「主の祈り」は祈りのガイドラインです。その後半を見ていきましょう。
★前編はこちら★
「主の祈り」は、イエスが教えた、祈りのガイドラインだ。イエスは、「ただ同じ言葉を繰り返して唱えるのでは意味はない」と教えた。その後で、「だから、このように祈りなさい」と言って、祈りのガイドラインを与えた。それが「主の祈り」である。
(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」
(マタイの福音書 6:9~13)
この「主の祈り」の内容を8つに分割すると、以下のようになる。
【主の祈りの8つの要素】
1:神への呼びかけ
2:神の名を賛美する
3:御国の到来を願う
4:神の計画の成就を願う
5:必要の満たしを願う
6:罪の赦しを願う
7:赦しを受けた後のリアクション
8:悪からの救済を願う
前半部分は、「神への呼びかけ」「神への賛美」、そして「神の国と到来を願い」「神の意思の実現を願う」というものだった。詳細は前回の記事を参考にしてもらいたい。
前半の祈りは、あえて日本後らしく言えば、「タテマエの祈り」だ。あえて言えば、「きれいごと」である。もちろん、心から神への賛美、神の計画の実現を願えたら、それに越したことはない。しかし、人間そんなに強い存在ではない。人間は、どうしても自分に必要なモノを願ってしまう生き物である。
後半部分は、いよいよリアルな人間らしい「願い」の部分に突入していく・・・。ひとつずつ見ていこう。
神への呼びかけ、賛美、そして神の計画の実現を願った後に、いよいよ人間らしい「お願いごと」のパートに入る。それは、「必要の満たし」の願いである。
究極的には、人間は、神の存在なくして生きられない。だからはじめに神の国の到来と神の計画の成就を願う。それと同時に、現実的に食っていかないと、この地上では死んでしまう。衣・食・住は人間にとって不可欠である。そこで、イエスはこう祈るよう教えている。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
人間、メシを食わなければ死んでしまう。「日ごと」「今日も」というのがミソだ。やっかいなことに、人間は「食いだめ」ができない。動物のように栄養をしっかり蓄えて、冬眠できれば、どんなに楽だろう。しかし、毎日必要な栄養を摂らなければ、健康を損なう。人は、毎日、必要なものを神に願い、神から与えられ、生きていくのだ。
旧約聖書には、神が、天から「マナ」というパンのようなものを降らせて、イスラエルの民を養った場面がある。イスラエルの民が、エジプトから脱出した時である。神は「マナ」という不思議な食物によって、「神が人間を養う」という原則を示した。この「マナ」が、のちに「いのちのパン」となるイエスの伏線となっている(※「マナ」については別記事を書く予定)。
さて、イエスの時代も、人々にとって一番の関心事は、やはりこの「食べ物」だった。当時、イスラエルの地域の人々は、ローマの圧政に苦しんでいた。二重、三重の税に苦しみ、貧しく、飢えていたのだった。だから、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上を満腹にさせた奇跡を行うと、人々は大勢ついてきた(ルカ9章、ヨハネ6章など)。彼らはイエスを救い主と信じていたのだろうか。もしかしたら、信じていた人もいたかもしれない。しかし、多くの人は、イエスに救いを求めたのではなく、「パンをくれ!」というモチベーションだった。
そのように、「パン」を求める人たちに対して、イエスはこう言った。
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(中略)(イスラエル人たちは言った)「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのものに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」
(ヨハネの福音書 6:26~35)
イエスは、「この地上の有限のパンではなく、本当の救いである私を信じよ!」と言ったのであった。神が「マナ」で人々を養ったように、今度は「イエス」を通して「永遠のいのち」を与えてくださるのである。
しかし、かといって現実的にメシは必要だし、暮らしていくにはお金は必要だ。しかし、イエスは、これについても「心配無用!」と言い切る。
ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。(中略)野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。(中略)あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくて良いのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
(マタイの福音書 6:25~34)
素晴しい約束ではないだろうか。もちろん、これは、「働かなくても食っていけるぜベイビー」なんて言っているのではない。「明日のことを心配するな」と言っているのである。現実的に、衣食住や、他にも必要なものはある。それらのものを求めつつ、毎日、毎日、「今日も生かされている」と認識し、感謝しながら生きていこうではないか。今日を精一杯生きていこうではないか。
