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「新しい愛の掟」

「さて、ユダが出て行くと」(31)とある。この時ユダは、イエスを裏切る目的で食事の席から立ち、外に出て行ったのである。夜であった。 イエスは、地上におけるご自分の生の最後、決定的な時が迫ったのを察知されたらしいが、その言葉は謎めいていた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節後半)。なぜ「栄光」というのか。 ヨハネ福音書には独特な思想があり、それに基づいて全体が組み立てられていると言われる。それは、イエスは天の父なる神のもとからこの地上に降って来て、しばらくの間神の業を行った後、再び天の父なる神のもとに帰って行く、という考えだ。 だからこの福音書では、イエスは十字架上で、マルコやマタイが書いているように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになっ

愛する皆さん、愛する姉妹たち、兄弟たち!

愛する皆さん、愛する姉妹たち、兄弟たち! 「そうですね、もし神様を見ることができ、把握することができるなら、その時は信じられるかも知れませんね」。このような言い方に、私たちは時々出会います。イースター物語に出てくる「疑うトマス」(ヨハネ 20,25)もそう願っていました。彼は、信じる前に先ず見たい、手で触りたいと言います。 人間はいろいろな条件を持ち出します。そして、神をそれに従わせようとする。しかし、これが、あれほど私たちが持ちたいと思っている神でしょうか? それは、何もかも自分の手の中に握りたい、勝手に操作して自分の願望のために使うことができるような神を持ちたい、という願いに過ぎないのではないか? 神への問いは大古からあります。旧約聖書の多くの物語が、既にそのことについて報告してい

「イエス・キリストを知る」

受難週に因んで、今日は旧約聖書のイザヤ書53章を読んだ。これは紀元前6世紀の預言者第二イザヤが、「主の僕」と呼ばれる不思議な人物のことを歌った四つの詩の一つで、特にその「苦難と死」がテーマである。その内容が主イエスの苦難と死にぴったり重なるので、我々は殊のほか深い印象を受ける。 大作曲家ヘンデルも、これに激しく感動したらしい。彼は、1741年にオラトリオ『救世主』を作曲したが、その第23曲目で、このイザヤ書53章3節をアルトの美しいアリア "He was despised"に仕上げた。先程、聖書の朗読に続いて平井桃子さんに歌って頂いたのがそれである。その歌詞を新共同訳で読むと、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」。 このアリアの後半の歌詞は、50章6節から

「復活された主イエス」

一昨日の金曜日は、イエス様が十字架につけられた記念の日でした。その日、イエス様は十字架の上で物凄く苦しんで死なれたのです。 ここにはないけれど、西洋の教会には大抵、十字架の上で苦しむイエス様の彫刻や絵があります。それを初めて見た人は、「イエス様はどうしてこんな目に遭わなければいけなかったのか?」と聞くでしょう。 本当に、何故でしょうか。イエス様は何も悪いことはなさらなかった。自分のことは後回しにして、出会うすべての人を大切にされました。苛められている人を励ましたり、悲しんでいる人を慰めたり、病気の人を癒したりなさいました。その方を、こんな風にして殺すなんて! 一体どうして? そのわけは、多分、こういうことだったでしょう。 その頃ユダヤには大事な「決まり」(律法)があって、どんな人もそ

「弟子たちに現われた主イエス」

ヨハネ福音書20章によると、十字架上で死んで葬られたイエスは三日目に復活し、その日の朝早く、墓のそばでマグダラのマリアに現われた(11-18)。その日の夕方には、密室に集まった弟子たちに現われた(19-23)。なかなか信じようとしなかったトマスにも現れて彼を信仰に導く(24-29)。ここでこの福音書は一応完結したらしい。だが、その後で21章が付け加えられた。今日の箇所はその最初の部分である。イエスはテイベリアス湖畔、つまり、ガリラヤ湖畔で「弟子たちに御自身を現された」(1)。 このように、復活物語には「現れた」という表現が頻繁に用いられる。これは、最古の復活伝承である第一コリント15章でも同じであって、「ケファに現われ、その後十二人に現われ…次いで五百人以上もの兄弟たちに同時に現われ…ヤコブ

