I
私たちは人生の歩みを進める中で、何らかの手本あるいはモデルを探します。これは小さな子どもたちだけでなく、大人の場合も同じであろうと思います。しかし、変化の激しい現代において、そのような人生の歩みにおけるモデルを見出すことは簡単ではありません。人々の手本になることが期待されている人々に不祥事の絶えない時代、親が子どもをネグレクトすることもある時代、つまり、いわゆる〈モラル・ハザード〉の時代に生きている私たちは、もうちょっとやそっとでは驚きません。有名な病院の医師が、自らの名誉心から、患者に危険で粗末な手術を施して死に至らしめたり、有名な女子大の教員が女子トイレをビデオ撮影したり、あるいは警察官が、同僚の支払った寮費を着服したり。もう何でもありです。さまざまな意味での伝統的な権威に対して、私たちが反射的に反感を感じても無理はありません。さらに私たちの国には、右翼テロの犠牲になりかけた官僚について、「彼は売国奴であるから爆弾を仕掛けられて当然だと公言して憚らない政治家もいます。これは本当にひどい発言です。ところが、こうした暴言を支持している市民もいます。このことは、モラルの荒廃が権威に対する反感を誘発するだけではないことを示しています。それは、むしろ「アイドルないし「スター的な指導者に対する盲目的で熱狂的な追従と暴走に、薄暗い素地を提供しているように見えます。モデル探しは、そんなかたちでも続いているのです。
ところでパウロは、彼が獄中からフィリピ教会に宛てた書簡の中で、「皆一緒に私に倣う者となりなさいと呼びかけています。いったい、どういう意味なのでしょうか。
Ⅱ
ふつう「私に倣う者となりなさいと言えるのは、客観的にも主観的にも、他の人々よりも抜きん出て優れた人であろうと思います。しかしパウロの場合は少々事情が違います。彼は客観的に見れば、囚人です。つまり胸をはって「私に倣う者となりなさいとは、言いにくい立場にありました。さらに彼は、直前の文脈で、「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありませんと言っています(12節)。彼は自分が不完全な存在であることを認めています。ですから、信仰の達人が未熟者に対するように「ここまで来てみろという意味で「私に倣えと言っているとは思えません。むしろパウロは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること(14節)へと、人々を招きます。すると「皆一緒に私に倣う者となりなさいとは、「オレについて来いという意味ではなく、むしろ、上への召しに従って「一緒に前に向かって進もうという促しなのです。
Ⅱ
「前に向かって進もうというときには共通の目標があるはずです。以下に続くテキストでパウロは、一見すると共通の目標に向かって走っているかのように見えるけれども実際にはそうでない場合(18-19節)と、真の共通の目標に向かって走る者たちの生き方(20-21節)を、相互に対比させながら論じています。順に見てゆきましょう。
Ⅲ
まずパウロは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いと嘆いています(18節)。この人々はキリスト教徒であろうと思われます。彼らがどのような信仰をもち、どのような生活をしていたのかはよく分かりません。しかし、パウロが彼らの生き方をどう見たかは、はっきり分かります。
パウロによれば、この人々が「行き着くところつまり彼らの「目標は、実際には救いでなく「滅びであり、彼らが「神としているのは、実際には神と呼ばれるに値しない「腹すなわち自己の欲望であり、また彼らの「誇りつまり「栄光は、実際には彼らに「恥じをもたらすものです(19節)。つまり立派な「目標を持ち、「神に従いつつ、「栄光を手にしていると思っているキリスト教徒であっても、キリストの十字架に敵対するとき、実際には滅びに向かって、過ぎ去るべき「腹に従って、また「恥の中を歩んでいる。キリストの十字架に敵対するとは、イエスが引き受けた苦しみと死の運命を真剣に受け止めようとしないことを意味すると思います。つまりイエスの具体的で個別的な苦難を飛び越えて、あたかもそれがなかったかのように、例えば自らの出自を誇ったり、宗教的な修練に基づいてすでに完全な救済に到達したと思い込んだりすることは、外見上はいかに素晴らしい、順調な人生を歩んでいるようであっても十字架に敵対することだ、とパウロは言っているのです。
キリストの十字架は、罪なき者に対する虐殺の出来事でした。ですから、キリストの十字架に敵対するとは、この世界における故なき苦しみや暴力の犠牲者に対して無関心な生き方、つまり他者の痛みに対して無感覚な生き方につながります。キリストの十字架に注目する者は、この世におけるあらゆる暴力を見過ごすことができないはずです。とりわけ「神の名によって行われる戦争は、「滅び「腹「恥といった言葉で表現されていることがらの代表です。キリストの十字架という、この世界における苦しみや死を無視する者は、天まで届くような高い理想を語ろうとも、実際には「この世のことしか考えていないのです(19節)。
Ⅳ
