賀川豊彦”

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、日本が生んだ偉大な人物‘賀川豊彦’のことを考えてみました。 明治42年12月24日、神戸。当時日本最大のスラム街だった新川に一人の青年がやって来ました。彼は、貧しい人たちと寝食を共にし、自分の持ち物をすべて彼らに分け与え、神の愛を人々に説きました。その青年の名は賀川豊彦。日本が生んだ偉大なキリスト教伝道者、また文筆家であり、労働運動、農民運動、政治運動、文化運動において多大な影響を世界に与えた賀川豊彦の生涯は、「彼は、惜しみなく与えた」という言葉に尽きます。 賀川豊彦は、1888年7月10日、神戸で「妾」の子として生まれました。辛く淋しい子供時代を過ごした彼にとって、勉強して優等生になる以外に人に認めてもらう方法はなく、彼はひたすら努力し、非常に優秀な成績で中学に入ります。 中学2年生のとき、アメリカ人の宣教師に英語を教えてもらうために教会へ行くようになり、キリスト教には全く興味がない豊彦でしたが、やがて十字架で死ぬまでに自分を愛して下さったイエス・キリストを知り、それからというもの、まるで別人のように変わっていくのです。 ある日、豊彦は教会の先輩が夕方に、川の向こうの方に歩いていくのを見ました。気になった豊彦が宣教師に聞くと、ビックリする答えが返ってきました。ハンセン病の人たちのところに、毎日、食べ物や子供のおもちゃを持って訪ねていたのです。その姿に感動した豊彦は、その先輩が兵隊に行っている間、代わりにそこを訪ね、そういう風にして、神が自分を何のために生かしておられるのかを考えるようになりました。 17歳のとき、明治学院の神学部に、また20歳で神戸の神学校に入学した豊彦は、まもなく結核になり、医者に「あと二年の命」と宣告されます。「長くは生きられないなら、これからの生涯を貧しい人に捧げよう」と決心した彼は、神学校の寮を出て、神戸の葺合の貧民屈に引っ越して行きました。 豊彦が自分の借りた狭い部屋で教会を開くと、仕事のない貧民屈の人たちが多く集まりました。また無料の診療所を作り、みんなが安くて楽しい食事をできるようにと、天国屋という食堂を作りました。やがて芝ハルという女性と結婚し、それから間もなく、豊彦はアメリカに留学し、貧民屈と労働組合の勉強をしました。 29歳で帰国した彼は学んできたことを実践し、「どうしたらみんなが自分の力で生きていけるか」を考え続けました。また食べられない人たちが米屋を襲うという「米騒動」を機に、豊彦は労働者運動を指導し始め、31歳のとき、「友愛会関西労働同盟」を結成します。  32歳のとき、豊彦は自伝小説の『死線を越えて』という本を出版し、それがベストセラーになりますが、その多額な印税をすべて人々のために用い、豊彦とハルは貧しい生活を続けました。やがて、彼の体は、いろんな病気にかかりますが、19歳で結核を発病し、「あと2年のいのち」と言われてから、すでに15年も経っており、それからも、いくつもの死線を越えていくのです。 1934年、46歳の時、豊彦は世界を回って伝道しました。ちょうど日本の軍隊が、中国で南京大虐殺など残酷なことをしていた頃です。豊彦は、多くの人が日本が戦争に勝つように祈っていたとき、中国の人々のために祈り続けていました。1940年。豊彦が52歳の時のこと。教会で説教をしていた時に、二人の刑事に逮捕されました。平和を求めるメッセージが逮捕された理由でした。「造言蜚語罪(ぞうげんひござい)」―言葉で人を惑わす罪―でした。教会では、沢山の人が釈放を祈り、その祈りは意外と早く答えられることになります。外務大臣の松岡洋右が突然言いました。「賀川さんをすぐ出せ。もしそれが出来ないなら、自分が代わりに刑務所に入る」。賀川豊彦が逮捕されたというニュースが外国に伝わり、あちこちから問い合わせがあったので、外務大臣が慌てて釈放を命じたのです。 1945年、日本は戦争に惨敗。東久邇宮総理大臣は、豊彦を官邸に呼んで言いました。「日本人から、外国人への憎しみを取り除かなくては、ポツダム宣言の発表もできない状態です。外国と日本を結ぶために活動する資格のある人は、あなたしかいません」。 そのころ、連合国の会議では、「日本をどうするか」という話し合いをしていました。北海道はソ連の一部にし、本州はアメリカ、四国はオーストラリア、九州は中国という風に分けようという意見が体制を占めていましたが、中国の指導者の蒋介石が猛烈に反対したのです。彼は、中国人にも、「日本人を復讐をしてはいけない。親切にするように」という通達を出していました。それは、「賀川先生のことを思うと、日本を憎むことができない」ということでした。「確かに日本人は残虐だ。でも賀川先生が祈っていると思うと、どうしても憎みきれなかった」というのです。 東京の焼け跡にバラックが建ち始めると、賀川豊彦は日本中、世界中に呼ばれて、メッセージを語りました。同時に、困っている人を助ける事業を次々に再開し、本を書き、雑誌を作り、そして新聞社を創りました。1955年、豊彦はノーベル平和賞の候補に挙げられましたが、彼は受ける気はありませんでした。1959年、71歳のとき、豊彦は伝道旅行の途中で、心筋梗塞で倒れ、1960年、72歳で天に召されます。 そのとき彼の体は、心筋梗塞、慢性腎炎、大動脈中幕炎、気管支拡張症、心臓肥大、そのほか数え切れない病気にかかっていたそうです。妾の子として暗い宿命を負い、愛情に飢え、すさんだ心の少年が、ある時キリストに出会い、その時からこの愛のドラマが始まったのです。 人間には、それぞれ、神から与えられている使命があります。神は、ある目的をもって、あなたを造られたのです。だから、もしあなたが、それに忠実に生きていくなら、あなたも「もうだめだ」という死線を、何度でも越えることができるのです。私たちは、賀川豊彦の生涯から、その事を学ぶことができます。 今日の一言: あなたは何度でも死線を越えることができる 平安鶴田健次
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