【提起】こんな牧師・リーダーには気をつけろ!

▼牧師の言うことこそ、吟味しなければならない?
▼悪い牧者の特徴
▼人の上に立とうするリーダー
▼人をコントロールしようとするリーダー
▼神・イエス以外に目を向けさせるリーダー
▼イエスを知らない牧師もいる?!

牧師だからといって、安易に信用してはいけません。いや、リーダーたちの言うことこそ、一番気をつけなければいけないのかも?!

 

  • ▼牧師の言うことこそ、吟味しなければならない?
  • ▼悪い牧者の特徴
  • ▼人の上に立とうするリーダー
  • ▼人をコントロールしようとするリーダー
  • ▼神・イエス以外に目を向けさせるリーダー
  • ▼イエスを知らない牧師もいる?!

 

▼牧師の言うことこそ、吟味しなければならない?



 教会に行くと、たいてい牧師という人がいる。礼拝会の「説教」もこの牧師が行っている場合が多い。教会に通ううちに、何やらこの牧師という人が、教会の中で教える立場であり、リーダーなのだと、徐々に感じていく。

 しかし、忘れてはならない。牧師はただの人間であり、神ではない。神と人をとりつぐ祭司でもない。牧師は聖書の全てを知っているわけではない。牧師の言うことは、神のことづてではない。お隣の国の教会の多くは、牧師の言うことは神の言葉だという、明らかに間違った教えをしている。聖書を読み直したほうがいい。牧師が言うことが、全て正しいとは限らないのだ。

 いや、むしろ牧師の言うことだからこそ、注意深く吟味しなければならない。人間は弱い。人は権力や立場を手にした瞬間に、間違ったベクトルへと走り出す傾向がある。牧師になれば、ある程度の信頼と尊敬を人から集める。自分でも気が付かないうちに、高慢になり、自分が正しいと思い込み始める。この罠にハマっている牧師・リーダーたちが何と多いことか。クリスチャンは、牧師や諸々のリーダーたちの発言こそ、気をつけてチェックし、吟味する必要がある。

 今回は、こんな牧師・リーダーは危ないぞ! という例をいくつか挙げる。心当たりの人が周りにいたら、要注意だ。自分の霊、たましいを守るためにも、程よい距離感が必要である。同時に、ぜひ、その人たちのために祈っていこう。

 

 

▼悪い牧者の特徴

 イエスが一番批判したのは、当時の宗教的リーダーたちだった。彼らはパリサイ派とか、パリサイ人とか呼ばれていた。長年の宗教儀式から、彼らは聖書の基準からそれてしまっていた。イエスは、高慢ちきになった彼らを、徹底的に批判した。イエスは、彼らと話す中で、こんなたとえ話をして、悪いリーダーたちの特徴を挙げている。

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。わたしの前<以前に>に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり、散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。

(ヨハネの福音書 10:7~13)

 

 イエスは、自分を「羊の門」「良い牧者」になぞらえて、他の宗教的リーダーたちとの違いを鮮明にした。わかりやすくまとめてみよう。

<イエスの特徴>

・イエスは羊の門である。(比喩として)

・イエスを通してでなければ救われない。

・イエスは私たちにいのちを与える。

・イエスは良い牧者である。(比喩として)

・イエスは私たちのためにいのちを捨てた。

<悪いリーダーたちの特徴>

・盗人であり強盗。

・盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするのが目的。

・困難が来ると、他の人を見捨てて逃げる。

・羊のころを心にかけず、一番大切なのは自分自身。

 

 このイエスのたとえ話を聞くと、上のような点にまとめられる。悪いリーダーが求めているのは自分の利益であり、他の人々の利益ではない。

 逆に、良いリーダーの特徴は、本当の「羊の門」であり、「良い牧者」であるイエスの下に他の人々を導くという性質である。イエスのことがより分かるようになる。イエスの姿をクリアにする。それが良いリーダーの役割であり、しなければならないことである。これができていない人は、どんなに深い知識を持っていようが、有名な学校で神学の教育を受けていようが、全く意味がない。むしろ、悪影響である。

 では、どうやって良いリーダーと悪いリーダーを見分けていけばいいのだろう。今回は、思い当たる「悪いリーダー」の特徴を挙げていく。

 

 

▼人の上に立とうするリーダー

 牧師の中には、他の人より自分は偉いのだと、マウンティングしてくる人たちがいる。残念ながら、これは明らかにイエスの教えと違うベクトルに走ってしまっている、一番ダメなパターンだ。イエス自身が、何度もこう教えている。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人(外国人)の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうではあってはなりません。あなたがたの間でえらくなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」

(マタイの福音書 19:25~27)

