クリスチャンはよく「伝道」と言いますが、何をしたら伝道なのでしょうか?
クリスチャンたちはよく、「伝道」と言う。「でんどう」と読む。電動モーターとか、熱伝導とかの「でんどう」ではなく、「道を伝える」という意味の「でんどう」である。一般的には、ほぼほぼ聞かない単語ではないだろうか。「伝道者<でんどうしゃ>」という言葉は、たまに耳にするのかもしれない。
一般的に「伝道」は、神やイエスの救いについて伝えることを指す。日本人には「布教」といった方がなじみがあるだろうか。私個人としては、「伝道」と「布教」は違うニュアンスがあると感じる。「伝道」はイエスの救いを伝えること、「布教」は「キリスト教」という宗教の信者を増やすといったイメージがある。これは似て非なるものだ。
「伝道」とはイエスの救いを伝えること。私はそう思っていたが、クリスチャンの世界では、どうも少し違うニュアンスでこの言葉を用いる人がいるらしい。根幹は同じなのだが、教会や団体によって、微妙に違うのだ。ある人たちは、「教会に誰かを連れて行く」のを「伝道」だと言う。ある人たちは、「道端にいる人に突然声をかけ、イエスの救いを、決められた手順で解説すること」を「伝道」だと言う。ある人たちは、「『神を信じなければ地獄へ行く』という黄色い看板を持って立つこと」が「伝道」だという。
これでは、混乱してしまう。何が伝道で、何がそうではないのか、そもそも伝道とは何なのか。今一度考えてみようではないか。
まず、「伝道」とは何かハッキリさせる必要がある。実はなんとビックリ。「伝道」という言葉は、一度も聖書に登場しない。一度もだ。ただし、「伝道者」なら旧約聖書で7回、新約聖書で3回の、計10回登場する。では、それぞれの意味を見ていこう。
旧約聖書の「伝道者」は、ヘブライ語の「コヘレト」である。「コヘレト」は、旧約聖書に7回登場する。実は、この単語、7回全てが同じ本(※旧約聖書は39種類の本で成り立っている)で使われている。つまり、それ以外の聖書では全く出てこない、極めて特殊な単語なのである。その本の名前が、文字通り「伝道者の書」。翻訳によっては、「コヘレトの言葉」と呼ばれる、ソロモン王が書いたとされる本である。
この「コヘレト」という単語が曲者だ。何しろ、この本でしか出てこない特殊な固有名詞で、確実な意味が分からない。日本語では「伝道者」となっているが、「コヘレトの言葉」という発音をそのままカタカナ表記した翻訳からも分かるように、本当のところは、なかなか分からないのである。英語だと、多くの翻訳が「Preacher」(説教者)と表記している。一部の翻訳(NIV)では「Teacher」(教師)と訳している。ヘブライ語辞書を見ると、「言葉を集める者」や「教える者」「語る者」などの意味があるようだ。
新約聖書はどうか。こちらはもっと少なく、「伝道者」は3回しか登場しない(使徒21:8、エペソ4:11、テモテ第二4:5)。ギリシャ語の「伝道者」は「ユアンゲリテステイス」という単語で、日本人なら耳なじみのある「エヴァンゲリオン」の語源となっている単語だ。英語では、このギリシャ語から来て、evangelists(エヴァンジェリスト)と言う。
この単語の意味は、辞書を見ると、「良い知らせを伝える人」となっている。この「良い知らせ」というのは、単純に言えば、イエスが何をしてくれたのかを指す。辞書の最後の項目には、「新約聖書で使徒以外でイエスの救いを伝えた人たち」とも記されている。
「伝道」という単語は、とても特殊で、意味を特定するのが難しい。しかし、シンプルに考えれば、「イエスのことを伝えること」が「伝道」であると定義して良い。
ここまで出てきた内容をまとめると、以下のようになる。
・聖書に「伝道」という言葉は出てこないが、「伝道者」は出て来る。
・「伝道者」は10回しか登場しない特殊な単語である。
・旧約聖書の「伝道者」は「語り、教える者」というニュアンスがあると考えられる。
・新約聖書の「伝道者」は「良い知らせ=イエスの救いを伝える者」という意味。
・総合的に考えて、「伝道」=「イエスを伝えること」である。
では、「伝道」と「布教」は違うのだろうか。まず日本語の辞書を見てみよう。
【伝道】
・宗教的真理、または教義を伝達し広めること。特にキリスト教で、その教義を未信仰者に伝えて信仰に入ることをすすめること。ミッション。(デジタル大辞泉)
・教えを伝え、広めること。宗教、特にキリスト教において、その教えを未知・未信の人々にのべ伝えて、信仰を促すこと。布教。宣教。(大辞林第三版)
【布教】
・ある宗教を一般に広めること。「各地を回って布教する」「布教活動」(デジタル大辞泉)
・宗教を広めること。「~活動」「キリスト教を~する」(大辞林第三版)
同じようだが、若干の違いが見受けられる。「伝道」は「教義」や「教え」に力点が置かれている。対して「布教」は「宗教」に力点が置かれている。ここに、日本人の無意識のうちの区別があるのだと思う。
以下は私の意見だが、「伝道」と「布教」の違いを列挙すると以下だ。
【伝道】
・イエスがどういう存在で、イエスが何をしたか、そしてそれが個々にとってどのような意味があるか伝えること。
・イエスを知ってもらうことが目的。