<祈りの例>
●今日も、必要なものをお与え下さい・・・
●@@@も@@@も必要です、与えてください。しかし、まず神の国と神の義を第一に求めることができますように・・・
●世界中で、食べ物がなくて困っている人たちの必要が満たされますように。何より、「いのちのパン」である、イエスさま、あなたに出会えますように・・・
●今日も生かされました! 感謝します。私が何を必要としているかは、あなたが全てご存知です。必要なものを与えてください・・・
前のパートは、肉体的に必要なものだった。次は、霊的に必要なものについての祈りに入る。
私たちの負い目をお赦しください。
「負い目」という部分のギリシャ語は、2ヶ所しか出てこない特殊な単語だ。この部分と、ローマ4:4の「支払い」と訳されている部分しかない。総合的に考えて、「負債」というイメージが適切かと思われる。
一方、ルカの福音書の「主の祈り」では、「罪」に相当するギリシャ語の単語が使われている。ギリシャ語の「罪」には、「的外れ」というニュアンスがある。神は、人間が愛し合うようにデザインしている。しかし、人間は神のデザイン通りに生きることができない。人間はどうしても、神のデザインからそれた、「的外れ」な生き方をしてしまう。これを聖書では「罪」と表現する。
人は、神に「負い目」を感じている。人は、神から「良心」という基準を与えられているからだ。だから、たとえ聖書を読んだことがなくとも、何が罪で、何がそうでないか、心の奥底では、なんとなく分かっているのである。そして、この「負い目」から逃れられる人は一人もいない。罪を犯さない人間は、ただの一人もいないのである。
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」
(ローマ人への手紙 3:10~12)
人は自分で勝手に「基準」を作ることはできない。何が、正しくて、何が間違っているか、その基準を作るのは神である。なぜなら、神が「人間の生き方」をデザインしているからである。神が正しいとしたものは正しく、間違っているとしたものは間違っている。
人は、自分の力では、自分自身の罪を赦すことができない。どんなに良い行いをしても、善行を積んでも、人は自分の罪をなかったことにはできない。
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
(ローマ人への手紙 3:20)
では、人はどうすれば良いのだろうか。自分の力で罪を打ち消せないのであれば、どのようにして希望を持つことができるのだろうか。心配ご無用! 神は、私たちのために、素晴しい処方箋を用意してくださっている。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けとることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ人への手紙 3:23~24)
私たちの罪は、私たちの善行によって打ち消されるのではない。ただ一度、神であり、王の王であるイエス・キリストが十字架で死んだことによって、全ての罪が赦されるのである。イエスを信じれば、その瞬間に、現在、過去、未来の全ての罪が赦される。一度、罪の対価は、イエスのいのちという形で支払いが既にされている。もう人間は、神に対して「負い目」を感じる必要はない。
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
(テトスの手紙 3:5)
私たちの罪は、既に赦されている。その代価となったイエスに、いつも感謝しようではないか。人間は、そう簡単に生き方を変えられない。デザイン通りでない生き方をしてしまうのが人の性である。そのたびに、軌道修正、軌道修正、軌道修正の日々なのだ・・・。罪が赦されたことを覚え、感謝し、またこれから犯してしまう罪も赦していただけるよう(それも既に赦されているのだが)、毎日覚えて祈りたいものである。
<祈りの例>
●私の罪を、十字架の犠牲で赦してくださり、ありがとうございます・・・
●赦されたのに、また同じ過ちを犯してしまう私を、どうかお赦しください・・・
●私の負い目をお赦しください。弱い私をお救いください・・・
●十字架の上で、現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださった、あなたの大きな恵みに感謝します・・・
7つ目は、赦された後の人間が、どのようにリアクションをとるのか、という部分だ。イエスは、このように祈るよう教えている。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
赦された私たちは、当然他の人も赦す必要がある。イエスは、罪を赦された人の責任を、このようなたとえ話で語っている。
<イエスのたとえ話・要約>
・王様に多額の借金をしている男がいた。
・彼は返済ができなかったので、王に赦しを懇願した。
・王様は、彼をかわいそうに思い、彼の負債を免除してあげた。