キリストの十字架に逆らって生きる者たちの歩みが、そのようであるのに対して、そうでない者たちの歩みについて、パウロはまず「私たちの本国は天にありますと言います(20節)。「本国と訳されているのは、「政治的共同体とも「市民権「国籍とも訳せる言葉です。イエスの十字架刑という、きわめてこの世的で悲惨な出来事に注目する者が、かえって「天という超越的なものに基づいて生きるという逆説的な発言の背後には、もちろん〈神がイエスを死者たちの中から起こした〉という復活信仰があります。
この発言は、いわゆる「愛国心を盛んに振り回している現在の日本政府のあり方を思い起こすとき、とりわけ示唆に富んでいます。先日の教会カンファレンスでは幾つかのグループに分かれて話し合う機会がありましたが、そのとき「教育と国家というグループでは、「愛国心の問題も話し合われました。そのとき村上牧師が次のような趣旨のことを言われました、〈自分が生まれた国を愛することは自然な感情であって強制されるべきものではないし、本当の愛国心は、世界に向かって誇りうるものと、そうでないものを区別できる成熟した心のことだ〉と。そして我が国の誇るべき伝統の一つとして、平和憲法の理想を挙げられたのです。現職の政府閣僚や防衛関係者の中には〈日本は核武装すべきである〉という意見の人もいるくらいですから、憲法9条は、実際には風前の灯といった状況です。それでも国際紛争の解決手段として武力による威嚇と行使を放棄するというあり方は、「私たちの本国は天にありますという者たち、すなわちこの世の現実という呪縛から解き放たれた生き方に対する感受性を持つ者たちが、この世界に貢献する一つの具体的な可能性であり続けると思います。実際、世界中の平和を願う人たちが、対話による解決しか私たちに生き残る道はないと明言しているではありませんか。
これと関連して、救い主である主イエス・キリストが天から来られるのを待つ(20節)とは、決してぽかんと口を開けて空を眺めていることを意味しません。「待つとは、私たちのいう〈待ち〉の姿勢ではありません。むしろ、人間の力量に期待できる範囲を超える豊かな未来に希望を託して、今できる最善のことをなすという積極的な姿勢を意味します。
V
その希望について、パウロはこう言います、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光ある体と同じ形に変えてくださるであろう(21節)。
この発言は、お気づきの方もあると思いますが、同じ『フィリピの信徒への手紙』の有名なキリスト賛歌(フィリ2,6-11)と響き合っています。新共同訳では、そのことがあまりはっきりしませんので、別の翻訳を読みます。
「キリストは神ののうちにあったが、神と等しくあることを簒奪物とは見なさず、むしろ己れ自身を空しくした、奴隷のをとりつつ、さらに人間と似た者になりつつ、人間としてのにおいて現れつつ、己れ自身を、死に至るまで従順になりつつ、しかも十字架の死に〔至るまでも〕。それは、イエスの名において、天上の者、地上の者、そして地下の者たちの、すべての膝がかがめられ、すべての舌が〈イエス・キリストは主なり〉と告白するためである、父なる神の栄光のために。(青野太潮訳『新約聖書Ⅳ・パウロ書簡』岩波書店1996年[訳文を若干修正])
「私たちの卑しい体の「卑しさは、キリスト賛歌では、キリストが自らを「低くした/卑しくしたという言葉と同根の単語です。また私たちの体がキリストの栄光の体と「同じ形にされるという発言では、「神の形のうちにあったキリストが「奴隷の形をとったというのと同根の単語が用いられています。さらに私たちの体が「変えられるという表現は、キリストが「人間としての姿において現れたという表現に対応します。つまり神の形のうちにあったキリストが人間の姿に、栄光から卑しさへと変容を遂げたように、この世の終わりにおいて、今度は私たちがキリストの体に向けて、つまり卑しさから栄光へと変容を遂げるだろう、とパウロは言っているのです。
この発言は、私たちには理解しづらいところがあります。こうした発想の背後には、〈人間は神の似姿である〉という旧約聖書的な人間観があります(創1,27を参照)。そして「体という表現は、精神から区別された「肉体という意味ではなく、世界や神との交流の中にある「人間そのものという意味です。また「栄光の体という表現は、キリストが完全な神の似姿として、真の人間そのものである、という理解を含んでいます。ですから、ここに表明されているのは、私たちはいつか必ず、神に向き合った真の人間になるだろう、そのとき私は「新しき人として真の私になるだろう、という希望です。
この希望は、古の預言者エレミヤの口を通して、「新しい契約というイメージのもとに、次のように語られていました。
「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、〈主を知れ〉と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない(エレミヤ31,33-34)
イエス・キリストにおいて現実となったこの希望に向けて、私たちもまた、パウロたちを模範としつつ、不完全なものでありながらも共に前に向かって歩み続けたいと願います。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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