に与えてはならない」と云う言葉は、元々、全く関係ありません。次回に説明させて頂きますが、私はこの聖句は段落を取り、切り離して独立させておいた方が良いと考えております。
このテキストの後に、有名な言葉である「求めよ、探せ、門を叩け」と云う、呼びかけが置かれ、更に、情け深い父親でさえ魚やパンを求める自分の子供に蛇や石を与えることなどあり得ないように、天の父の慈悲深いことを語ったあとで、イエスの教えの中の教えとして「黄金律」をマタイ記者は置いているのです。マタイ福音書記者の編集作業では一貫しているのですが、その意図が読み取れないと、それぞれがバラバラになってしまいます。尤も、それは、元々バラバラの所に置かれていた語録集から、引き出してここに並べているのですから、無理もありません。
これら5つの語録を黄金律に向かってマタイ記者が配列している意図を知る手がかりは、何と言っても、山上の説教で結論部を生み出そうとしている所に注目しなければなりません。結論部には、先ず、今まで繰り広げられて来た内容の纏めが必要です。また、主張の再確認も必要です。そして、結びの中の結びが必要です。そして、訴える相手の人々へ参加の呼びかけが必要です。編集者の、こう言う意図を推察しながら、先に配列された語録を読み直す時、今までバラバラに見えて来たメッセージが統一されて良く分かります。
マタイ福音書記者が山上の説教を締めくくるにあたり、今までを振り返えり私達に訴えておきたいことの筆頭に挙げたのが、本日のテキストです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないためである。あなたがたは自分が裁く裁きによって自分も裁かれる。また、自分が測るその測りによって、自分も測られる。」(新共同訳では「量る秤で量り与えられる」と、あり、重さで秤りを考えていますが、μετρονは私達も使っているメートルの語源であることからもで分かるように、長さを測る言葉であります)
善悪の判断や、年功序列のようにキャリアで測る事を戒めています。なぜならば、それによって当人も裁かれるべき存在であるからです。イエスの教えをキリスト教律法として、山上の説教に纏め上げようとしているマタイ記者にとって、イエスから頂く全ての教説は、「あなた方は裁くな」と云う、この一点に集約されているからです。和解、姦淫、離婚、報復、敵愾心を克服するイエスの教えは、「裁くな」と云う教えに帰結するからです。続いて、「天の父への信頼」が纏めの第二弾になるのですが、それは次回のテキストで検討させて頂きます。本日は「裁くな」に焦点を合わせておきしょう。
今日のテキストで3節から5節にかけて載せられている話は、「裁くな」と云う、7章1,2節の内容とは別の所で話されたイエスの言葉であると思われます。その証拠に、1,2節は二人称複数形で「あなた方」と云う呼びかけであるのに3節から5節は「あなたは」と云う2人称単数形で語られている所からも分かります。人間の自己中心的でエゴイストの有様が、実によく描かれています。私達は自分に対して甘く、相手や他人に対しては辛い評価を降すことが良くあるものです。そのことが、相手のオガ屑のように小さな欠点や過ちであっても赦せなかったり、過大に取り上げて批判したりしているのに、自分の中にある欠点や過ちは、相手のオガ屑に対して丸太のように大きくても見過ごしていたり、寛大であったりしています。(口語訳では「ちり」と「梁」と訳されており、こちらの方が原意に近い。原文ではκ・・ρφο・・ と δοκ・・・・:比喩の面白さは、恐らくイエスご自身の叡智によるものと思われます。)
ここでは裁きそのものを禁じておられます。恐らくこれもイエスに遡る言葉であると思います。この禁止を語ることによって、律法が持っている善悪の根源を空しくしておられるからです。取税人や遊女、また、律法の規定、例えば安息日を守る事さえできない貧しい人々を「罪人」とか、「地の民」と呼んでさげすむような、裁きの規準となっている律法を空しくすることは、イエスご自身がしておられた所であるからです。なぜならば、マタイはユダヤ教律法に勝るキリスト教律法として「山上の説教」を編纂しようとしているのに、イエスのこの言葉は、マタイ記者の枠を超え出ているからです。イエスの言葉は、それによって人を裁いたり、罪人におとし入れるためではなく、人を救うためであることが、今日のテキストからも良く分かります。
人が裁きをしないと云うことは、裁きは究極的には、神に委ねるべき事柄であるからです。神の目から見れば、正しい人、義人は独りもいないのです。パウロはローマの信徒への手紙3章9節以下で詩編14編から引用しながら、こう語っています:「では、どうなのか。私達には優れた点があるのでしょうか。全くありません。・・・次のように書いてある通りです。『正しい者はいない。一人もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない。・・・彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。(後半は詩36:2)』」
「人を裁くな」を云う前に、私達は他人を裁く資格がない程、罪深い存在であります。そのことは旧約聖書・創世記の初めに記されています。被造物である人間は、創造主がどの生き物にも備えておられる掟や自然の秩序を破り、自ら全被造物の主人になろうとして、楽園から追放されるのです。この物語の中に、人間の罪が暴かれています。神話物語ではありますが、この物語の中には私達人間が今も抱えている罪について、実によく描かれています。
創世記第3章には通常「失楽園」と呼ばれているアダムとエヴァの物語が記されています。そこでは、創造主から二人に向かって「食べるな」と命じられた木の実について、物語は展開します。「禁断の木の実」とは創造主と人との間に結ばれている秩序であり掟を指しています。それを食べてしまう、と云うことは神からの離反を表しているのですが、更に、この物語では「食べた事」、「神と人との間を結ぶ掟の無くなった事」について、誰も責任を取ろうとしないのです。アダムはエヴァの所為(せい)にし、エヴァは蛇に責任転嫁をしています。蛇の役割は誘惑者であったり、そこから悪魔・サタンとして描かれているのですが、サタンと云う言葉の語源が「対向者・もう一人の自分」を意味するように、「食べるな」と云えば「食べたくなる」自分の中に起きるもう一人の自分・即自に対する対自であり、これは誰にも起きる心のなかの葛藤を意味しています。