「復活した主イエスの問い」

復活した主イエスはペトロに向かって「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15)と問われた。「この人たち以上に」というのは、「他の弟子たちと比較して」という意味ではない。「愛」や「信頼」といった人格的な関係は、他人と比較して自分の方が多いとか少ないとか、量に換算できるようなものではない。小説などに、「誰にも負けないくらいあなたを愛している」などと言う人が出て来るが、その人も他人との比較ができると思っているわけではなく、ただ「ひたむきさ」を表現したいのである。ここでのイエスの問いも、同様に理解してよいであろう。 では、「イエスを愛する」とはどういうことか。 人間は感情の動物でもあるから、「好き・嫌い」という感情に動かされる。もちろん、感情にも重要な意味がある。これを

「神にかたどって創造された人」

天地創造の業の6日目に、神は人間を創造した。この記事(祭司典)は今から約2500年も前のもので、多くの現代人は「これは科学的認識がまだなかった頃に信じられていた神話であって、要するに'おとぎばなし'みたいなものだ」と考える。今や、生命の発生と進化については、優れた科学者たちが実証的な研究に基づいて既にかなりの程度まで解明しており、それによれば、少なくとも数十億年の時間の経過がある。「神が6日間で天地万物を造った」などということはあり得ない、というわけだ。 だが、科学的でないからと言って、見くびってはいけない。 最近では、文化人類学や民俗学、宗教学、さらには深層心理学などの進歩に伴って、古代の「神話」や「伝説」、「民話」などが見直されている。その理由は、それらの中には、人間や世界の意味に関

「イエスの非暴力思想と現代」

イエスは「あなたがたも聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」(38)と言う。 日本の新聞やテレビなどは、この「目には目を、歯には歯を」という掟を残酷さの象徴として引用するのが常だから、多くの人は何時の間にかそれに影響されているよう だが、意外なことに、この掟は一般に言われているほど残虐なものではなかった、というのが専門家の意見である。この点に先ず注意したい。 これは、一般に「同害(態)復讐法」(ius talionis)と呼ばれるもので、旧約聖書では出エジプト記21章23節に出てくる。尤も「モーセ律法」が最初ではない。それよりも400年ほど古い「ハムラビ法典」(紀元前18世紀頃)に既にある。つまり、人類最古の

「敵を愛せよ」

一昨年も昨年も、敗戦記念日の頃、主として平和の問題に関連して今日と同じテキストを用いて説教したが、今年は少し違った観点から考えてみたい。 43節でイエスは、先ず「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言った後で、「しかし」と続けて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(44) という、正反対の戒めを与えている。 「あなたがたも聞いているとおり」という言い方は、これ以前も何度か繰り返された。それは、この話を聞くすべての人が「社会的常識」として熟知している掟が存在することを示すものだ。「殺すな」(21)、「姦淫するな」(27)、「偽りの誓いを立てるな」(33)、「目には目を、歯には歯を」(38)などがそれで、これらはすべて、旧約聖書、ないしは「十戒」

「聖霊の約束」

人は死ぬ時、後に残していく愛する人々のことを深く心に留めるものだ。意識がある間は、万感こもった眼差しを向けたり、優しい言葉を残したりするが、それが叶わない時、思いはいろいろに形を変えてその人のもとに留まる。 インドの詩人タゴールの、「おわり」という詩がある。幼い男の子が死ぬ時、母親に語りかける詩である。「ぼくのゆくときがきました。/おかあさま ぼく ゆきます」という言葉で始まる。そして、僕がいなくなっても、「一息のほのかな 風になって/あなたを やさしく なでてあげましょう」とか、「みずの おもての さざなみになって」あげましょうとか、「ささやきごえ」や「わらいごえ」になって「あなたの へやに 入るでしょう」とか約束する。歌声になったり、月の光になったり、夢や笛の音になっ

