悪魔の誘惑と現代

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「悪魔の誘惑と現代」

秋葉正二
詩編91,1-16;

 もう何度も読んでこられたテキストだろうと思います。悪魔が次々と誘惑の魔手をイエスさまに伸ばす場面です。ここから私たちは何が学べるでしょうか。現代的な意味を何か取り出すことが可能でしょうか?まず前後のテキストを見てみたいと思います。バプテスマのヨハネの記事が直前にあります。バプテスマのヨハネが「悔改めよ」と叫んでいるのですから、当時がよい時代でなかったことは確かです。圧倒的な力でローマ帝国が君臨していた時代状況の中で、一体どうしたら自分たちは救われるのだろうか、という悩みはイスラエル人にとって深刻だったはずです。ヨハネは「神の国は近づいた」と言っていますから、何か新しい出来事が間近に迫っていたことを感じていたのでしょう。こういう状況下、ヨハネが権力により処刑されてしまうと、イエスさまはまず荒れ野に赴かれました。新しい宗教的活動の前には内面的なエネルギーが高められる必要があります。振り返って見れば、エデンの園という楽園を誘惑に負けて追われて以来、人間は本質的に立ち直ってはいなかった、とも言えます。イスラエル人がメシアを待望し続ける状態は続いていたのです。荒れ野というのは非日常的な場所ですから、イエスさまがそこに出かけて行かれたのは、旧約以来の人間の堕落の回復ということが脳裏にあったのかも知れません。

 堕落の象徴であり、失われた楽園である荒れ野でこそ誘惑に打ち勝たなければ、主イエスにとって新しい出発はなかったと言えます。そして荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝った様子がきょうのテキストに描かれているのですが、打ち勝って後、何と中心地エルサレムではなく、ガリラヤで活動を開始されたことがきょうのテキストのすぐ後15節に記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地。ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」です。宗教的な布教方策ならば、沢山の人がいるエルサレムやユダ地方でスタートするのが常道でしょう。しかもそこで布教がうまくゆけば、ヨハネの弔い合戦にもなります。しかし、ガリラヤでした。「ゼブルンの地、ナフタリの地、ヨルダンの向こうの地」という表現はガリラヤの人々の貧しさと虐げられている様子を表わしています。イエス・キリストはそのような地の、そのような人々にこそ、まず神の国が宣布されねばならない、と考えられたわけです。実際、その地でイエスさまは“あなた方貧しい人たちは幸いだ”と語られました。ここには新しく始まる神の国、つまり後のキリスト教の本質がよく表わされています。貧しい人々の切実な問題はパンの問題ですけれども、パンのみを求める宗教、俗に言う御利益宗教であってはならないというメッセージが既に悪魔の誘惑を退けることに現れています。

 人間というのは、奇跡がなければ神を見出しにくい存在です。キリスト教信仰の歴史でも、すぐ目の前に奇跡が示されないからと言って、いかに沢山の人々が去っていったことでしょうか。イエス・キリストの十字架というのは、肝心な所で奇跡が起らないという状況に踏みとどまって生き抜く信仰ではないでしょうか。そんなことは不可能だと多くの人は考えますが、そうではありません。そういうふうに生き抜いた人たちが沢山いるのです。初代教会の弟子たちがそうでしょう。私はすぐボンヘッファーやパウル・シュナイダー牧師を思い浮かべます。何の奇跡も起らず、苦しさだけが増していく獄中でなぜああした手紙が書け、ああした生き方ができたのか…………彼らの前にあった十字架の神は一般的宗教の力の神とはまったく異なり、奇跡のない無力な神でした。ですからそこに私たちが発見するのは無力な弱い神です。では私たちが信じる神は力のない神なのか?そうではありません。変な表現ですが、力の神が同時に無力な神なのです。

 十字架の中からもう一つの神の在り方に出会う時、人は暗闇の中に光が見出します。16節にあるガリラヤの人たち、「暗闇に住む民が光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込む」というのはそういうことを指しています。「世のすべての国々とその繁栄ぶり」を求めて悪魔に屈するならば、私たちの信仰は、富と力を求めつつ神を求める信仰へと変質していきます。ボンヘッファーやパウル・シュナイダーが偉かったのは、彼らが神不在のように見える状況をもっとも信仰的に生き抜いたからです。この信仰的姿勢を保てれば、私たちは苦難に捨て置かれていても、神に感謝することができます。

 キリスト教における感謝というのは本来そういう質のもので、何かを貰って「ありがとう」というのとはちょっと違います。私たち現代人は特にこの物のやり取りに関わる「ありがとう」という感謝の在り方に取り込まれてしまっていて、困難な状況、つまり神不在に見える状況の中で感謝することから大きく外れてしまっているように思います。いま日本は、つまり私たちは、そういう問題性に根本的に取り組まねばならない状況にさしかかっているように思います。もう少し具体的な問題を例に挙げて考えてみます。このところ日中間、日韓間がギクシャクしています。なぜこんなことになるのでしょうか?徳川幕藩体制がくずれた時、文明開化だと日本人は歌いました。西洋文化を取り入れ始めるのですが、心の奥底の意識は「アジアは開花されていない、野蛮だ」というものでした。だから植民地政策といったような、実は西洋も野蛮だったという事実に気が付きませんでした。明治の文明開化からは、自分たちのアジアに対する侵略は見えてこなかったわけです。その姿勢は、きょうのテキストの言葉で言うならば、「世のすべての国々と、その繁栄ぶり」という視点で様々な事柄を見てしまったということに尽きるでしょう。キリスト者はその姿勢を改めるところから再出発して、現実に与えられている状況の中において証しをしていく必要があるように思います。国々の繁栄ぶりからではなくて、少し視点を変えて、これまで見ているようで見てこなかった事柄を眺める努力が必要です。

 それはテキストで言えば、ゼブルン・ナフタリの視点、異邦人のガリラヤの視点です。イエスさまご自身の譬え話でいうならば、マタイ25章の「最も小さい者の一人」から眺める視点です。トルストイはそこにこだわった時、自らの貴族という衣装を脱がざるを得ませんでした。若い頃に読んだ「復活」という小説の終りの部分で、主人公がカチューシャの元へ雪ゾリを飛ばすシーンになぜあんなに心が燃えたのかを考えたのですが、あれはマタイ25章にこだわったトルストイの信仰的熱意がほとばしっていたからだと気づきました。「最も小さい者の一人」「異邦人のガリラヤ」の視点に立つ時に、人間は神さまによって変えられる、と思います。イエス・キリストが荒れ野の悪魔の誘惑に対して、“人はパンだけで生きるものではない” “神である主を試してはならない” “ただ主に仕えよ”とみ言葉で打ち勝たれたことをもう一度、反芻してみたいと思うのです。鎌倉恩寵教会の荒井仁牧師が教団宣教幹事だった時に北朝鮮の教会を訪れたのですが、会見した牧師たちの何人かは明らかに公安関係者に見えたと語っておられました。私たちも将来北朝鮮のキリスト者に出会う機会があるでしょう。スパイに見えるか、政府の宣伝をしているように見えるか、それは分かりませんが、どのように見えようとも、僕たちは忍耐して対話を交わしていく必要があると思います。彼らが心の中では日本人キリスト者に少しも劣らない信仰で悩んでいるかも知れないからです。悪魔に対峙されたイエスさまを見ながら、僕たちも現代の様々な誘惑に対して打ち勝っていきましょう。

 

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