私達は他人を裁く前に、自分自身を正しく裁き、律して行かなければなりません。「裁くな。あなたが裁かれないためである」と云うイエスの言葉は、そういうことを指しています。パウロがロマ書3章で詩編第14編を引用しながら「正しい者は独りもいない」と諭していることも、そう言うことではないでしょうか。パウロは更に、同じロマ書7章15節以下で、こう語っています:「私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そしてそういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。・・・(24節)私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。」
本日の説教題を「赦しの福音」と致しました。「裁くな、裁かれないためである」と云う忠告を受ける前に、私達は誰もが、赦されなければならない、そして、各自が持っている罪責を懺悔しなければなりません。パウロの嘆く言葉に合わせて自分も「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と告白すべき存在です。この嘆きの言葉に続いてパウロはこう続けている所に注目したいと思います: (25節)「(しかし)私達の主イエス・キリストを通して神に感謝します。」
私達が神に感謝する、その理由は、私達の罪を贖い、赦すために御独り子を私達の許へお送り下さったからです。その独り子なるイエス・キリストは「裁くな、裁かれないためである」と云う忠告に先立って、主の祈りの中で、また、その結びの中で、このように語っておられます:
初めに申しましたように、7章は「山上の説教」の結びとして、今まで述べて来たことの纏めに入る所です。説教の第四部として「至高の倫理」を6章後半で繰り広げた後、この倫理を7章12節に掲げる「黄金律」にまで高めようとするマタイ記者の意図からすると、「赦しの福音」も黄金律と肩を並べても良いほど、大切な教えとして、この場所に置いていることが良く分かります。「山上の説教」の他に、4つの説教集をマタイ福音書記者は載せているのですが、その第4番目の説教集である「教会指導者に宛てたイエスの説教集」(18:1~35)においても、「赦しの福音」をもって第四・説教集をこのように締めくくっています:「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして祈るなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。そのとき、ペトロがイエスのところに来て云った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:19~22)
この聖句は私にとっては救いの原点になった命の言葉です。何故、明治学院から神学校へ行き、なぜ教職になったのかは、この言葉に出会ったからであると云っても過言ではありません。そしてこの言葉は昔、私を立ち上がらせてくれたという、過去の出来事であるばかりでなく、今でも心に響き、私を生かしてくれる言葉であります。ですから、礼拝や聖書の授業でも必ず何回か言及している聖句であり、これをアルフィーの高見沢俊彦君が覚えてくれており2017年8月16日のラジオ番組(the Alfee Hour)で、その事に触れながらこの聖句について話しておられました。その言葉によって改めてこの聖句が持つ力に与かることが出来ました。何故、イエスのこの「無限の赦し」を伝えた言葉によって私が癒され、今まで生きることを許されているのかと云えば、私には自分では拭い去ることの出来ない自責の念、罪責感があるからです。
1947年12月27日、当時10歳であった私は、2歳年下の妹を栄養失調で亡くしました。戦後2年が経った当時の日本では、まだひどい食糧難の時代でした。そのような中で私が生き延びて、妹が餓死同様の状態で死んでいったということは、同じ食卓を囲んでいた私は、拭うことの出来ない罪責感に襲われました。この思いは今でも私を苦しめています。そのような時、教会学校の松永先生から先の聖句を頂いたのです。「どんなに赦されないと思われる罪があっても、イエス様は赦しておられます。だから、その言葉を信じて生きなさい。」無限の赦しを語られた主イエスですが、この言葉には、打ちひしがれた心を、もう一度、立ち上がらせてくれる力がある。「赦しに与かって」もう一度、人生を始めよう、と云う積極的な気持ちへ向かわせてくれる力がありました。
私にとって、クリスマス、救い主の御降誕とは、自分の心に先の聖句、主の赦しの言葉が自分の心に光を灯してくれた日であります。聖書の言葉が自分の心の中に宿り、生き始める。これが「聖なる夜の物語」として伝え聞くクリスマスとは別に、私達が与かることの出来る、ある意味で、真のクリスマスではないかと思います。
罪責感に苦しむ人々は、イエスが語り、顕して下さった「赦しの福音」に与かって、どれだけ多くの人々が救われて来たことでしょう。その中の一人、八木重吉(1898~1927)も「ゆるし」と題して、次のように歌っています。
また、瞬きの詩人として知られている水野源三さん(1937~1984)は第三詩集『今あるは神の恵み』(1981)の中で、このように歌っています:
本日のテキストは「裁くな」と云うイエスの教えでありますが、その前提には「赦しの福音」があり、その赦しに与かって立ち上がる、励ましの言葉が聞こえています。私達も「赦しの福音」を頂いて、ご一緒に新たな週の歩みと、新しい年への希望をもって、これより踏み出して行きましょう。
祈祷:主イエス・キリストの父なる神様
罪と過ちを幾度となく重ねて来た私をも、あなたの慈しみと愛の内においてくださり、今日もみ言葉を頂いて、新たに生きる希望と力を授けて下さいましたこと、心より感謝申し上げます。どうか、拙い歩みをあなたがお支え下さり、すこしでもあなたの御意に相応しくあることができますよう、お導き下さい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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