イエスは、一方では群集の人気を集めていたが、他方では、その宣教の当初から、ユダヤ教の指導者たち、すなわち長老・祭司長・律法学者たちの敵意に取り囲まれていた。イエスの言葉や業に類い稀れな力があることが明らかになるにつれて、敵意はつのった。5章21節などに記されている通りである。
そしてこの敵意はやがて殺意にまで高まる。このことをイエスは、ある緊迫感をもって感じとっていた。9章22節では「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺される」と予告しているが、同じ内容の言葉がその後も二度繰り返される。そして、十字架という結果につながる。これが福音書を貫いている太い線である。
つまり、イエス、この真実な方は、いわば宗教上の理由で殺されたのである。同じようなことは、歴史上繰り返し起こった。今日になっても繰り返されている。残念ながらキリスト教の歴史も例外ではない。宗教上の「原理主義」が、どれだけ多くの争いを、流血を、そして悲しみを生み出して来たことであろう。
だが、これと平行するようにして、もう一つの殺意の系譜がある。今日の個所に、「ヘロデがイエスを殺そうとしている」(31節)とある。この点に注目したい。
このヘロデは、イエスが誕生した頃のヘロデ大王とは別の人物で、大王の息子ヘロデ・アンテイパスである。大王の死後ガリラヤとペレヤを譲り受け、ローマからも認められて、民衆からは「王」と呼ばれていた。腹違いの兄弟の妻を横取りしたことを洗礼者ヨハネから諌められ、この真実な預言者の首を宴会の座興のようにして斬った人物として名高い。
さて、このヘロデは、イエスについて「洗礼者ヨハネの再来のような人だ」という噂を聞くと不安になり、困惑した。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」(9章9節)。そして、彼はイエスに会ってみたい、というよりも、「一度見てみたい」(佐藤訳)と思った。
これが、イエスに対して殺意を抱くようになる伏線である。詳しいことは何も書いてないが、とにかく、ヘロデはイエスを殺そうと思った。
先程は、宗教上の「原理主義」が、多くの流血と悲惨を生み出して来たということを述べた。しかし、ここでは「政治」がイエスのような真実な方を殺そうとしている、と言われているのである。これもまた、我々の世界の現実である。
むろん、この世界に政治は必要である。悪を制し、秩序を守るためには、政府のようなものがなければならないし、警察力も必要だ。だが、本来民衆の生活を守るべき政治が、昔からどれだけ多くの不正を行い、どれほどの苦しみを民衆に与えてきたか。新潟県警の事件に始まったことではない。
例えばこのヘロデの父親は、イエスが生まれた時のユダヤの王であったが、自分の権力の安泰を願う余り、ベツレヘム付近の二歳以下の男の子をことごとく殺したという。そして、その息子のヘロデ・アンテイパスは、洗礼者ヨハネの首を切り、今また、イエスを殺そうとしている。
政治は、大きな権力を握っているから、とんでもないことを実行する。ヒトラー、スターリン、そして、チリのピノチェトや、ユーゴのミロシェヴィチといった無数の小さなヒトラーたち。
我が国の政府も、明治以来、天皇を神とする疑似宗教的なイデオロギーによって、多くの良心的な人々を圧殺したばかりではなく、隣国を次々に侵略したり、植民地にしたりして、そこに住む善良な人々に塗炭の苦しみを負わせた。これが、この世界の現実である。
イエスは、長老・祭司長・律法学者たち、つまり、原理主義的な「宗教家の殺意」と、思い上がった「政治家の殺意」に挟まれてここに立っている。真実なものが、この二つの殺意に挟まれて死のうとしているのである。これが、この世界の現実だ。イエスはこの現実を嘆く。「エルサレム、エルサレム・・」(34節)
だが彼は、このような現実に結局は敗北するしかないと嘆いているのではない。
ヘロデへの伝言の内容は、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える」(32節)というものであった。
「悪霊を追い出し」、「病気を癒す」彼の業は、ルカの理解するところでは、神の真実の支配が既にそういう形でこの世界の歴史の中に始まっていることを現すものである(11章20節)。これが、どんなに嘆かわしい現実の中にも続いている神の道なのであり、それはイエスの死をもって途切れはしない。だから、一見死をもたらすようにしか見えないこの世界の現実の中を、彼は歩み続けるのである。
彼は確かに、自分の道が十字架に至るものであることを見極めている。だが、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない・・」(33節)と言う。これは単に、死を覚悟して恐れずに歩み続けるというだけの意味ではないだろう。「今日も明日も、その次の日も」という言葉は、十字架の後に来る復活を暗示している。苦難と死を通りぬけて、最後の祝福の時まで続いている神の道を歩み続けること。これ以外に彼の生き方はなかったのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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