ヨハネ黙示録は終わりに近づいている。天使は、「これらの言葉は(つまり、これまでに語られたすべての言葉は)信頼でき、また真実である(6)と言って全体を締めくくる。そして、これらの言葉が「真実であるのは、「預言者たちの霊感の神、主が(7)語らせた言葉だからだ、と言う。
だが、ここには微妙な問題がある。ヒトラーのようなカリスマ的な政治家や、麻原彰晃のようなカルト宗教の教祖も、「自分たちの言葉が霊感によっていて絶対に真実であると主張したではないか。ヨハネは、どこが彼らと違うのか?
黙示録冒頭の、「イエス・キリストの黙示(1,1)という言葉を思い起こしたい。
ヨハネは、いわゆる「カリスマ的な指導者たちのように自分の思想の正しさを誇ろうとしたり、自分からそれに絶対の権威を与えたりはしない。彼はそのような自己顕示欲とは無縁である。彼はただイエス・キリストを、つまり「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放して下さった方(5)だけを証しする。彼はイエスの愛に打たれ、「互いに愛し合いなさいという戒めに従って生きようとし、それを同信の仲間に勧める。「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかる(9)とは、そういう意味だ。黙示録の内容が真実だというのは、ただ愛の真理を体現されたイエス・キリストを証ししているからであって、他に理由はない。
さて、今日の箇所を考えよう。ここでヨハネは、「見よ、わたしはすぐに来る(7)と告げる。「わたしとは、イエス・キリストを指す。キリストがすぐ来る、再臨する、というのである。
黙示録の最初で、イエス・キリストは「今おられ、かつておられ、やがて来れれる方(1,4)として示された。同じ意味で「アルファであり、オメガである(8)と言われ、「その方が雲に乗って来られる(7)とも言われた。この思想は黙示録を一貫している。「わたしは、すぐに来るという言い方は3章11節に現われ、22章では7節と12節に現われ、そして「然り、わたしはすぐに来るという20節で黙示録を締めくくる。ヨハネ黙示録のキーワードが「来るという言葉であることは明らかだ。
イエス・キリストが来る。私たちが「努力を重ねて上昇して行くというのではない。彼が私たちの所へ来る。あなたの所へ来る。
普通、多くの宗教では、人間が祈りや修行によって、あるいは戒めを守ることによって、より高い境地を目指す。聖書では、「律法主義がそうであろう。
典型的なファリサイ派であったパウロが、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(フィリピ 3,6)と誇っているように、律法主義者にとって決定的に重要なのは「律法の義を追い求める熱心さであった。だからそれを追求した。その場合、生まれや家柄もどうでもいいことではない。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です(同3,5)とある通りである。つまり、救いの条件は人間の側にあり、その条件を満たすときにだけ、人は救われる。
しかし、パウロはこの「律法主義に挫折したのである。ダマスコ途上で「なぜ、わたしを迫害するのか(使徒言行録 9,4)というイエスの声を聞いたとき、彼は地に倒れたという。あのイエスの声は、家柄を誇り、誰にも負けない位熱心に「律法の義を追い求めたパウロの生き方に対する根本的な問いかけであった。なぜ、私を迫害するのか? あなたの「義とはそのようなものか? ただ人を愛し、互いに愛し合って生きよと教える私を迫害するのが、あなたの「義なのか? 彼はこの問いに根底から震撼させられた。目が見えなくなり、三日間、飲み食いもできなくなった。
だが、使徒言行録に、「突然、天からの光が彼の周りを照らした(9,3)と言われているのは象徴的である。彼は自分の努力によって何かの悟りに達したのではない。突然、天からの光が来て、彼を照らした。イエスの方から彼のところに来たのだ。そのことによって、彼は新しくなる。彼は、「律法から生じる自分の義ではなく、…信仰に基づいて神から与えられる義(フィリピ 3,9)に生きるように変えられた。
カール・バルトという神学者は、第一次世界大戦が始まったとき、ヨーロッパの多くの知識人と同じように、人間に絶望した。ギリシャ・ローマ以来の豊かな文化的伝統を誇る「キリスト教的ヨーロッパが、近代科学技術の粋を集めて開発した兵器(機関銃・戦車・潜水艦・飛行機・毒ガス等々)を投入して血で血を洗う大戦争を繰り広げたのである。当時バルトはスイスの片田舎で牧師をしていたが、この状況に直面して説教ができなくなった。その中で、彼はひたすら光を求めて聖書に沈潜した。特に『ローマ書』である。そして、光は向こうから射し込んで来た。
彼はロシアの文芸評論家メレジコフスキーの言葉を引用してこう語る。――信仰者は高い山の頂上に似ている。肥沃な土壌・太陽の光と温もり・きれいな水・美しい花・豊かな実りで満ちた麓とは違って、高い山の上には何もない。激しい寒風が吹きすさぶ中で僅かばかりの高山植物が岩肌の苔にしがみつくようにして生きいる。だが、夜が明けて東の空から太陽が昇るとき、真っ先に光を受けるのは、この高い山の頂上なのだ、と。「見よ、わたしはすぐに来る。このことを信じよう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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