オープン神論とは何か(5)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(シリーズ過去記事 1 2 3 4)

前回までの記事で、オープン神論の概要を説明してきました。今回からは、クリスチャンの実際の信仰生活において、オープン神論がもつ意義について、いくつかのトピックに従って見ていきたいと思います。今回は祈りについてです。

 

請願の祈り

祈りにはいろいろな種類があります。神を賛美する祈りや、その臨在の中に憩い、御声に耳を傾けるような祈りがあり、また罪を告白する祈りもあります。それらはどれも大切な祈りです。けれどもこの記事で特に取り上げるのは「請願の祈りpetitionary prayer」と呼ばれる種類の祈りです。

と言っても、何か特殊な祈りについて語っているわけではありません。これは神に対して願い事を申し上げ、何ごとかをしてくださるように求める祈りのことです。クリスチャンに限らず、宗教心のある人間なら誰でもそのような祈りをしたことがあるでしょう。また、請願の祈りには、他者のために神に願い事をする「とりなしの祈り」も含めることができます。

ある人々は、神に願い事をするというのは利己的な祈り、低級な祈りであると考えるかもしれません。もちろん、祈りの生活がご利益信仰的なものに偏っていく危険性はありますが、請願の祈り自体は決して悪いものではありません。リチャード・フォスターは祈りについての本の中で、私たちは永遠に神により頼むべき存在であるため、誓願の祈りは私たちの人生において常に中心的位置を占めていくものであるし、またそうあるべきだと書いています。そのため、フォスターは請願の祈りを「私たちの主食our staple diet」と呼んでいます(Prayer, p. 180)。私たちが毎日米やパンを食べて生きているように、神の子どもたちが天の父にさまざまなものを願い求め、それをいただくことは、私たちと神との関係の最も基本的な要素であると言えるでしょう。

それに、何よりも聖書の中に、このような祈りはたくさん出てきますし、信仰者はこの種の祈りをするように教えられています。実際、イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」はまさに請願の祈りを中心としたものです。またイエスはこうも言われました:

7  求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8  すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ7章7-8節)

聖書の神は、人間がご自身に願い事を申し上げることを喜んでくださる神なのです。

 

祈りには力があるか?

しかし、クリスチャンの持つ神観や世界観によっては、請願の祈りは神学的な問題を引き起こします。ある人々は、神は世界に起こるすべてのできごとを永遠の昔からあらかじめ定めておられ、当然未来のできごともすべて完全に予知しておられる、と考えます。そのように「未来が完全に閉じられている」世界では、請願の祈りの意味を理解することは容易ではありません。もし未来がすべて永遠の昔から確定しているなら、私たちの祈りが聞かれるか聞かれないかということも、私たちが祈る前から決まっており、それ以外の可能性は残されていません。私たちが祈ることも、その祈りが聞かれる(あるいは聞かれない)ことも、すべては神によってあらかじめ定められており、私たちがその決定に影響を与えることはありません。しかし、もしそうだとしたら、請願の祈りにはいったいどのような意味があるのでしょうか?

時として、「祈りは神の御手を動かす」というような言い方がなされることがあります。請願の祈りは本当に神に影響を与えるのでしょうか?言い換えるなら、神は私たちの祈りに応えて、私たちが祈らなかったときには取られなかったであろうような行動を取ってくださるのでしょうか?

大多数のクリスチャンは、彼らの祈りが真の意味で神に影響を与えるという意識をもって祈っていると思います。もしそうでなければ、祈る動機づけはいちじるしく減じられてしまうことでしょう。祈っても祈らなくても未来が左右されることがないならば、なぜ祈る必要があるのでしょうか?また、「義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブ5章16節)等の聖句も、祈りには実際に力と効果があることを裏付けているように思えます。

ある人々は、「祈りは神に影響を与えるのではなく、むしろ祈る私たちに影響を与えるのだ」と考えます。確かにここには一片の真理が含まれているかもしれません。私たちの霊性が私たちの祈る祈りによって変えられていくということは確かにあるでしょう。けれども、それですべてを説明することはできません。上に引用した箇所の少し前のところでヤコブはこのように言っています:

14  あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。15  信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。(ヤコブ5章14-15節)

ここでは明らかに、祈りは祈る本人にではなく、病んでいる人に、そしてその人を回復させてくださる神に影響を及ぼしていることが述べられています。つまり、聖書は確かに、私たちの祈りには「力がある」ことを証ししているのです。

 

オープン神論と祈り

ところで、すでにこのシリーズで見てきたように、オープン神論では未来は部分的に開かれており、神は私たちと真の意味で相互に影響を与え合う関係を持ってくださり、私たちの行動に応じてフレキシブルに行動される、と考えます。このようなモデルは、祈りの力ということについて、もっとも満足のいく説明を提供してくれると思います。

