聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿2)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

シリーズ過去記事 0 1

②「肉」と「聖」といのち

 前回「キリスト教倫理というものが、生身の人間の現実を無視して〇×を判定するだけのものになってしまっているとしたら、なんと悲しいことでしょうか」と書きました。私は、このような悲しい現場に立ち会ったことが何度かあります。それどころか、自分自身がそのような視点でしかこの世界にある痛みと向き合えなかったことがあります。たとえば社会問題を考えるとき、誰かが伝統的に「罪」とされる行為に関わったとき、そして、自分自身が苦しんだり悲しんだり葛藤したりしたとき、私は聖書から〇×を判定しようとしました。そして、私情を挟まず「冷静」に、「客観的」に判断することが信仰者として正しい態度だと思っていました。

 振り返ってみると、ある種の物語が私をそのような態度に向かわせていたように思います。私は「地」とか「この世」とか「肉」とかいったものを劣ったものと捉えていました。そして、救われたからには、そのような低俗なものに心動かされるのではなく、霊的なことにのみ心を向けなければならないと考えていたように思います。私たちが生身の人間であるという事実を否定的なものとしてとらえるとき、「聖なる存在は肉なる世界から分離し、世界で起こることに囚われない聖なる生き方をしていく」という物語が出来上がります。

 けれども、私たちは救われてもなお生身の人間であり、生々しい現実の中で生きています。その現実を否定すべきものとしか見られないならば、この世で生きていくことは困難です。聖書は私たちに生々しさを克服するように言っているのでしょうか。

文語訳聖書のエレミヤ書31章20節には「我(わが)膓(はらわた)かれの爲(ため)に痛む」という言葉ができます。神さまは霊なる方であって肉体を持ちません。けれども、神さまの愛は「我腸かれの為に痛む」という生々しい表現で語られるのです。神さまの愛をこのように生々しく語る聖書は、私たちが生きるということの生々しさを、どのようにとらえているのでしょうか。

生身のいのちとしての「肉」

 「肉」というキーワードについて考えてみたいと思います。「肉」という語で霊と肉を対比させるパウロの用法を思い出される方は多いのではないでしょうか。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにあるものは神を喜ばせることができません。(ローマ人への手紙8章5-8節)

 こういう箇所を読むと「肉」というだけでとても否定的なもの、劣ったもの、克服すべきもののように思えるかもしれません。信仰を持ったからには「肉」に振り回されてはいけない、と思えてきます。けれども言葉は使う人によって少しずつ異なるニュアンスを持つものです。(だから聖書は複雑で、そして豊かで面白いのだと思います)パウロは神に敵対する性質として否定的なニュアンスを持たせて「肉」という言葉を使いますが、聖書全体がそうだというわけではありません。聖書全体で共通しているのは「肉」が人間や動物の被造物としての弱さや可死性を表すものだという理解です。

 ヨハネはパウロとは違った強調点を持って「肉」という言葉を使います。パウロの「肉」の用法だけでなくヨハネの「肉」の用法を見ることで「肉」の理解は広がります。前回の記事でも引用したように、ヨハネはイエス・キリストの受肉を強調しています。

ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。……(ヨハネの福音書1章14節)

……人(肉)となってこられたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(ヨハネの手紙第一4章2節)

こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人(肉)となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出てきたからです。こういう者は惑わすものであり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二7節)

 こういった箇所から、ヨハネにとってイエス・キリストは「肉」つまり、イエス・キリストが生身の人間であったということがとても重要なのだということがわかります。

 もちろんヨハネも「肉」を完全なものとして描いているわけではありません。3章6節では「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と、霊と比較して肉を限界のものとして描いています。

 けれども、この限界のある「肉」というものとしてイエス・キリストは生き抜かれたのです。疲れや喉の渇きを覚え(4:6)、憤り(2:14-16、11:33)、涙を流し(11:35)、そして傷を負い(20:27)、ついには死を迎える…そういう生身のいのちとして。

 私たちは生きています。生身のいのちであるということはきれいごとではない色々な出来事、感情の中でぐちゃぐちゃになることではないかと思うのです。そこで痛むことも傷つくこともある。みっともないことも、がむしゃらにならざるを得ないこともある。イエス・キリストの受肉とは、そういう人間くささのすべてをイエス・キリストがともに経験してくださったということだと思うのです。