一行(イエスの弟子たち)はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい

(マルコの福音書 9:33~35)

さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです

(ルカの福音書 9:46~48)

 

 お分かりだろうか。人間は、自分が他の人よりも偉くなろうと競争してしまう性質を持っている。イエスの弟子たちもそうだった。家族でも、会社でも、サークルでも、時には教会の共同体の中でも、人は他の人の上に立とうとして、躍起になって競争するのである。

 しかし、イエスは、全く違う法則を示した。「皆のしもべになれ」「皆に仕える者になれ」「一番小さい者が一番偉い」という、この世の中と真逆のベクトルを示したのである。これが神の法則である。

 クリスチャンは、王の王であり、神であり、唯一の救い主であるイエス自身が、自分のいのちを捨ててまで愛してくれた事実を知るべきである。神である方が、見を低くして、人間になってまで地上に来てくださったのだ。それなのに、なぜ人間の間で誰が上だとか下だとか、くだらない争いをするのだろうか。牧師になってまで、こんな基本的なことも分かっていない人は、クリスチャンの風上にも置けない。猛省せよ。

 

 人の上に立とうとするリーダーの特徴として、自分が期待したような尊敬を得られないと、かんしゃくを起こすというのがある(※怒る人の性質については、別記事を参照)。

 彼らは、自分の自尊心が満たされず、怒るのだ。そのため、教会の共同体の人たちに対して、怒りをぶつける。「なぜあなたたちはもっと聖書を読まないのか」「なぜ自分の説教を理解しないのか」「なぜ神に対して真剣にならないのか」と、共同体のメンバーを責めだす。自分が上手に導けていないのを、他人のせいにするのである。

 この手のリーダーについては、かつて、「牧師はなぜ先生と呼ばれるのか?」の記事で詳細に書いたので、ぜひ参考にしていただきたい。「先生」と呼ばれないと怒るなんていうリーダーは即失格だ。私たちの教師はイエスただ一人であり、私たちクリスチャンはお互いに、皆兄弟なのである。そこに上とか下はない。

 もし、あなたの周りの牧師が、偉そうにふるまっていたら、その人は良いリーダーとは言えないだろう。彼、または彼女のために祈って差し上げよう。その人は、人からの承認欲求が満たされていない、可愛そうな人なのだ。世の中に認めてもらえず、せめて教会の共同体の中では尊敬されたくてされたくて仕方のない、小さな人なのだ。かわいそうな仲間だと思って、神によってその人の自尊心が満たされるように、祈ってあげよう。

 

 

▼人をコントロールしようとするリーダー

 人の上に立つリーダーとちょっと違う種類に、「人をコントロールしようとするリーダー」がいる。どういうことか。人の人生の選択や行動を、自分の思い通りに操作しようというリーダーだ。特に教会の牧師や、宣教団体のリーダーにありがちなパターンである。

 いくつか例を挙げよう。知人のY氏は、とある大学に進学しようとしていた。そのために猛勉強していた。しかし、ある日、突然進学をやめたという話を聞いた。不思議に思って色々聞いてみると、某クリスチャン団体のリーダーが、「あなたは世の中に出ていく準備ができていない」と、Y氏の進学に反対したという。結局、Y氏はそのリーダーの主張を聞き入れ、進学を断念してしまった。

 知人M氏は、クリスチャンになってから、とあるリーダーに出会った。そのリーダーは、M氏の進学先、就職先まで指定してきた。M氏は、それに従った。そこに選択の余地はあったのだろうか。私は、「牧師のメンツを立てなければ」という動機のように思えてならなかった。断れるような空気感が、共同体の中になかったのかもしれない。

 知人Y氏は、付き合っている相手がいた。結婚まで考えた真剣な付き合いだったが、牧師がその相手を気に入らなかった。「相手と別れなければ、教会から出ていってもらう」と言われ、泣く泣く、相手とお別れすることになった。

 

 このような例は、残念ながら枚挙にいとまがない。クリスチャンではない方がこの話を聞くと、「宗教って怖い」と思うことだろう。恐ろしいし、残念だが、これは本当に事実なのである。このような人のコントロールが、教会の中にまかり通っている。これでは、「キリスト教」はカルト宗教と全く変わらなくなってしまう。残念ながら、牧師たちの中には、このように人の人生や選択を、自分の思い通りにコントロールしようとする人が、本当に多い。

 実は、使徒パウロでさえも、この誘惑に負けてしまったことがあった。それは、マルコという人物をめぐって仲間のバルナバと争った時だった。

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒につれて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。

(使徒の働き 15:37~39)

 