「聖霊を信じる」

今日は聖霊降臨祭である。この日に起こったことは、使徒言行録 2,1-4によると次の通りである。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」。 「五旬祭」というのはユダヤ教の三大祭りの一つで、麦の収穫を祝う祭り、また同時に、モーセがシナイ山で神から律法を授かったことを記念する日であったと言われる。過越祭から数えて50日目に当たるので、五旬祭というのだが、後にキリスト教会では、今読んだような出来事に因んで、この日を「聖霊降臨祭」として守るようになった。「

「神の霊が宿って」

ここはパウロ独特の主張が展開されている箇所で、論理は少々回りくどく、「分かりにくい」と感じる人も多いだろう。全体を大雑把に見ることから始めたい。 最初に、「肉」とか「霊」とかいう言葉が際立って多いこと気づくであろう。私が数えたところでは、この短い段落に「肉」が10回、「霊」は11回出て来る。しかも、これらは大抵ペアで現われる。対立概念であることは明らかで、その典型は6節だろう。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」。 ここで「肉」というのは、差し当たりは、「肉体」のことだと言っていい。 西洋では、ギリシャ哲学(プラトン思想)の影響もあって、「肉体」は、「精神」よりも価値の低いもの、もしくは「精神」と矛盾するものと考えられてきた。「肉体は精神の牢獄である」とは、プラトンの有

「町や村を残らず回るイエス」

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35)。 この言葉は、4章23節にもほとんどそのまま出て来る。多くの学者たちはそこに目をつけて、4章23節と9章35節がいわば「括弧」のような役割を果たしている、と言う。つまり、これに囲まれた部分が一つの大きなまとまりを成している、というわけだ。そして、その内容は、イエスの初期の活動である。 この時期のイエスの活動には重点が三つあった。「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあるように、「教えること」と「御国の福音を宣べ伝えること」、それに「病気を癒すこと」である。 この三つの中心は、やはり「御国の福音」であったろう。「御国の福音」とは、4章17

「罪の告白と赦し」

先週の土曜日に、ソウルで「独立記念館」を見学した。何万坪という敷地に広がる巨大な記念館で、1982年、日本の「歴史教科書問題」をきっかけとして、韓国政府が総力を挙げて新設したという。一度に全部を見ることはとても出来ないので、「日本統治時代」をテーマにした第三、第四、第五展示館だけに集中した。日本は何とひどいことをしたのだろう! 暗い気持ちにさせられた。 こういう時、人は反発して否定するか、事実は認めるとしても直ぐに自己弁護を始めるか、どちらかの道に逃れようとする。多分、「新しい歴史教科書を作る会」の人たちは前者で、躍起になって否定しようとするだろう。多くの政治家は後者で、「韓国側にも責任がある」、とか、「日本も悪いことばかりした訳ではない」などと言いわけをする。いずれにせよ、「自己正当化」

「平和に至る三つの鍵」

教会の暦では一年は三つの期節に分かれています。それは、降誕節と復活節、それと聖霊降臨節の三つです。今私たちはその第三の区分である聖霊降臨節に入っています。この期節はペンチコステに始まり、アドヴェント(待降節)まで、すなわち、6月から11月下旬にいたる、およそ半年も続く、教会の暦では一番長い期間です。それは、教会の時でありますから、ある意味では当然のことであると思います。教会はクリスマスに始まり、主の受難と復活によって命を与えられ、その福音に与かって主の年を歩んで行くのであります。ペンンテコステに続いて三位一体の主日が備えられ、今日は三位一体後、第二の主日となります。続いてアドヴェントまで、三位一体の主日がその数を加えて行く訳であります。その意味するところは何でしょうか。この期間には、福音の内

「イエスだけが語る赦しの言葉」

6月22日(金)から青年会の人たちを中心に総勢14名でソウルを訪れた。24日の日曜日は「キョンドン長老教会」の礼拝に参加し、私は次のような挨拶を述べた。 「敬愛する朴宗和牧師、同労者の皆さん、すべての兄弟たち姉妹たち。十字架につけられ、復活された方の御名において心からご挨拶申し上げます。 朴宗和牧師と私は、70年代にドイツで一緒に仕事をして以来の親しい友人です。昨年は、私が責任を持っている「富坂キリスト教センター」と「ドイツ東亜伝道会」が主催する「日・独・韓シンポジウム」が東京で開かれた時、彼に基調講演の一つをして頂き、出席者一同深い感銘を受けました。それ以来、いつかこの教会を訪ねたいと願っていましたが、今日、その願いが叶えられ、代々木上原教会の若者たちと共に礼拝に参加させて頂いたことを