いのち与えるものとしての「聖」

 では、もうひとつのキーワードである「聖」は何でしょうか。ヘブライ語では「カードーシュ」といいますが、これは分けることを表す言葉です。聖なる神さまと被造物である私たちの間には区別があります。また、聖なることに使われるものは、日常のことに使われるものから区別されました。

 そして、「聖」を考える上で一番大切なことは「聖」は神さまのご性質であるということです。だから私たちは「聖」を神さまのご性質から定義しなければいけません。神さまの持つ「聖」とはどのような性質でしょうか。

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。
   「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
    その栄光は全地に満ちる。」

その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。私は言った。
   「ああ、私は滅んでしまう。
    この私は唇の汚れた者で、
    唇の汚れた民の間に住んでいる。
    しかも、万軍の主である王を
    この目で見たのだから」
(イザヤ書6:1-6)

 ここからわかるのは、「聖」の恐ろしさです。旧約聖書では神を見るということは禁忌とされていました。神の聖を前にしたとき、あるいは聖なる存在に不適切な方法で接近したとき、人は死ぬと考えられていたからです。だからイザヤは「滅んでしまう」と怯えるのです。

 けれども、この物語はここで終わりません。

すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみでとった、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせていった。
   「見よ。これがあなたの唇に触れたので、
    あなたの咎は取り除かれ、
    あなたの罪も赦された。」

私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:6-8)

 神さまの側からの働きかけによって、聖ならざる者が生きることができるのです。「聖」とは、聖ならざる者に働きかけ、聖ならざるものを聖とし、いのちなき者にいのちを与える神さまのご性質を表すのです。そして、聖なるものとされたイザヤが派遣されていったように、聖とされたものもまた、聖なる役割のために遣わされていきます。こうして神さまのいのちはどんどん広がっていくのです。

 「聖」は確かに分離を表す語ですが、それは、「分離して関わらない」という意味ではありません。むしろ、聖ならざるもの、いのちなきもののために働きかけるという使命を帯びた「取り分け」なのです。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(ペテロの手紙第一2章9節)

 私たちが「聖なる国民」とされたというのは、いのちなきものであった私たちに神さまがいのちを吹き入れてくださったということであり、今度は私たちがいのちを広げていくための使命を帯びているということなのです。

「肉」と「聖」が交わるところ

 対立概念でないにもかかわらず、あたかも相容れないもののようにとらえられがちな「肉」と「聖」が交わるのはどこでしょうか。どちらにも関係しているのは「いのち」というものです。「肉」は生身のいのちのこと。現実にぐちゃぐちゃになりながら生きているいのちです。そして、そんな「肉」を生かすのが「聖」という力です。聖なる神さまに触れられ、関係を持つとき、「肉」は真にいのちあるものとなります。

 旧約聖書には、肉なるものの世界に、神さまの聖なる力が現れる場所がいくつか出てきます。それはたとえば幕屋であり、神殿であり、また、創世記28章でヤコブが夢見た天からのはしごです。ヨハネの福音書1章14節で「住まわれた」と訳されている言葉は「幕屋を張った」という意味であり、1章51節でイエス・キリストはご自身をヤコブのはしごに、2章21節ではご自身のからだを神殿にたとえています。聖なるものの受肉であるイエス・キリストの肉体は、肉なるものの世界に神さまの聖なる力が現れる場所、それによって肉なるものにいのちを与えるものでした。

 私たちのいのちはどうでしょうか。

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた、それで人は生きるものとなった。(創世記2章7節)

こう言ってから彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネの福音書20章22節)

 私たちはただ肉体を形造られただけでは「生きるもの」ではありませんでした。私たちは、聖なる神さまの息吹に生かされるとき、この地上に聖なる力を表すいのちとして生きていくことができるのです。だから、「肉」であることを否定しなくてよいのです。「肉」は弱いものです。けれども、この「肉」に神の息吹が吹き入れられることで、私たちはいのちある者、すなわち聖なる者に変えられていくのです。

 次回はこのことを、ヨハネ福音書の物語から見ていきたいと思います。

(続く)

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