 マルコは、以前の旅を途中で脱落してしまった。パウロは「そんなやつは今度の旅も連れて行けない」と主張した。しかし、マルコのいとこであり、「慰めの子」とも呼ばれたバルナバは、マルコを連れて行こうとしたのだった。そこで激しい議論になり、今までずっと一緒に働いていたバルナバとパウロは分裂してしまうのであった。

 パウロは、この後、バルナバとマルコと和解したと見られている。パウロの手紙の中にこのような記述がある。

私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに言ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。

(コロサイ人への手紙 3:10)

ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は輪足の努めのために役に立つからです。

(テモテへの手紙第二 4:11)

 

 このような記述から、パウロがマルコを排除しようとした、「排除の論理」をとったのは、正しいモチベーションでなかったことが想像される。パウロは後々反省し、このような告白ができた。しかし、果たして現実の牧師たちはどうだろうか。

 他人の人生をコントロールしようとするなどということは、神の支配を自分のものにしようとする、もってのほかの愚行である。聖書のメッセージを理解できていない。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れ(教会の共同体)を牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

(ペテロの手紙第一 5:2~3)

 

 私たちが求められているのは、支配することではなく、模範となることである。

 

 

▼神・イエス以外に目を向けさせるリーダー

 最後に紹介したいリーダーの特徴は、「神やイエス以外に目を向けさせる」というものである。これが一番やっかいで、極悪なパターンである。

 先に挙げた2つの例のように、偉ぶったり、人を自分のコントロール下に置こうとするリーダーは、まだ可愛げがある。しかし、人の目線をイエスから逸らさせようとすることほど、悪いことはない。あろうことか、これを牧師や宣教団体のリーダーたちが行ってしまっているのである。

 例えば、社会活動に熱心な人たちがいる。立派なことだ。宗教的儀式を熱心に行うより、実際に困っている人たちを助けることが大切だというのが、イエスの教えだ。親がいない子どもへの援助、介護、自殺防止の支援など、社会的にとても大切な働きはいくつもある。このように、イエスの教えを実際に実行している人たちには、頭が下がるばかりだ。

 しかし、その中心にイエスはいるだろうか。ある団体は、社会福祉活動に熱心になるあまり、スタッフをボロ雑巾のようにこき使っていると聞く。いわゆるブラック企業だ。今日び、ブラック教会や、ブラック宣教団体が多くはびこっている。働きそものは大切だが、その中心にイエスの愛がなかったら、何の意味もない。働いている人たちが、働きに影響されている人たちが、イエスを知るきっかけがなければ、何の意味もない。

 

 また、先日とあるキリスト教団体の職員さんにお話を聞いた。その団体は、イスラム教国での学習支援を行っているという。イスラム圏での働きは、難しさを極める。頭が下がった。「それで、どうやって働きを通してイエスのことを伝えるんですか?」私は聞いた。働きの説明を聞いて、どうも腑に落ちなかったのだ。「伝えません」。職員さんは断言した。イスラム圏でイエスの話をすると危険だからだという。下手に伝えると、その地域での活動が制限されるからだという。

 私はあいた口が塞がらなかった。目的と手段を取り違えていないか。イエスを伝えるために、イスラム圏に入ったというのが元々の目的だ。しかし、いつの間にか、「この地域で活動を続けるために、イエスを伝えない」となってしまっているのだ。目的と手段が逆転してしまってるのだ。

 

 他にも、ある牧師やリーダーたちは、自分たちの「平和活動」や「政治活動」に大変熱心である。結構なことだ。しかし、私の目には、それが彼らの「目的」になってしまってるように思えてならない。彼らは、自分たちが熱心なだけならまだしも、他の人にまで自分の政治的思想を「伝道」し、多大な影響を与えている。その中心にイエスはいるのか。聖書の言葉が根拠になっているのか。甚だ疑問である。

 彼らの活動は、本当に人々をイエスの方へと導いているのだろうか。彼らが聖書を読み、神のことを知り続けることを励ましているのだろうか。聖書の勉強をよそに、憲法の勉強をさせていないだろうか。イエスのことを知らせる前に、政党の政策を知らせようとしていないだろうか。

 私自身、政治の記者として働いている。働きながら思うのは、政治に正解はないということだ。ただ一つ正解があるとすれば、それは「イエスが道であり、真理であり、いのちである」という事実である。イエスを知らなければ、どんなに良い政治をしても、平和活動をしても、無意味なのである。牧師やリーダーに求められるのは、政治的立場を叫ぶことではなく、イエスの福音を叫ぶことである。

 

 この手の、「神・イエス以外に目を向けさせるリーダー」にありがちなのは、自分の目的のために、他者を利用するという特徴だ。この手のリーダーたちは、自分に都合のいい人々だけを周りに置く傾向がある。考えが合う人ばかりと付き合い、洗脳し、自分の目的のために人々を利用する。考えが合わなくなったら、バッサリ切り捨てる。経営者的な目線で見れば、考えが合わない人と一緒にやるより、目指す方向が同じ人と組んだ方が効率的ではある。しかし、そこに神の愛はあるのか。その進む道の先には、イエスがいるのだろうか。それとも、別の目的があるのだろうか・・・。

 

 

▼イエスを知らない牧師もいる?!

