「主の祈り」を祈る(7)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

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天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」

 「」は直訳すると「パン」です。「日用の」と訳されているギリシア語epiousiosは、古代文献の中でマタイ6章11節とルカ11章3節、さらに使徒教父文書の『十二使徒の遺訓(ディダケー)』8章2節にしか登場しません。これらはすべて主の祈りを記した箇所ですので、この言葉の正確な意味を知ることは大変困難です。聖書学者たちは「日ごとの」「生存に必要な」「明日の」「未来の」「超自然的な」等々、さまざまな訳語を提案してきましたが、意見の一致を見るには至っていません。

ここで専門的な議論に立ち入ることはしませんが、前回見たように、主の祈り全体においては、神の支配がこの地上に訪れるという地上的な視点が重要ですので、epiousiosという言葉について極端に霊的な理解に傾いた訳語はふさわしくないと考えられます。結論だけ言いますと、伝統的な「日用の」という訳語を用いることは問題無いと思います。そうすると、ここでの「日用のパン」は食物一般、もっと拡げて、私たちが生きていくための物質的な必要全般(衣食住)を指すと考えて良いと思います。さらに拡げて、この世で生きるための地上的必要全般ととることもできるでしょう。

聖書は私たちの存在の物質的な側面を軽視しません。霊を重視し、肉体や物質を軽視するのはギリシア思想のあやまった霊肉二元論の影響です。私たちが生きていくためには様々な物質的必要があることを神はご存じであり、そのために祈ることを禁じられないばかりか、むしろ命じておられることが分かります。私たちは人生の物質的必要を神に祈り求めるべきであるし、与えられたら神に感謝すべきなのです。

今日も与えたまえ」という言葉から、イエスが主の祈りを弟子たちに教えた時に、彼らがこの祈りを毎日祈ることを前提としていたことがうかがえます。現代文明のただ中に生きている私たちは、毎日食べるパンがあるのは当たり前のように思っていますが、イエスの時代の人々は決してそうではありませんでした。明日食べるためのパンが与えられるように、切に祈らなければならない人々が圧倒的に多かったのです。

それと同時に、私たちは人生の終わりまで何十年もの必要を一度に与えられることはありません。たとえ莫大な財産を持っていても、明日何が起こるかは誰にも分かりません。だからいつでも父なる神に信頼し、その時その時の必要を満たしてくださることを求めて行かなければならないのです。

以前の記事で、主の祈りはイエスが教えられた順番に祈らなければならないということを述べました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りは、その前にある「御国を来たらせたまえ。みこころをなさせたまえ」の文脈の中で祈ることが大切です。そのように考えると、この祈りは単なる個人的な快楽や安楽な生活のための祈りではないことが分かります。イエスご自身が、山上の説教の中で次のように教えています。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6章31-34節)

私たちの物質的な必要が満たされることは、神の国の到来と無関係ではありません。人間の生存には衣食住といった必要があることは天の父はご存知であるとイエスは言います。つまり、神のみこころはすべての人が物質的に乏しいことのない生活をおくることであると言えますが、その神意は地上においてはいまだに実現していません。聖書では社会における経済的不正は厳しく断罪されています(たとえばアモス4章1-3節)。このような文脈で考えるならば、貧しい人々の日々の糧が与えられるということは、神の義なる支配が地の上に実現することの一つのしるしであると考えることができます。

そして、ここで祈るように教えられているのが「私の」糧ではなく「我らの」糧であることは大変重要です。私たちは自分の、あるいは自分の家族や身近な人々の必要だけを求めていくのではなく、他の人々の必要も満たされるように祈っていく必要があります。現在世界の多くの国々で多くの人々が飢えと貧困に苦しんでおり、経済的な搾取がいたるところで行われています。私たちは飢えと貧困に苦しむ人々のために祈らなければならないと思いますが、これは社会における不正がただされるようにという祈りでもあるのです。

イエス・キリストは私たちと同様の肉体を持たれ、その物質的必要を身を持って体験されました。と同時に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4章4節、申命記8章3節参照)と語られ、天の父の養いに信頼する生き方を貫かれました。しかしそれだけでなく、再臨のキリストは、義をもって世界を裁く方であり、その際に特に貧しい人々に対する愛の行いを重視されることも記されています(マタイ25章31-46節。ここでは祈るだけでなく実際に行動することが求められています。)私たちは、人々の日用の糧が今日も与えられることがキリストのみこころであることを認め、そのみこころが今日地上で実現していくことを祈り求めるように召されているのです。

(続く)

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