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前回は、聖書のグランドナラティヴが示す軌跡trajectoryを考え、その中で現代の教会がどのようにして「次の一歩」を踏み出すべきかを考える必要について述べました。そのためには、旧新約聖書のテクストがそれぞれの時代の文化に順応して書かれていることに注意して読んでいく必要があります。この点で、私は浅野淳博先生の次の言葉に完全に同意します。
私たちは――キリスト者であろうとなかろうと――キリスト教会が人権意識と越境性においていつも時代に先んじて、その感性をたえずアップデートしているかを、キリスト教の真価を問う計りとすべきだろう。キリスト教はその聖典である古代テクストから信仰の営みの指針を抽出しつつも、その聖典の表面に現れる古代の価値観を批判的に検証する責任を持っている。
(『新約聖書の時代』380頁)
ここで言われている「聖書の表面に現れる古代の価値観を批判的に検証する」ということは非常に大切であり、この視点を忘却するならば、福音派の人々がよく口にする「聖書信仰」は、順応された断片的なテクストに固執する「聖句信仰」に成り下がってしまいます。もし私たちの信仰の指針が様々な「証拠聖句」の組み合わせによってしか表現されないとしたら、そのような信仰は(聖書自体が乗り越えようとしてきた)古代の価値観に縛られたものになってしまい、現代の諸課題に対応する力を持てないばかりか、神が聖書を通して啓示しておられる終末のヴィジョンの実現へと進んでいくこともできなくなってしまうのです。
私自身は「聖書信仰」という曖昧な用語はあまり使いませんが、もし使うとすれば、それは聖書のグランドナラティヴ全体が指し示す終末のヴィジョンに従って、現代における最適な信仰のあり方を模索する姿勢を指して使いたいと思います。
では、ここで言われている、聖書の「終末のヴィジョン」とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか?
私が聖書が指し示す「終末のヴィジョン」と言う時、それは特定の聖書テクスト(たとえば黙示録の特定の箇所)を指しているのではありません。それはグランドナラティヴの全体が指し示している、プロットの最終的到達点のことです。それが何なのかを考えるためには、ライトの5幕劇モデルはあまり参考になりません。なぜなら、ライトのモデルでは、最後の第5幕は最終的なゴールがどのようなものなのか、明確に示されてはいないからです。そこで、以前私が提案した7部構成モデルを見てみると、次のようになります。
A 創造
B 悪の起源
C 神の民(イスラエル)
X イエス・キリスト
C’ 神の民の刷新(教会)
B’ 悪の滅び
A’ 創造の刷新
これによると、グランドナラティヴの最終章は「創造の刷新」ということになります。他のモデルでも表現や理解の多少の差(「新創造」「新天新地」等)はあっても、おおむね似たような理解になっています。そして、5幕劇モデルで明示されていませんが、ライトも同じ理解に立っています。
黙示録21章1節に書かれている「新しい天と新しい地」が具体的に何を指すのか、いろいろな見解があります。それは現在の宇宙とは断絶しているのでしょうか、連続しているのでしょうか。そもそも「創造」とは何でしょうか? これについての私の考えはこちらの記事を参照していただきたいのですが、新しい天地についてどう捉えるにせよ、それは創世記1章で描かれているような、神が創造した良き世界の完成を表しているようです。これについてもいろいろ語るべきことがありますが、この記事の目的のためには、一番大切なポイントだけを述べたいと思います。それはいのちの尊厳です。
神が万物の創造者であるならば、すべてのいのちは神にその存在の根拠を持ち、神によって支えられており、それゆえ計り知れない価値を持ったものであると言えます。したがって、終末の創造の完成においては、あらゆる被造物のいのちが最大限に尊重され、互いに調和して生きるようになると考えられます。新約聖書的な表現で言えば、それは神の国の完成です。「神の国」とは神の王的支配のことですが、それはこの世的な暴力と強制による支配ではなく、イエスが示されたような自己犠牲的な愛の支配なのです(こちらの記事を参照)。
それが実際にどのような形を取るのかは分かりません。たとえば狼が子羊とともにいるというイザヤ書の詩的描写が文字通り実現するということでは必ずしもないのかもしれません。けれども、少なくとも人間社会においては、冒頭の引用にあった「人権意識と越境性」が終末の理想社会に向かう一つの指標になるとは思います。
グランドナラティヴの展開につれて、聖書は一貫して包括主義的な傾向を見せています。新約聖書において神の民の概念がユダヤの民族主義的理解から異邦人も含む普遍的なものへと拡大されたのはその代表例ですが、これまで見てきたように、たとえ聖書テクスト自体がその書かれた時代的制約によって家父長制や奴隷制の影響を色濃く受けていたとしても、それでもそこからより平等な社会を目指そうという方向性を読み取ることはできるのです。そのように考えてくると、人間のセクシュアリティの理解においても、より多様性を受け入れる方向へグランドナラティヴが向かおうとしていると考えるのが自然ではないでしょうか。終末の理想社会においては、すべての人の尊厳が認められ、いかなる差別もなくなっているはずだからです。
