今日は、ガウンを着て説教壇にあがることにしました。このガウンと首にかけているストール紹介しながら、ペンテコステの意味について考えてみたいと思ったからです。いつもこの格好で礼拝の司式をするということではありません。
「ガウン」は、中世ヨーロッパの大学で、学部を修了し学士の称号を与えられた者が着用するものでした。当時の大学の主流は、神学部、法学部等ですから、今日の日本でも裁判官とか、キリスト教の司祭、牧師などがガウンを着用することがあります。
「ストール」にどのような意味があるのかは、いろいろな説があるそうですが、私がかつてドイツで聞いたのは、牛や馬の手綱と同じであり、神の指図どおりに行動するということを象徴するものだということでした。
このガウンは日本製ですが、ストールは、私が約10年前にドイツのケルンで日本語教会の牧師をしていたときに、カトリック教会の助祭からいただいたものです。助祭というのは、副司祭であるとも言えますが、司祭が独身であるのに対して、助祭は結婚した聖職者を意味します。その助祭は、インド出身の女性と結婚していましたが、実際には司祭と同じ仕事をしていました。
その助祭と出会ったのは、ケルンで結婚式の司式を引き受けることになったからでした。新婦は、在日韓国人で、ケルン・ボン日本語キリスト教会の信徒でした。相手の新郎は、カトリック教会に所属しているドイツ人でした。
結婚式は、カトリック教会においてはサクラメント(日本語では「秘儀」と訳されます)であり、とても神聖なキリスト教の礼典として理解されています。ドイツには、カトリック教会とプロテスタント教会がひとつになって結婚式をする場合、どのようなかたちが可能かがすでに議論されています。実際にはカトリック教会とプロテスタント教会の二つの教会が共同で結婚式を行うための式文が作成されています。それをもとに、カトリック教会の考えも尊重しながら、また私たちの立場も理解していただきながら、結婚式をとりおこないました。在日韓国人とドイツ人の結婚式であったこと、カトリック教会とプロテスタント教会が対等につくりあげる結婚式であったこと、そしてドイツ語と日本語の両方を用いて式がおこなわれたことなど、さまざまな壁を乗り越えながらの結婚式でした。
その結婚式の後に、その助祭からいただいたのが、このストールでした。このストールはイスラエル製で、しかもイスラエルのカトリック教徒が手で刺繍を加えたもので、素材は決して高価なものではありませんが、私にとっては記念すべきものとなりました。
カトリック教会とプロテスタント教会には、さまざまな違いがあり、かつては憎しみ合いが生じ、殺人事件が起き、戦争にまで発展しました。しかしその違いの多くを乗り越えることができました。今、両者の間に憎しみ合いは存在しません。まだ違いは残っていますが、私は、それは乗り越えることができるものだと考えています。ただしそれにはひとつだけ条件があると考えます。私たちがひとつになれるのは、私たちがこのストールを通して私たちを導こうとしておられる神さまの意志に従うかぎりにおいてです。
私は、伝統を踏まえるという意味でガウンやストールを着用するつもりはありません。でもこのガウンとストールに関しては、今後も、ふさわしい機会があれば着用するつもりです。そのことによって、それぞれの歴史や伝統、立場や文化の違いを乗り越えて、神さまにともに仕え、神さまの前でともに歩むことができるといういことを、私自身、忘れないようにしたいと考えます。またこのことを多くの人たちにも理解していただければと思います。
さて、今日はペンテコステです。聖霊が降り、教会が出発した日と言われています。その時の出来事を、使徒言行録2章1節以下で読むことができます。今日は、この箇所からひとつのことを確認したいと思います。
4節に「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。
そこに居合わせた人たちは、「さまざまな異なる言語」で神様の言葉をとりついだ、福音の内容を語り伝えたのです。決して「ひとつの同じ言語」をつかって福音が語られ、讃美がなされたのではありません。それを周囲で見ていた人たちは、何も理解できず、13節にあるように、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいたそうです。
さまざまな国の人たち、さまざまな民族に属する人たちが、同じ言葉を語り、同じ祈りをささげて、思いも行為もひとつになり、教会がスタートした‥‥というのではなく、神さまの言葉がさまざまな言葉に翻訳され、さまざまな異なる文化に属する人たちがそれぞれのスタイルでイエス・キリストの福音に触れることによって教会はスタートしたのです。
そこには人間的に見れば、さまざまな違いがありました。いろいろな国の人たちがそれぞれの言葉を語れば、当たりは騒々しくなり、何が語られているのか理解できなくなります。でもそこで、それぞれの言語で神さまについて語られました。そして神さまにむかって讃美と祈りがささげられることになりました。まさにその点で、ひとつに心を合わせることができたのです。
聖霊の働き、聖霊のもたらす一致がこのようなものであることを忘れないようにしたいと思います。聖霊は、それぞれに働きかけ、それぞれを生かします。聖霊は、多様性を否定せず、むしろその個々のものを生かしながら、人間的一致ではなく、主イエス・キリストを頭としてさまざまな部分がひとつにつながるような霊的な一致をもたらします。聖霊は、私たちに同一化や機械的な一致を強要するのではなく、神によって部分と全体が生かされる有機的な一致をもたらします。
今日は、これからともに主の食卓(聖餐)にあずかります。教会の約2千年の歴史の中で実施されたさまざまな要素を取り入れた式文を使います。この教会のみなさんにとって、異質だと思われる部分がたくさんあるかも知れませんが、たとえ異質だと思われる点があったとしても、この食卓に私たちを招いてくださるのが主イエス・キリストであることを忘れないようにしたいと思います。そのキリストの招きに応じて、私たちが一歩、前進するときに、私たちは主イエス・キリストのゆえに心をひとつにすることができるでしょう。
今日は奏楽者にお願いして、前奏や後奏に不協和音を含む曲を用意してもらいました。私たちの一人ひとりが自分を生かし、自分の思いを述べれば、私たちの奏でる音楽はどうしても不協和音の多いものとなるでしょう。その不協和音を協和音に無理矢理、変えようとしても、一致は生まれません。しかし私たちは不協和音のままで神さまを讃美することができます。それぞれが違いをもった人間として生かされつつ、ともに相手を尊重し合い、ともに生きる交わりを私たちはつくることができます。それは私たちの演奏が、主イエス・キリストという指揮者によって導かれれる場合においてです。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.