・借金がチャラになった男は、他の人に金を貸していた。
・彼は、その人に借金の返済を催促した。
・その人は、借金が返せなかったので、男に赦してもらうよう懇願した。
・男は、その人を赦さず、厳しい取り立てをした。
・王様は、その話を聞きつけ、「自分は借金をチャラにしてもらったのに、自分が貸した金は取り立てるとは何事か!」と怒り、男を牢屋にぶちこんだ。
(マタイの福音書18章)
このたとえ話だけ聞けば、「なんてひどい話だ!」と憤りを覚えるかもしれない。しかし、よく考えてほしい。実際に私たち人間も、男と同じ過ちを犯しているのである。これは、かのダビデ王も犯してしまった間違いであった(2サムエル12章参照)。
このたとえ話の「負債」は、私たちの「罪」を指している。男が、負債を払えなかったように、人間は罪の代償を払えないのである。しかし、王の王であるイエスは、この罪を赦すだけでなく、自分自身のいのちを代償として捧げてくださったのだ。それほどまでして、私たちは赦されたと知る必要がある。
しかし、人間はいとも簡単に「自分は赦していただいた存在だ」という事実を忘れてしまう。そして、すぐに他の人が間違いを犯しているのを見て、「赦すまじ・・・!」となってしまうのだ。
あなたも、そのような覚えはないだろうか。ある牧師が納得のいかない教えをしている、教会の他のメンバーが全然奉仕をしてくれない、教会の若者は喋ってばかりで全く手伝わない、教会のおじさんおばさんは世話焼きばかりでうっとおしい、あのミニストリーは人をつまずかせている・・・etc。赦された自分が、他の人を赦せていないのに気が付かないだろうか(そっくりそのまま私にブーメランで返ってくるので、痛い指摘である・・・)・
もちろん、他の人が罪を犯していたら、「指摘」する必要はある。しかし、赦された私たちには「裁く(判決を下す)」資格はない。私たち人間は、まず自分が赦された存在であること、そして他の人に判決を下す資格はないことを知る必要がある。
だから、イエスは祈りの中で、赦された者が取るべきリアクションはどのようなものか教えているのだ。どのようにリアクションすべきか。それは、「相手が何か自分に不利益なことをしてきても、愛を持って赦す」というリアクションだ。まさにイエスが教えた、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」の精神である。
「赦す」対象は他者だけではない。自分自身を赦すのも、大事なことだ。現代の人間は、「自分を赦す」のがどうも苦手なようである。「こんな私なんて・・・」という声を聞く。とんでもない! あなたは、イエスが自らのいのちを差し出すほどに、価値がある存在だ! イエスが死んでまで愛そうとしたあなた自身を、受け入れよう。あなたは、大切な存在だ。まずは、自分を赦そう。自分を赦さなければ、他者を赦すなど、とてもできない。
自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。
(コロサイ人への手紙 2:18)
余談だが、伝統的な日本語の祈り方では、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ」となっている。私は、これでは順番が逆ではないかと思う。「私たちが他者を赦す。だから私たちの罪も赦してくれ」では、おかしいのではないか。神は、私たちが生まれる遥か前に、既にイエスの十字架での死と復活を実現させてくださったのだ。罪の赦しは「先払い」である。あとは、私たちがそれに信頼するかどうかだ。「私は赦された」→「だから自分も他者を赦せる」という順番の方が、私はしっくりくる。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)
<祈りの例>
●赦されたので、私も他の人を赦したいです。どうかお助けください・・・
●赦したいですが、@@さんだけはどうしても赦せません。あなたの愛の心をください・・・
●赦してもらったくせに、他の人を赦せない私をお赦しください・・・
●あなたが死んでまで愛してくださった自分に、価値があると思えるようにしてください・・・
最後の祈りは、「悪からの救済」の願いである。イエスはこう祈るように教えている。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。
最後は、守りの願いだ。これほど赦されても、人は弱い存在である。常に、心を張り、自分が「的外れ」になっていないかチェックする必要がある。
気をつけたいのは、「成長のための試練」と「試み」は別のものであるという点だ。神を信じれば、人生全てウキウキハッピー! というわけではない。神は、「成長のための試練」は与える。
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(中略)霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
(ヘブル人への手紙 12:5~10)