・伝えた相手が、信じた後に、どの教会に行こうが、あまり関係がない。
【布教】
・「キリスト教」を伝えて、「キリスト教」に入信させること。
・キリスト教の信者を増やすのが目的。さらに言えば、所属教会の会員数を増やすのが目的。
・伝えた相手が、信じた後に、自分の教会や団体に所属してくれないと困る。
おおざっぱだが、以下のような違いがあるだろう。「伝道」はあくまでも、イエスという素晴しい存在を知ってほしくて行う。その人がその後、どうしようと神のみぞ知る。対して「布教」は、所属団体や所属教会(カトリックの場合は世界共通だが)の勢力拡大が目的だ。その人が会員になってくれないと、目的達成とは言えない。似ているようだが、目的は全く逆方向のベクトルだ。
多くの日本人が、この「伝道」と「布教」を混同しているため、イエスの話は敬遠されることも多い。無意識に「入信しないといけないんでしょ」というプレッシャーを感じているからなのだろう。多くのクリスチャンは、そのようなモチベーションでイエスの話をしているのではないと、声を大にして言いたい。多くのクリスチャンは、イエスが大好きだから、この大好きなイエスについて少しでも知ってほしいのだ!!!
あなたにも、好きな映画や漫画、ドラマ、芸能人、趣味がひとつやふたつ、あるだろう。それについて、語りたいと思ったことはないだろうか。自分が好きなモノや、ハマっているモノや、美味しいお店なんかを、「これめっちゃオススメ!」と言いたい気持ちになったことはないだろうか。それそれ。クリスチャンは決して「キリスト教」の信者を増やしたいわけじゃない。大好きなイエスを、大好きなあなたに知ってほしいだけなのだ!!
「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない。そんなことはどうでもいい。大切なのは、イエスが誰で、あなたのために何をしたのか、あなたに知ってほしいということだ。
では、どこからが「伝道」=「イエスを伝えること」になるのだろう。教会に友達を誘ったら? 聖書の話をしたら? マニュアルに沿った聖書の解説をしたら? 神を信じないと地獄行きという看板を持ったら? 聖書を配ったら? ・・・etc。
私なりの答えは、「全てが伝道」である。こんなこと言ったら身も蓋もないが、本当にそうなのである。「私はクリスチャンだ」と言うことすら伝道だと思う。電車の中で聖書を読むことだって、伝道になりうる。ほんの少しでもイエスの存在を示す行為ならば、それは伝道になりうる。
ある人たちは、「伝道」に対して、若干違う印象を持っているだろう。代表的なものは、「教会に誰かを連れて行く」ことだけを「伝道」だと思っている勘違いだ。もちろん、誰かを教会に連れて行くのは、とても良いと思う。教会に行くというのは、実際にイエスを信じている人たちと出会うキッカケになるし、多くの人は論理的に聖書を理解するのではなく、人間関係のあたたかさからイエスの愛を感じるからだ。これはイエスも言っている。
わたし<イエス>はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
(ヨハネの福音書 13:34~35)
しかし、ある教会は「教会に誰かを連れて来る」ことだけを「伝道」と表現している。これは間違っている。そのような教会は、往々にして「このイベントには何人連れてきましょう」というノルマがある。そうなると、危ない。イエスの愛を伝えたいという、「伝道」のモチベーションが、いつの間にか「何人集めなきゃ!」という「布教」のモチベーションになってしまう。こうなると、もう「愛」はなくなってしまう。こういう教会は、黄信号。このような傾向が出てきたらもう危ない教会なので、一歩退くことをオススメする。
ある人たちは、「道端で知らない人に突然声をかけ、イエスについて話す」ことだけを「伝道」だと言う。確かに、この世の中にイエスを必要としている人は大勢いる。道端にいる誰も彼もが、イエスを知ってほしい対象だ。それ自体は素晴しい。しかし、このような手法は往々にして、一回限りの出会いになりがちだ。中には、その場では「めんどくさい」から「はいはい、信じます」と言う人もいるかもしれない。しかし、その後が続かない。イエスを伝えた相手が、その後どこで何をしているかも分からない。道端で声をかける場合、その後の人間関係の構築が重要になってくる。
また、ある人たちは「システマチックにイエスの救いを伝える」ことだけが「伝道」だと考える。このような人たちは、小さい冊子に、完結に聖書の話をまとめて、それを使って解説する。それ自体は素晴しい。とても有益だ。長い長い聖書の要点をまとめるには、ある程度そのようなシステムによって整理する必要がある。しかし、そのシステムに頼りすぎると、ロボットのようになってしまう。慣れてくると、「要点を伝える」ことだけが目的となり、相手の目が見えなくなってしまう。まずは目の前の相手に寄り添うという、大切な視点が抜け落ちてしまう。
「伝道」のカギは、「人間関係の構築」である。イエスは12人の弟子をはじめ、大勢の弟子をつくり、彼らと一緒に旅をし、食事を共にし、一緒に生活し、彼らを教えた。人は人間関係を通して成長する。神は、人間を、互いに関わり、つながる存在として造った。「人間」という単語が、「人のあいだ」と書くのは、「人はつながる存在」だという真理を意味しているようで、とても興味深い。
