「新しい愛の掟」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「さて、ユダが出て行くと」(31)とある。この時ユダは、イエスを裏切る目的で食事の席から立ち、外に出て行ったのである。夜であった。

 イエスは、地上におけるご自分の生の最後、決定的な時が迫ったのを察知されたらしいが、その言葉は謎めいていた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節後半)。なぜ「栄光」というのか。

ヨハネ福音書には独特な思想があり、それに基づいて全体が組み立てられていると言われる。それは、イエスは天の父なる神のもとからこの地上に降って来て、しばらくの間神の業を行った後、再び天の父なる神のもとに帰って行く、という考えだ。

だからこの福音書では、イエスは十字架上で、マルコやマタイが書いているように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びは上げない。静かに「渇く」と言い、それから「成し遂げられた」と言って頭を垂れて息を引き取る(ヨハネ19,28-30)。無残な死を迎えたというよりも、地上における彼の業をすべて完全に果たして再び天の父なる神のもとに帰っていく、という書き方である。「栄光を受けた」とか、「成し遂げられた」と言うのは、その意味であろう。

マルコやマタイが描き出したイエスの方が、おそらく確実に実像に近い。――生身の人間として生き、この世の具体的な生活の中で多くの人々と喜びや苦しみを共にし、出会う一人一人の人を愛し、状況に応じて真実を尽くしたイエス。それなのに、弟子たちに裏切られ見捨てられて、ゲッセマネの園ではこの運命を嘆いて、「死ぬばかりに悲しい」と言い、苦しんで祈ったイエス。その直ぐ後に、時の宗教指導者たちの手の者によって捕らえられ、訴えられ、その挙げ句、神を冒涜したとして死刑の判決を下され、二人の極悪犯人と一緒に十字架に釘付けられ、あらゆる侮辱を受ける中でさらし者にされたイエス。そして最後に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びを残して絶命するイエス。

それに比べると、ヨハネの描くイエスの死の瞬間には生々しさがなく、「静けさ」が流れているように思われる。これを「哲学的な反省」の結果だと言って拒否する人もいる。しかし私は、これもまた人生の現実の一面を反映していると考える。

こういうことだ。――普通、死は「悲劇的に」受け止められ、常にマイナスのイメージで語られる。だが、ヨハネが描く「イエスの死」はそうではない。「天への帰還」であり、「栄光」である。アッシジのフランチェスコが死ぬ時に、「姉妹である死がやってきた」と言ったそうだが、そのような自由は元々イエスから来たものだ。

スイス生まれのアメリカの精神科医エリザベート・キュブラー=ロスの『死ぬ瞬間』(1969年)によると、死を迎える時の精神状態には五つの段階があるという。初めは認めようとしない(否認)。それから、「自分がなぜ今?」と怒る(怒り)。次に、死を少しでも先に延ばそうとして「もう一度だけ桜を見たい」などと言い出す(取り引き)。その後でふさぎ込む状態が来る(抑鬱)。大部分の人はこういった段階を経て、最後に自分の死を平静に受け入れるようになる(受容)、というのである。

この五段階は、多少の違いがあっても、どの民族でもほぼ普遍的に認められるそうだ。だが、上智大学のアルフォンス・デーケンは、これにもう一つ、キリスト教信仰に特徴的な段階として、「永生への希望」を付け加える。通常の死は、神のもとに召されて永遠の命を与えられることだから、なにも悲劇的なことではない、と言う。そして、自分の死を実際に「コメデイーのように」楽しんだ人の実例を挙げている。

ニューヨークの91歳の女性は、「お別れパーテイー」を催し、神父である長男に祈ってもらった後、突然起き上がって「ウイスキーが飲みたい」と言い出した。「氷も入れてちょうだい」。美味しそうに飲み干した後、今度は「煙草をちょうだい」。酒も煙草も飲んだことがない人なので、皆が驚いている中で、それも楽しむと、「ありがとう。天国でまた会いましょう、バイバイ」と言ってそのまま息を引き取ったという。

もちろん、この場合とは違うが、イエスがご自分の死を「栄光」と言った時、実は彼もまた、死を悲劇的なイメージから解放したのではないか。

さて、もう一つ話したいことが残っている。

イエスは弟子たちと死別することになった。それを知った時、彼は残る弟子たちに新しい掟を与えた。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)。

ある注解者は、この掟は、いろいろ困難な状況に囲まれていた初代の教会に、外の世界に対して内部結束を固めるために与えられたものだと言う。しかし、そのように狭く受け取る必要はない。確かにヨハネには、この世と教会を「対立的に」描く図式があるが、根本的に重要なのは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3,16)という信仰である。さらに、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とも言われているではないか。これが何よりも大切である。この世と教会が「敵対するもの」であるかのように考えるのは、間違っている。

だから、弟子たちが互いに愛し合うのは、閉鎖的な集団の中で独善的な生活を営むためではない。弟子たちが互いに愛し合うのは、この祝福が世に及ぶためである。


 
 

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