 最後に、大胆に宣言したい。あなたの知っている牧師は、イエスを知らないかもしれない。宣教団体のリーダーは、イエスの福音を理解していないかもしれない。えっ、嘘! と思うかもしれないが、実は、その可能性は大いに有り得る。

 そんな、ウチの牧師は、●●神学校を卒業して、聖書の知識をたくさん持っている。まるで歩く聖書辞典だ。説教も面白いし、毎回学ばされる。そんな●●牧師が、イエスを知らないわけがない。イエスの救いを受け取っていないはずがない! ・・・そう思う方もいるかもしれない。そこに落とし穴がある。

 聖書に何と書いてあるか見てみよう。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3)

 

 そう。イエスに出会うというのは、知識的に知るという意味ではない。神が与える「聖霊」の力がなければ、「イエスは主だ」と知ることはできないのである。聖霊の力なしには、イエスを見ることはできないのである。

 どんなに聖書の知識を持っていようが、関係ない。実際に、パウロは知識的には右に出る者がいないほどの律法学者だった。パウロは、知識だけでなく、行いにおいても完璧な人間だった。パウロはこう言ってる。

ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目の割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

(ピリピ人への手紙 3:4~6)

 

 パウロは、きっすいのイスラエル人だった。律法に精通していて、右に出る者はいないほどだった。しかし、彼はイエスを受け入れられなかった。パウロはイエスを知らなかった。イエスを知った後のパウロは、こう述べている。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのもの(律法など)を、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。

(ピリピ人への手紙 3:7~9)

 

 どんなに聖書の知識を持っていても、有名な学校で教育を受けていても、それはイエスを知っている判断基準にはならない。むしろパウロは、「すべてを損と思っている」と告白しているのだ。同じように、ユダヤ律法学校の校長だったニコデモ(ヨハネ3章参照)も、知識ではトップ中のトップだったが、はじめはイエスを信じることができなかった。かえって、何の知識もない罪人、外国人たちがイエスを信じることができたのであった。

 

 私も同じだった。私がイエスに出会ったのは、16歳の時だった。その時に、ローマ書5章8節の「しかし、私たちが ”まだ” 罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた・・・」という部分を読んで、初めてイエスが何をしてくれたか頭と心で理解した。腹の奥底から喜びがわきあがった。聖霊が働いた瞬間だった。

 実はそれまで、私は自分がクリスチャンだと思っていた。10歳の頃に教会に通い始め、それなりの聖書の知識は持っていた。優等生的な気質だったので、何をすれば、何を言えば大人が自分を「立派なクリスチャン」と認めてくれるか、なんとなく分かっていた。無意識に「立派なクリスチャン」を演じていたのである。

 しかし、イエスの十字架が何を意味するのか、イエスが何をしてくれたのか、その福音の全貌を全く理解していなかった。恥ずかしながら、そんな状態でも「立派なクリスチャン」を演じきって、カナダ留学中には、「最もイエスの性質に近い生徒」(The Most Christlike Award)の賞まで受賞してしまったのである。本当の意味でイエスと出会っていない人でも、「立派なクリスチャン」を演じるのは、実はたやすいのである。それだけでなく、イエスに本当に出会っていなくても、「それっぽい説教」「それっぽいメッセージ」はできてしまうのである。それが怖いところなのだ。

 

 もしかすると、あなたの知っているあの牧師や、あのリーダーは、本当の意味でイエスに出会っていないかもしれない。その可能性は、実は思ったより高い。実は私は、そのような人々にたくさん出会ってきた。実は、大きい団体のリーダーをしている牧師や、有名な人ほど、その傾向がある。人に認められ、人を引きつけるカリスマ性がある人ほど、イエスの力ではなく、自分の力で生きてきてしまいがちなのだ。もし心当たりがあれば、その人たちのために、ぜひ祈ってほしい。本当の意味で神に、イエスに出会えるように。

 聖書は、「弱さを誇れ」「誇る者は主を誇れ」と書いてある。自分の弱さを大胆に告白し、皆でイエスの方へ向いていこうというベクトルを作れる人こそが、実は良いリーダーなのである。良いリーダーは、実は目立たない、小さな群れを率いているのかもしれない。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知ってると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

(コリント人への手紙第一 8:1~3)

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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