様々な形で「伝道」はできる。イエスを信じていると大胆に言うこと。誰かと一緒に聖書を読むこと。イエスについて語ること。日常のシンプルな疑問に答えること。必要があればイエスについて教えること。一緒に祈ってみること。一緒に教会に行くこと。バプテスマをオススメすること。車にクリスチャンぽいシールを貼ること。イベントを企画すること。聖書を要約した冊子を配ること。神を賛美する歌をyoutubeに流すこと。クリスマスキャロルを歌うこと。全てが伝道になりうる。しかし、そこに人間関係がなければ、成功しないだろう。伝道とは、一筋縄ではいかないものである。人の人生は、その瞬間だけは終わらない。地続きなのである。誰かがキッカケを与え、誰かが教え、誰かが励ます。こうやってバトンを渡していく。一回で終わらない。それが伝道なのだ。
「伝道」の目的は、教会のメンバーを増やすことではなく、大切なあなたにイエスを知ってもらうことだと、先に述べた。では、この「伝道」はクリスチャンになったら必ずしなければいけないのだろうか。聖書を見てみよう。
私<パウロ>が福音<=良い知らせ、イエスの救い>を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
(コリント人への手紙第一 9:16)
そうせずにはいられない。ここにパウロの思いが込められている。イエスを知ったら、その素晴らしさのゆえに、黙っていられない!!! これこそが、「伝道」の本当のモチベーションである。
イエスはこの思いについて、面白い表現をしている。ユダヤ人の宗教指導者たちが、「人々があなたを神だと崇めている。神への冒涜だ。だから、あなたを称賛するのをやめさせよ」とイエスに命じたことがあった。その時、イエスはこう言った。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」
(ルカ19:40)
イエスは、「俺スゴすぎて、もし人間が俺を称賛するのをやめたら、石ころが代わりに俺のスゴさを叫んじゃうぜ?!」とまで言ったのである。自信満々。イエス半端ない!!!
しかし、これは真理で、イエスを知ると本当に黙っていられないのである。それだけイエスは、人の人生を変える力を持っている。これが伝道の一番のモチベーションになっている。この「イエス素晴らしすぎ!! 黙ってられない!! 何とかして伝えたい!!」というモチベーションは、枯れることがない。逆に言えば、それ以外の、「信者を増やしたい」とか、「教会をでかくしたい」とか、「俺が目立ちたい」とか、”不純な”動機の人々は、いつか燃え尽きてしまう。
最後に、聖書にはイエスの素晴らしさを伝えるモチベーションとなる言葉が、いくつかあるのでご紹介しよう。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことなのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
(ローマ人への手紙10:13~14)
信じたくても、情報提供者がいなければ、イエスを知ることができない。クリスチャンには、「イエスを伝える責任」がある。しかし、「信じさせる責任」はない。あくまでも、信じる、信じないは個人の選択であり、神の力なしにはできないからだ。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
(テモテへの手紙第二 4:2)
いつもイエスを伝えられるわけではない。自分のコンディションが整わない場合もあるだろう。しかし、状況が良くても悪くても、伝える責任や喜び、自分の心の内側を突き動かす衝動はあるはずだ。この聖書の言葉を思い出し、シチュエーションは言い訳にならないことを覚えておこう。
むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としてなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
(ペテロの手紙第一 3:15)
この言葉は、「伝道」の少し意外な側面が見え隠れする。消極的伝道とも言おうか。「心の中でキリストを主とし」「説明を求める人には・・・弁明できる用意をしていなさい」とある。裏返せば、「説明を求めない人に、あえてする必要もない」とも読める。これは、消極的な日本人にとって救いでもあるのではないだろうか。
しかし、これは同時に「だれにでも」「いつでも」説明できる用意をする必要があるという意味にもなる。クリスチャンは、常にイエスを伝える良いタイミングとチャンスに備え、心の準備をしておく必要がある。いつでも分かりやすく、イエスが誰なのか、何をしたのか、どんな存在なのか伝えられる知識的準備をしていく必要もある。何より、イエスが大好き! と胸を張って言える「生き方」をしている必要がある。
あなたの「生き方」こそが、最大の伝道なのだから。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.