「降伏を勧めた預言者」

エレミヤの時代は、紀元前627年の召命から、583年頃(?)の死に至るまでの約40年間である。北王国イスラエルは既に100年以上も前にアッシリヤによって滅亡、残った南王国ユダも、新興バビロン帝国の攻撃を受けて滅び、エルサレムの神殿は焼かれ、国民の主だった人々は強制連行されてバビロンに補囚となるという、激動の時代であった。この中で預言者として召されたエレミヤがどのように考え、どのように行動したか。現代に生きる我々にとっても、教えられるところが少なくない。 さて、バビロン王ネブカドレツアルがエルサレムを包囲したのは、紀元前588年である。少し遅れてエジプトの軍勢がエルサレムに接近した。恐らくユダ宮廷内の親エジプト派がファラオ・ホフラに救援を要請したのであろう、と言われている。バビロン軍は戦略上

「恐れるな」

今週も旧約聖書をテキストにして話したい。先週取り上げたエレミヤは、南王国ユダが滅亡する直前に活躍した預言者である。ユダ王国は紀元前587年にバビロンのネブカドネツアル王に滅ぼされ、多くの主だった人々がバビロンに強制連行されて補囚となるという民族的苦難を経験したが、その中で預言者はどのように考え、どのように行動したか。教えられるところが多い。 今日のは、そのエレミヤの直後の時代のものだ。 そもそもイザヤ書40-55章は、それ以前の部分とは用語も時代背景も思想も明らかに違うので、普通「第二イザヤ」と呼ばれている。紀元前539年に、新興ペルシャ帝国のキュロス王がバビロンを攻め、そのお陰で補囚民は苦しみから解放されて故国に帰ってくるのだが、第二イザヤは解放が近いことを予感して慰め深い言葉を語るの

「他者の発見」

「傍若無人」という言葉がある。「傍らに人無きがごとし」と読む。あたかも「この世界には自分の他に人はいない」かのように振る舞い、他人のことは一切眼中にない態度のことを言う。皆さんは何を連想されるだろうか。私は、電車の中で、大声で携帯電話をかけている人とか、本来なら人目に触れない所でなされる筈のお化粧に余念がない若い女性たちのことを考える。七つ道具を何と巧みに使い分けることか! しかし、これらは我々に実害を与えているわけではない。携帯電話は、読書中は少し迷惑だと感じるが永遠に続くわけではないし、「公開のお化粧」も見なければそれで済む。そんなことよりも、「傍若無人」の典型は暴力ではないか。 家庭内暴力が増えている。DV(omestic iolence)という専門用語が生まれたほどだ。夫が妻に(

「キリストは私たちの平和」

3日の朝日新聞夕刊に、英国人チャールス・ワイリーさん(81歳)とのインタビュー記事が載っていた。第二次大戦中グルカ連隊(ネパール人部隊)の将校として従軍、日本軍の捕虜になり、「泰緬鉄道」の建設現場で強制労働をさせられた人物である。 「泰緬鉄道」というのは「戦場にかける橋」という映画で有名になった。タイとビルマ(ミャンマー)の間を結ぶ補給路として日本軍が敷設した軍用鉄道で、米・英・豪などの捕虜6万人と現地労働者数十万人が投入され、現地労働者の死者数万人、捕虜だけでも約12,400人が死んで、国際的な非難を招いた。 ワイリーさんの話によると、捕虜の中に英国人の聖職者(司教)がいた。この司教はスパイ容疑で四日間にわたって憲兵の厳しい拷問を受けたが、その間、「神よ、この憲兵隊員をお赦し下さい」と

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