成長とは、より神を知り、神の姿に似せられていく様を指す。神を知ったら、神を求めずにはいられない。もし、全く神を知らなくて良いのなら、試練を通らなくてもいいだろう。しかし、一度神を知ったら、もう止められない。神を知りたくて知りたくて、仕方がなくなってしまうはずだ。
「試み」とは、神から目をそらさせるものだ。それは、人によって違うだろう。名誉、栄誉、財産、仕事、諸々の誘惑・・・神から目をそらしてしまうキッカケは、いくらでもある。時には、家族や愛する人さえも、そのキッカケになりうる。聖書を読む行為さえ、心が神に向いていなければ、それは立派な「試み」になりうる。
人は、すぐに道からそれてしまう、弱い生き物だ。だからこそ、「試みにあわせず、悪からお救いください」と祈る必要がある。心のベクトルを、神に向けるために。自分の目線を、自分自身ではなく、神に向けるために。今日も神に頼る必要があるのだ。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
(ヘブル人への手紙12:2~3)
<祈りの例>
●私が神様から目をそらす原因になるものから遠ざけてください・・・
●あらゆる誘惑から守ってください・・・
●神様、あなたの道からそれる原因になっているものは何か教えてください・・・
●内心では薄々分かっています。どうかそれをギブアップできるように助けてください・・・
イエスは基本的な祈りを教えてくれた。たった8つの要素の、シンプルな祈りだが、そこには奥深い真理が隠されていると、分かっていただけたと思う。さっそくこの祈りを実践しよう。もちろん、この内容以外のことを祈っていけないわけではない。あくまでこれはガイドラインだ。この祈りをベースに、様々な形で祈ってみたらいいと思う。
では、どう祈ればいいのか。私のオススメは、「シンプル祈り」である。イエスが教えた祈り方は、とてもシンプルなものだった。「彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」とイエスが言っているのを忘れてはいけない。長々と偉そうな言葉を並べ連ねても、祈りがきかれるわけではない。シンプルでいいのだ。単純な言葉でいい。素朴な言葉でいい。神様は、父親が子どもの話を聞くように、私たちに耳を傾けてくださる。
もう一つは、「チョコチョコ祈り」である。「どのくらい祈ればいいのだろう」と考える人もいるだろう。私のオススメは、「気がついた瞬間に、チョコチョコっと祈る」という方法である。私は、「祈りで大切なのは長さではない。心の向きと頻度だ」と考える。聖書にはこう書いてある。
絶えず祈りなさい。
(テサロニケ人への手紙第一 5:17)
絶えず! 1年365日24時間!! 文字通り、「絶えず」祈っていたら、他のことは何もできなくなってしまう。どういう意味か。
この箇所を引用した上で、「10分の1献金」になぞらえて「1日の10分の1の時間を祈りましょう」という説教を聞いたことがある。計算すると、1日の10分の1は、144分!!! 2時間24分である・・・。こんな長い時間毎日祈れるのは、せいぜい牧師や教会スタッフくらいである。社会人には無理!!! 彼らは、日本で働くサラリーマンの気持ちが全く分かっていない。そんなに時間捻出するためには、寝ないしか方法がないよ!!!
イエスは、十字架という世紀のいち大イベントの前に、どのくらい祈ったのだろうか。なんとびっくり、おそらく1時間x3セットである(マタイ26章、マルコ14章参照)。3時間はそれなりに長い時間だが、それでも人生のクライマックスでの3時間である。普段の生活で、2時間以上も祈らなければならないかと言われたら、私は疑問符がつくと思う。
もちろん、長く祈るのは大切だ。神の前に、長い時間をかけて心を注ぎだすのも祈り方のひとつである。否定はしない。でも、それよりも、常に神に祈る生き方の方が大切ではないだろうか。
ある時、私はパソコンが不調でイライラしていた。すると、宣教師のオジサンが「直るように祈った?」と声をかけてきたのである。私はビックリした。それまで、「パソコンが直るように」と祈る発想が自分になかったのだ。私はその時、「ああ、この人は人生の全てのことを神様に委ねて生きているだ」と感じたのである。パソコンが直るように祈る是非は、この際おいておこう。大切なのは、「とっさの時に祈っているか?」ということである。
だから私は、思いついたらすぐシンプルに祈るようにしている。「神様、ありがとう」「神様、助けて!」「神様、疲れたよー」「神様、あなたは素晴しい!」などなど・・・。祈りは神様とのコミュニケーションとよく言われる。LINEのチャット気分でいい。生活のふとした瞬間、瞬間に、神様に祈ってみたら、あなたの生活は変わるかもしれない。
こんなことを言ったら、この記事が無駄になるかもしれないが、正直、祈り方や内容なんて、どうでもいい。神はあなたが祈る前に、全てあなたの祈りをご存知なのだから。
あなたがたの父(神)は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
(マタイの福音書 6:8)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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