礼拝における連帯

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

11  さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、12  大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。13  またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。14  四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。(黙示録5:11-14)

黙示録4-5章では、キリスト者の基本的な世界観が示されています。世界の空間的中心は天にある神の王座であり、時間的中心はイエス・キリストの受肉と十字架、復活です。この世の座標系とは異なるもう一つの座標系が示されているのです。

神は世界の創造者であり、すべてを支配するお方です。けれども、天において実現しているその支配は、地上においては未だ十分に顕されているとは言えません。しかし、イエス・キリストが救いのわざを成し遂げたことによって、歴史は最終的段階に入り、神の愛なる支配が地上に及ぼされる希望が生まれたのです。

そして、5章の最後で神と子羊に対する礼拝が御座の周りから同心円状に広がって、すべての被造物を包み込む壮大な光景が描かれています。(ちなみに、黙示録のこの部分は未来に起こるべき出来事ではなく、著者ヨハネにとっての現在の状況を表しています。)ですから、キリスト者が地上で集まり神を礼拝する時、私たちはいつでも、宇宙規模の礼拝に参加しているのです。

以上のことは何年か前にこのブログに掲載した記事「天と地の礼拝」で書いたとおりですが、現在ウクライナやガザで行われている悲惨な戦争を目の当たりにして、新たに考えたことがあります。それは礼拝における連帯ということです。

連日メディアで流されるイスラエルによるガザ侵攻のニュースに心を痛めつつ、日曜日の礼拝に参加しながら、ふとこのようなことを考えました。「自分たちは日本という比較的安全な国にいて、戦争で直接生命の危険を感じる心配もなく、このように平和のうちに礼拝を捧げている。けれども、私たちがこうしている間にも、世界の多くの場所では人々がその尊厳を踏みにじられ、苦しみ、生命を落としている。この現実に対して、私たちはどうしたら良いのだろうか。」

たとえば上の動画。私はRevelation Song が大好きなので、黙示録にちなんでここに挙げたということもあるのですが、インターネット上にあふれるこの種の動画を見るにつけ、このようにクリスチャンたちが集まって神の栄光を喜び賛美している間にも、世界には苦しみ死んでいく人々がいるということを忘れないようにしたいと思うのです。(もちろんクリスチャンが喜びをもって賛美したり礼拝したりすること自体は何も悪いことはありませんし、このような集会にも内面に大きな苦しみを抱えて来られている人もいるかも知れません。それを踏まえた上でのことです。)

黙示録の5章に戻りますと、上で述べたように、ヨハネが見た天の御座の周りでの礼拝の光景は、遠い未来に起こるできごとではありません。キリスト者が地上で神を礼拝する時、その瞬間にも天の王座には神が着座しておられ、その右には子羊キリストがおられます。そして天使たちがその周りで賛美し礼拝しているのです。世界中どこにいても、またどのような教派に属していたとしても、あるいはどんな環境で礼拝を持っていたとしても、私たちは天において創造主であり救い主なる神を賛美する全被造物の礼拝に参加することができます。天の礼拝は私たちの礼拝であり、私たちの礼拝は天の礼拝の一部です。礼拝において、天と地はつながっているのです。

そしてこのことは、そのようにして唯一の神を礼拝していく時、私たちは世界中の聖徒たちが捧げる礼拝とつながていることをも意味しています。なぜなら世界中のすべての教会もまた、同じ天の礼拝に参加しているからです。私たちには天との垂直方向のつながりと同時に、地上の他の教会との水平方向のつながりも与えられているのです。

世界には、迫害の中で公に礼拝することができず、個人の家で隠れるようにして細々と礼拝を守っている人々もいます。教会が戦争で破壊され、瓦礫の中で礼拝しているような群れもあるかも知れません。けれども、すべての礼拝は、天における神の御座の周りで行われている天使たちの礼拝とつながっており、したがって私たちが捧げている礼拝とつながっています。キリストのからだにあっては、どの群れも孤立してはいないのです。

ここで天が開かれている様子を想像してみてください。全宇宙の中心である天の王座には、神と子羊イエス・キリストがおられます。その周りには無数の天使たちがいて、主を礼拝しています。私たちの右隣には、アフリカのクリスチャンが座っているかも知れません。左側にいるのは中国のクリスチャンでしょうか。この天の礼拝においてはロシア人クリスチャンとウクライナ人クリスチャンが手を取り合って祈り、ユダヤ人クリスチャンとパレスチナ人クリスチャンが抱き合いながら主を賛美しています。これは霊の世界では実際に可能なことなのだと思います。

さて、このように天の御座を通して私たちが世界中のクリスチャンとつながっているならば、私たちの礼拝には、喜びの賛美だけでなく、嘆きの歌やとりなしの祈りも当然含まれてきます。「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」(1コリント12:26)とパウロが言う通りです。天の礼拝では、世界のどの地域の群れも除外されていません。私たちの多くは何も生命の危険を感じることなく安全な場所で礼拝できていますが、苦難の中にある世界中の教会とその地域の人々のために嘆き、とりなし、具体的にできることをするために派遣されていくことは、私たちの礼拝の重要な要素であるべきものです。礼拝を通して私たちは世界中のクリスチャンたちと連帯することができ、厳しい現実の中で共に痛み苦しみながらも、それでも心折れることなく、希望をもって歩んでいくことができるのではないかと思います。

これに関連して、私は以前から現代のキリスト教会の礼拝には「嘆き」の要素がもっと必要なのではないかと思ってきました(過去記事「Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)」を参照)。新約聖書の終末論は「すでに」と「いまだ」の両側面をもっていますが、多くのキリスト教会の礼拝ではイエスによってすでに達成された救いを喜ぶという(それ自体たいへん重要な)側面ばかりが強調され、いまだ神の国は完成していないというもう一つの側面がほとんど顧みられていないように思います。(もし語られるとしても、「まだ救われていない人々がいる」という視点でしか語られないことが多いです。)このアンバランスを是正して、私たちはこの世界の悪の現実を直視し、それを嘆き、「主よ、いつまでですか」と神に訴え、自分に何ができるかを考え行動する者になっていきたいと願います。

もちろん、教会が他地域の教会や他の組織と協力してより良い世界をつくるためになすべき具体的な活動は他にも多々あるでしょうし、それぞれの教会のできることをしていくことは大切です。しかしそれ以前のキリスト者の最も基本的な認識として、私たちの礼拝自体が一方では主権者なる神と、他方ではあらゆる地域の教会とつながっているという視点を持つことは、私たちのこの地での活動に神学的な動機づけと希望を与えてくれるという意味で重要ではないかと思います。

私たちの礼拝がいつでも天に向けて開かれ、あらゆる地域の教会とつながっていることを意識して、すべての礼拝に臨んでいきたいと思います。

【2023/11/30追記】このテーマに関連して、11月2日に東京プレヤーセンターで黙示録5:11-14から語ったメッセージの録画がアップされましたので、ここに貼り付けておきます。

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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