待降節の最初の日曜日、教会学校の子供たちが蝋燭に火を灯してくれたクランツを囲み、竹内智子さんの歌に祈りを合わせながらこの礼拝を守ることができる幸いを、共に喜びたい。しかし、我々は何故こんなに深い喜びをもってアドヴェントを迎えるのだろうか。単に「季節の風物詩だからというのではないであろう。我々の生活の中に何か「新しいことが始まるということを改めて思い起こすからではないか。
その「新しいこととは何か? 端的に言って「和解である。
私は今日の説教テキストに、コリントの信徒への手紙二5,16-21を選んだ。特に18~19節の「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのですという言葉に注目したい。これは、全世界が今こそ新たに聞かねばならない、いや、聞くことを許された「和解のメッセージである。
人類は、「互いに愛し合いなさいという神の戒めに背いて互いに憎み合い・殺し合う罪を重ねている。神に対して合わせる顔もない。その人類を、神はキリストの仲立ちによってご自分と和解させて下さった。聖なる神と罪深い我々の間に、新しい関係が実現した。我々が待降節を喜ぶのは、このために他ならない。
藤沢周平の作品に『小鶴』という短編がある。昔、ある藩に夫婦喧嘩で有名な夫婦がいた。夫・吉左衛門は普請方に属する百石どりの初老の武士で、仕事にも熱心だし他には特に欠点はないのだが、ただ、「夕飯の魚が少し古かったというような些細なことで妻・登米を怒鳴りつけることがある。登米も気が強いから負けてはいない。大声で反論する。すると吉左衛門は、「おのれ、そこに直れ、二度とその口が開けんように成敗してつかわすなどと喚く。隣近所の者は、初めは固唾を呑んで成り行きを心配したが、その内に呆れ、遂には面白がって聞き耳を立てる始末である。
ある日、吉左衛門が堤防の改修工事に出向くと、現場の近くで旅姿の若い娘を見かけた。一日中ぼんやり立ちつくしている。全く表情がない。事情を聞いてみたが、何も言わない。どうやら記憶を喪失しているらしい。放っておくわけにもいかず、彼はその娘を家に連れて帰る。一晩ぐっすり眠って落ち着いてから名を尋ねると「小鶴と名乗った。しかし、他のことは一切思い出せない。武士の家庭で一通りのしつけを受けて育った娘らしく、言葉遣いや態度物腰もきちんとしており、家事も進んで手伝って登米を喜ばせた。こうして、猛烈な喧嘩で知られたこの老夫婦の生活に変化が起こる。喧嘩はしなくなった。そして、二人でこの娘を慈しんだ。藤沢氏は、「いつも夫婦二人だけの家に若い娘がいることが珍しく、二人の気分を何となく浮き立たせていたと書いているが、この娘を介して、いがみ合っていた二人の間に新しい関係(和解)が生まれた、ということであろう。
ある晩、この娘の将来を案じて夫婦で話し合っているとき、つい悪い癖が出て言い合いになってしまい、声も次第に険しくなった。するとどこかで不思議な声がした。驚いて言い合いをやめ、声のする方を見ると、縁側に座っていた小鶴が忍び泣いている。登米が慌てて傍に行って娘の肩を抱き、「どうかしましたかと尋ねると、「お止めなされませ。いさかいはお止め下さいませと言って涙を流した。
私はこの場面を読んで深く心を打たれた。先程、「仲立ちとは、敵対関係にある二人の間に第三者が立つことによって関係が新しくなることだ、と言った。しかし、それは「お節介や単なる「好奇心から余計な口を差し挟むことではない。その二人の対立に心を痛め、涙を流して和解を願う真実がなければならない。
そのような「仲立ちをして下さったのが、主イエスなのである。神に背く人間と、その罪を裁く聖なる神の間に、彼は新しい関係(和解)をもたらした。神は人間の罪を赦し、人はもはや神を恐れず、むしろ喜ぶ。むろん、和解をもたらすのは容易なことではない。主イエスはそのために、涙と血を流し、命を捧げるほど苦しんだのである。このような苦しみを通じてのみ、神と人との真の和解は実現する。
ところで、『小鶴』の物語には続きがある。漸く行方を探し当てた親戚の者たちが、小鶴を引き取りに来て、彼女の本名が「光穂であることが分かる。彼らの話によると、両親は極めて不仲で、ある日、激昂した父親は遂に刀を抜き、母を刺し殺した。逆上した光穂は父に斬りつけて深手を負わせてしまう。だが父は、娘に罪を負わせないために自ら腹を切って果てた、というのだ。小鶴は母の名であった。吉左衛門は、登米と言い合いをした時に何故あの娘が異常な程の反応を示したか、納得が行く。「お止めなされませ。いさかいはお止め下さいませという言葉は、争いが生む悲劇を体験した者の「うめきだったのだ。これは、全世界に対する切実な訴えでもある。
主イエスは、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい(マタイ 5,23-25)と命じれた。急げ! まず和解せよ。急がないと、世界は駄目になる。早く和解しなさい!
個人の間に限らず、集団や国家の間でも、緊急に和解が実現されねばならない。和解こそは神の意志である。そして、教会には和解の言葉を語る使命が与えられているのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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