神の助けを必要とするような状況に直面したとき、私たちには天の父に助けを祈り求める自由も祈らない自由もあり、その意味で未来は開かれています。私たちが神に願い求めるなら、神はそれに応えて行動してくださいます。オープン神論ではこのようなやりとりはあらかじめ予定されていた筋書きではなく、自由な人格同士のダイナミックな相互関係としてとらえられます。

フォスターは、「神がすでに私たちの必要をご存じであるなら、なぜ神に願い事をすべきなのか?」という問題について、次のように述べています:

・・・はたして神が私たちの願いについてすべてをご存じかというと、私にはよくわからない。私たちが最終的に何を願うかということが、神と私たちとの関係のダイナミクスによって決まるようにすることを、神はご自分の自由意志で選ばれたと思えるのだ。神がすべてを知っておられる―これは全知と呼ばれる―ということは、関係性における相互のやりとりに基づいて決定が下されるようなことがらについては、神はご自分の判断を差し控えておられるという可能性を必ずしも排除しない。(中略)ともあれ、神は真の意味での対話を望んでおられ、私たちが心にあることを申し上げるとき、神が深い関心を抱いておられる本物の情報を分かち合っているということに励ましを見いだしていただきたい。(Prayer, p. 181)

祈りについてのこのようなとらえ方は、上で述べたオープン神論の考え方にきわめて近いものと言えるでしょう。祈りを通して私たちの思いを神に知っていただくことの重要性については、パウロも次のように言っています:

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。(新改訳:「神に知っていただきなさい。」) (ピリピ4章6節)

もちろん、神は私たちの必要をご存じですので、私たちが祈らなくてもそれを満たしてくださるということもあるかもしれません。しかし、聖書全体を通して請願の祈りの必要が繰り返し教えられていることから、神は多くの場合に、私たちが祈ったときにのみ、それに応えて行動すると決めておられるように思えます。たとえば次の箇所にあるとおりです:

わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。(2歴代誌7章14節)

また逆に、ヤコブは神がある種のことがらをなされないのは、私たちが祈らないからだと言います:

あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。(ヤコブ4章2節)

さらに、時として神は人間の祈りに応えて、最初に持っておられた行動計画を変更されることもあります。神はモーセのとりなしによってイスラエルの民を滅ぼすことを思いとどまり(出エジプト32章9-14節)、ヒゼキヤの哀願に応えて彼の寿命を延ばされました(2列王記20章1-6節)。

つまり、誤解を恐れずに言えば、ある意味で神の行動は私たちの祈りに依存している部分があるのです。あるいは、神はご自分の自由意志でそのような形で私たちと関わるように決めておられる、と言ってもいいかもしれません。神は世界の歴史を導くにあたって、ご自分ですべてを決定するのではなく(もちろんそうすることも可能でしたが)、部分的に人間との協働を通してその目的を達成されることを良しとされたのです。神は私たちがご自身の働きに参加することを望んでおられ、その手段の一つとして祈りを与えてくださいました。実際、未来が部分的に開かれており、私たちが祈るか祈らないかということが神のなさる行為と世界のあり方に何らかの影響を与えるということは、私たちが祈る際の大きな動機づけとなります。

最後に、請願の祈りについていくつか誤解されやすいポイントを指摘しておきたいと思います。まず、「祈りには力(効果)がある」と言うような表現を、機械的・非人格的理解で受け取ってはなりません。祈りは自分の願望を実現するための「呪文」ではありません。請願の祈りは、自動販売機にコインを入れたら希望の飲み物が出てくるように働くわけではありません。これは人格を持った神との愛の交わりの中でなされていく行為です。ですから、利己的な悪い動機で祈った祈り(ヤコブ4章3節)や罪によって神から離れている人間の祈り(ヨハネ9章31節、詩篇66篇18節)は聞かれないと聖書には書かれています。

また、「祈りに力がある」というのは、「祈りは必ず応えられる」という意味ではありません。真摯な心で祈った祈りが聞かれないことも、実際にはしばしばあります。具体的なある状況下で、特定の祈りが聞かれるか聞かれないかということには、多くの複雑な要因が関わってきますので、ほとんどの場合、私たちはなぜ祈りが聞かれなかったのか知ることは困難です。けれども、その理由がどうであれ、聞かれない祈りがあるということは、祈りに力があるという原則を否定するものではありません。

オープン神論の提示する神は、私たち人間といきいきとした相互関係を持ってくださいます。神が私たちの歩みに影響を与えられるだけでなく、私たちの側の働きかけも、神に影響を与えます。祈りは私たちが神とのダイナミックな関係を実際に体験する最も分かりやすい行為かもしれません。天の父は私たちが心にある願いを申し上げることを望んでおられます。そして、祈りに応えて、働いてくださる方です。祈りには本当に力があるのです。

(続く)

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