今日のところには「白馬の騎手が登場する。私はここを読んだとき、たしかアルブレヒト・デューラー(16世紀のドイツの画家)に有名な木版画があったな、と思い出した。そこでデューラーの画集を持ち出して調べてみると、「黙示録の騎手という1498年の作品が見つかった。皆さんにお配りしたのはそのコピーである。
しかし、よく見ると、この作品は黙示録19章ではなく6章を題材にしたものだ。念のために6章を開いてみよう。先ず、「小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物(=天使的な存在)の一つが、雷のような声で『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた(1)とある。デューラーは、この言葉を先ず天使の姿で上の方に描いた。そして、天使の声に応じて左の方から馬に乗った四人の騎士たちが画面中央に駆け込んでくる。馬は戦いの象徴だ。つまり、終末の戦いが起こるという意味である。
一番右に第一の騎士がいる。木版画だから色が着いていないのが残念だが、6章によれば、天上の色である白い馬にまたがり、「勝利の上に更に勝利を得る」(2)ために、弓を持ち、神から与えられた冠をかぶっている。二番目の騎士は血の色である赤い馬に乗り、「地上から平和を奪い取る(4)ために大きな剣を振りかざしている。第三が、神の裁きを表す黒い色の馬にまたがった騎士で、「手に秤を持っていた(5)。秤も神の裁きのシンボルである。最後の騎士は、死体の色である青白い馬にまたがっている。「乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた」という8節の言葉を、デューラーは正確に表現した。騎士も馬も骸骨のように痩せ細り、その足元には何人もの男女が息も絶え絶えに倒れている。このように、終末の前兆としてさまざまな災いや苦しみが襲う。これをデューラーは、素晴らしい木版画に描いた。
さて、今日の19章には、6章と同じように白い馬に乗った騎手が登場する。これは、歴史がさらに終局に近づいて最終段階に入ったことを示唆している。だが一体、この「白馬の騎手とは何者だろうか?
彼は「誠実」・「真実」(11)と呼ばれている。また、「正義をもって裁き、また戦われる(11)といい、「頭には多くの王冠が」(12)ある。これは、彼には権威と力があるという意味である。そして「この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた(12)。「知る」というのは、聖書では多くの場合、「支配するという意味で使われる言葉だから、この方は誰にも支配されることのない絶対的な力がある、ということであろう。これは誰のことか? イエスか?
13節でその謎が解かれる。すなわち、「その名は『神の言葉』と呼ばれた」。ヘブライ人への手紙4,12に、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」とあるように、ヨハネも「口からは、鋭い剣が出ている」(15)とか、「諸国の民をそれで打ち倒すとか、「鉄の杖で彼らを治める」とか言う。これらは神の言葉の特性だ。
この世界では、虚偽や詭弁によって言葉が信頼を失ってしまった。しかし、何時までもそのままではいない。やがて、神の真実な言葉が力を発揮して勝利する!だから、神の言葉には「王の王、主の主」(16)という名が与えられる。これは深い慰めだ。
それにしても、この神の言葉に関して、凄まじい表現が使われるのは何故だろうか?「血に染まった衣を身にまとっている」(13)とある。これは「戦いで敵を蹂躙した時に受けた返り血で衣服が汚れた(佐竹明)様子を示すものだ。他にも、「全能者である神の激しい怒り」(15)を込めて「ぶどう酒の搾り桶を踏む」とか、すべての鳥に「王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べさせる(18)とか…。
「戦い」・「剣」・「殺す」といった言葉は、すべて戦争の用語である。要するに、これが当時の「思考パターンだったのである。この軍事的な思考パターンは普遍的で、今日に至るまで世界を支配している。卑近な例を挙げれば、我が国でも外国の元首を迎えるときに、儀杖兵の閲兵・サーベル・礼砲といった軍事的なスタイルをとる。誰も不思議に思わない。紀元1世紀末のヨハネ黙示録が軍事的な用語の世界から抜け出せないでいたのも無理はないかもしれない。
イエスも譬えの中で、「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取る」(マタイ11,12)というような言い方をしたことが何度かある。そうした思考回路の中で生きていた民衆にはそのほうが分かり易いと思ったからであろか?
だが、彼は肝心かなめのところでは一切軍事用語を用いなかった。これが重要である。彼は柔和であった。「柔和というのは、ただ「腰が低い」というのとは違う。武力や暴力には断じて訴えないという姿勢のことである。彼は軍馬には乗らない。ろばに乗る。彼は決して狼になろうとはしない。徹底して柔和な小羊であり続ける。
黙示録の最初の言葉は「イエス・キリストの黙示」(1,1)であった。このイエスが黙示録の至る所で息づいているのである。だから、どれほど激しい言葉遣いがあるとしても、それに目を奪われてはならない。黙示録の中心にはイエスが立っているのだ!徹底して他者を愛したイエス。どんな人とも愛し合って共に生きて行くべきことを教えたイエス。野の花や空の鳥、小さな子供たちや虐げられた人々など、この世で最も小さいものの命を慈しんだイエス。そのイエスの言葉が「神の言葉」なのであり、これが最後には一切を支配するであろう。白馬の騎手とは、結局、このことの象徴である。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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