時として、人権を強調すると聖書の権威が貶められる、というような議論がありますが、人権か聖書かといった二者択一的な考え方をする必要はありません。聖書は――そして神は――人間の尊厳を軽視しているのでしょうか? 決してそうではないはずです。聖書をその本来の意図に沿って正しく読むならば、人権が抑圧されることはありえないと思います。
すでに述べたように、ライトはバイナリー的・異性愛主義的性理解に基づいて、男性と女性の一対一の結婚が「創造以来の神の計画」であると論じていますが、私はそれは当時の文化的価値観に順応した表現であると理解しています。時折このようにして、「創造の計画/デザイン/秩序」という表現を用いてキリスト者の倫理や終末のヴィジョンについて語られることがあります。しかし、そのような主張を吟味する時には、それによってある種の人々(この場合は性的マイノリティ)がそこから排除されてしまうことがないかを考える必要があります。別の言い方をすれば、「創造の計画」に基づく主張が神の愛に反するように思えるならば、そこで引き合いに出されている「創造の計画」が果たして真に神が創造以来願っておられることなのか、疑ってみる必要があるのです。
浅野先生は『新約聖書の時代』のエピローグで、アイデンティティの二面性について論じています。初期キリスト教会は共同体としての一致を形成するために強固なアイデンティティを作りあげました。けれども、共同体に安定をもたらすアイデンティティが同時に他者を排除する両刃の剣ともなったことを新約聖書は示しています。ライトが提示する終末的アイデンティティ――彼が推進する一夫一婦制の結婚観はその一表現と言えるでしょう――には、残念ながら性的マイノリティという「他者」を排除する要素があると言わざるをえず、したがって私たちが目指すべき終末的ヴィジョンとしては問題があると私は感じています。浅野先生は『新約聖書の時代』を次のように締めくくっていますが、私もそれに心から同意するものです。
キリスト信仰の本質的な理想が他者の受容であることを記憶に深く刻み、そしてそれにもかかわらずキリスト共同体の最初の一世紀においてさえそのアイデンティティの模索が暴力的な傾向を見せたことを重く受け止め、現代のキリスト教はその歩むべき道を定めてゆかなければならない。(462頁)
このように、教会が「聖書の権威に基づいて」生きるとは、聖書テクストの表面的な文言を無批判に直接適用することではなく、文化的な制約の中で神の民がどのようにしてより普遍的な神のヴィジョンを目指そうとしたのか、その方向性を読み取った上で、私たち自身の文化的制約の中で、聖書が指し示すそのヴィジョンに向けて次の一歩を踏み出すことだと思います。神の民が聖書にしたがって歩もうとする時、そこには絶えざる悔い改め(方向転換・軌道修正)が必要となってくるのです。
* * *
本シリーズは、N・T・ライト著『聖書と神の権威』の邦訳出版に添える「もう一つの訳者あとがき」として書き始めましたが、思わぬ長文になってしまいました。ライトがケーススタディで開陳している主張に反論するには、特定の聖書箇所の解釈を超えて、聖書論そのものの土台まで掘り下げて説明していく必要があったからです。同時にこのような聖書論の再検討は、単にジェンダー/セクシュアリティの問題のみならず、現代のキリスト教会が直面する様々な課題に取り組む際の喫緊の共通課題であると思います。私はここ数年来神学校で教えながらこの問題について考えてきましたが、今回このような形でまとめることができて感謝しています。
繰り返しますが、特定の主題に関して異議があるとは言え、私はライトの『聖書と神の権威』からは多くを学びましたし、彼の基本的な考え方には同意しています。読者の方々にはぜひ本書を自ら繙き、ご自分で判断していただきたいと願います。
本シリーズは現代においていかにして聖書を「神の言葉」として生きるかに関する、私の拙い「アドリブ」です。それが唯一の正解であると主張するつもりは毛頭ありません。ただ私なりに心がけたことは、どのような聖書の読み方が神の愛をもっともよく反映したものになるだろうか、ということでした。どの解釈モデルも仮説であり、誤っている可能性はあります。それでも、具体的な歴史的現実の制約内で生きる限界ある人間として、聖書を読み誤ることが避けられないのなら、せめて愛のある誤読をしたいと願っています。
(おわり)
<いくつかの補足>
本シリーズで述べてきたことからすると、聖書の霊感の考え方も、逐語霊感ではなくなります。具体的にどのようなモデルを採用するにしても、もし聖書の霊感を信じるならば――私自身は信じていますが――、それはより大きな枠組みで聖書全体を捉える霊感理解となるでしょう。(これについてはこちらの記事を参照)聖書のグランドナラティヴの中では、神の民としてのイスラエルが大きな役割を果たしています。ここから必然的に、現代のイスラエル国家との関係が問題となりますが、私はこの両者は単純に同一視すべきではないと考えています。百歩譲って同一視できたとしても、イスラエルの歩みがすべて神の御心にかなったものとは限らないということは旧新約聖書全体を一瞥すれば明らかであり、現在のガザにおけるジェノサイドはとうてい容認できるものではないと思います。(こちらの記事を参照)He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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