「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて…」(7節)とあるが、ユダヤの社会では、「上席争い」のようなことが実際にあったのだろうか。文化の違い?
日本では、ことにキリスト教会では、こういうことは一寸考えられない。むしろ、常に「上席の譲り合い」や「末席争い」が起こる。いちいち、「上も下もありませんよ」と言って、「上はあちらです」と、神のおられる天を指し示さなければならない程だ。もちろん、ユダヤでも日本でも、上席に座る人が必ずしも傲慢とは限らない。こういうことは、一概には言えないものだ。
その点を少し掘り下げて、考えてみたい。
今日の話は、「あなたよりも身分の高い人が後から来て、その人に席を譲るように求められて恥をかくことになるかもしれないから、最初から上席につくことは避けたほうがいい。むしろ、初めは遠慮して末席に座り、『もっと上席に進んで下さい』と言われてから上席についた方が、列座の人々の前で面目を施す結果になる」、というわけだから、一見、いわば「処世上の技術」を教えているように見える。このような「生活の知恵」は、日本のような「縦社会」では有効かもしれない。
だが、その程度の処世訓だとすれば、「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)という言葉も、詰まらないものになってしまう。イエスが問題にしているのは、そのような「表面的な処世術」ではないであろう。
この個所は、ルカ以前の伝承で、特殊資料に属するらしい。元々は一般的な生活の知恵を教えた譬だったのかもしれない。だが、ルカはそれを自分の福音書の中で、律法学者やファリサイ派に対する批判の文脈の中に取り込んだのではないかと思われる。この話の直前には、イエスが安息日に水腫という病気を患っている人を癒したこと、そして、ファリサイ派や律法学者たちがそのことを不快に感じたということが書いてある(14章1-6節)。今日の話は、そのすぐ後に出てくるのである。そこから考えても、ファリサイ派や律法学者を批判するという大きな文脈の中にあることは、明らかではないだろうか。
このように見てくると、「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、「謙虚であれ」と教えた一般的な道徳ではない。いわんや、「高められるためには一応へりくだった態度を示しておくのが得策だ」というような、低俗な処世術では断じてないであろう。
「招待を受けた客」が誰かは、ここにははっきりと書かれていないが、それがファリサイ派や律法学者であったと考える理由は十分にある。例えば、ファリサイ派や律法学者に対する厳しい批判を詳細に展開した11章27-52節においてルカは、彼らが「会堂では上席につくこと」(43節)を好むと言って批判している。ルカ 20,45-47 も同様であって、今日の所と同じ言葉を使って彼らを批判する。
イエスの律法学者批判は、もちろん、単に彼らが「上席につくことを好む」という点にだけあるのではない。11章39節以下 に明らかなように、「杯の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(39節)からだ。あるいは、「薄荷やうんこうやあらゆる野菜の十分の一は捧げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(42節)。さらに、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」(46節)。「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」(52節)。
このような偽善・形式主義を、イエスは殊のほか嫌った。律法に対して熱心なのは良い。だが、それは、例えば宗教上の儀式やさまざまの規定を形式的にきちんと行うだけでなく、律法本来の精神に対して忠実であることであり、実際に正義と公平を、イエスの言葉によれば「神への愛と隣人への愛」を行うことであるはずだ。律法を通じて人に重荷を負わせるのではなく、重荷を負った人に手を貸すことであるはずだ。律法に関する該博な知識も、人と自分とが共に神の祝福に与るためであって、自分の知識を誇り、偉そうな顔をするためではない。「誰でも高ぶる者は低くされる」というのは、こういう意味である。
12節以下は、本来別の話だが、この関連で深い意味を持ってくる。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」(12節)。その理由は、「その人たちもあなたを招いてお返しをするかもしれないから」、というのである。もちろん、これは誇張した言い方だ。友人・兄弟・親類・近所の金持ちといった人々を招いたって一向に構わない。だが、何らかの意味で「お返し」を期待するようなことは、あってはならない。人に対する好意や愛は、無償の行為でなければならない。
だからイエスはこう言う。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」(13節)。実は、イエスはここで、律法学者たちの伝統的な律法主義をひっくり返しているのである。サムエル記下 5,6-8 に、「目の見えない者、足の悪い者」に対する差別の根拠が記されており、律法学者たちは当然、この伝統を遵守していた。だが、イエスはこれをひっくり返す。これこそが、「へりくだる」という事の内容なのである。
この意味で、「へりくだる者は高められる」!
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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