「神の国での食事」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・3・19

「神の国での食事」

村上 伸
イザヤ書 25,6-10 ; ルカ福音書 14, 15-24

教会暦によれば、先週から「受難節」という季節に入っている。イエスの十字架・復活までの40日間のことである。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスが、荒れ野で40日の間、悪魔の誘惑に遭ったという言い伝えに基づく。

さて、そのことを記した ルカ 4,1-3 によると、その間イエスは「何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」という。神の国の宣教を始める前に、彼は何よりも先ず、食べるものが何もないという体験をしなければならなかった。

その後でイエスは、故郷のナザレで、イザヤ書 61,1-3 に託して自らの生涯の使命を明らかにしたが(ルカ 4,16-21)、その第一は、「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことであった。このことの前に貧しい人の空腹感を自ら体験したことは重要である。

 

ペルーのグテイエレス神父は、1960年代に首都リマの貧しい人々の地域で、キリスト教のことを余り知らない人々に「布教」しようとして、その人々の余りの貧しさに言葉を失ったという。「布教」どころではない。そこの人々は、そもそも食べる物がなくて日常的に飢えている。病気になっても医者も薬もない。もちろん教育を受けるチャンスもない。人間として考え得る限り最も劣悪な状況にある。この人たちにも人間らしい暮らしがなければならない。そこでグテイエレスは、この地域に入って行って生活を共にするところから始めた。そこから生まれたのが、「解放の神学」であり、そこで語られる「新しい言葉」だった。この彼の歩みには、「荒れ野で飢える」という原体験から出発して宣教を始めたイエスの歩みに重なる所があるのではないか。

ところで、福音書を読むと、イエスは「病人を癒す」ことと並んで、「食べる」ことに殊のほか熱心だったという印象を受ける。「おかしなことを言う」と思われるかもしれないが、私は本気で言っているのである。もちろん、彼はただの「食いしん坊」ではなかったし、まして、今流行の「グルメ」だったわけでもない。

私は今、イエスが食べることに熱心だったと言ったが、先ず気が付くのは、彼が、ファリサイ派や律法学者たちが決して食べたり飲んだりしないような状況・場所で、意図的に「食べ」たことである。例えば、「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりして」(ルカ 5,30)非難された。そのこともあって、「大食漢で大酒飲みだ」(ルカ 7,34)と、さんざん悪口を言われた。他の熱心な信仰者、例えばヨハネの弟子たちが断食をしている時にも、彼と彼の弟子たちは、平気で「飲んだり食べたりした」(ルカ 5,33)し、安息日に、弟子たちが空腹の余り、道沿いの麦畑の穂を摘んで食べ始めた時も、彼は決して咎めなかった(ルカ 6,1-5)。イエスの「飲食」の特徴の一つはそれである。

だが、もっと大切なのは、「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことを生涯の使命としたこととの関連である。正にそのために、彼は福音を語り始める前に、食べる物もない貧しい人々の苦しみ、つまり40日間の空腹を経験したのだと思う。だから彼は、「食べる物が欲しい」という貧しい人々の切実な要求を、決して「正しくないこと」とも「下品なこと」とも考えなかった。だからこそ彼は、「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」(ルカ6,21)と言われたし、「わたしたちに必要な糧(パン)を毎日与えて下さい」(ルカ 11,3)と祈るように教えたのである。

 神はこの祈りを聞いて下さる。これはイエスの確信であった。神は、人間として生きるための必要最小限のこの要求を、聞かずに放っておかれるはずはない。必ず聞いて下さる。富める国々では沢山の「食べ残し」が山のように捨てられている一方で、アフリカやアジアの各地には、北朝鮮にも、今食べる物もなく痩せ細って死んで行く人々が大勢いる。ことに、飢えた子供たち。このようなことは、神の御心ではない。

聖書では、やがて来るべき神の国(支配)がしばしば「食事」に喩えられるが、これは意味のないことではない。貧しい人々にとって、神の国とは、差し当たり「飢えないこと」、「食べて行ける」ことなのである。

 これは、旧約聖書以来の伝統的な考えであった。先に読んだイザヤ書 25,6以下も、その一つである。そこで描かれているのは、かなり贅沢な食事だが、これこそは貧しい人々の切実な祈りであった。一度、腹一杯にご馳走を食べたい! そしてイエスは、この祈りは聞かれる、と言うのだ。必ずそういう時が来る。神の国が来る。

 

さて、今日のテキストは、盛大な宴会について語っている。もちろん、これは「神の国」の譬である。イザヤ書 25,6 に描かれているような沢山のご馳走が並び、「大勢の人」(16節)が、あるいは「すべての」人がこの宴席に招待される。

 ところが、「畑」や「牛」を買った人、あるいは「妻を迎えた」人、つまり富める人々は、一様に口実を設けてこの招待を断る。そこで、「貧しい人、体の不自由な人、…」(21節)が半ば強引に連れてこられる。「神の国で食事をする幸いな人」(24節)は、実は富める人々ではなくて貧しい人々である、とイエスは言っているのだが、ここで注意しなければならない。富める人々は初めから除外されているわけではない。彼らも神の国の食事に招待されているのである。それを、彼ら自身が断っているのだ。

現代の南北問題などを考える時、この点が実に現実味をもって迫ってくるのを我々は感じないだろうか。



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