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それでは、初代教会のクリスチャンたちの聖書解釈法はどのようなものだったのでしょうか?
使徒たちがユダヤ人たちに対してイエスがキリストであることを旧約聖書から論証し、彼らの議論は少なくともある程度の説得力を持っていたことから、彼らの解釈は当時のユダヤ人たちの旧約聖書理解と何らかの連続性を有していたということは確かです。
ただし、当時のユダヤ的釈義法は今日の歴史的・文法的釈義とはかなり異なるものでした。当時ももちろん旧約聖書の字義的な解釈法(今日で言う歴史的・文法的方法に近いもの)は存在しましたが、それに加えてミドラシュ、ペシェル、アレゴリー的解釈といった方法で、字義的な意味を超えた意味を旧約テキストに読み取る試みがなされていました。
ミドラシュとはラビによる聖書解釈(注釈)で、聖書の字義通りの意味よりさらに深い意味を探っていく解釈法です。ミドラシュにはいろいろな解釈法があります。たとえばヒレルという高名なラビ(パウロの師であったガマリエルは彼の学派に属していました)は7つの解釈原則を唱えました。その一つにカル・ヴァホメル(「小から大」。原義は「軽いものと重いもの」)という原則があります。これはより重要でないことがらに当てはまる原則は、より重要なことがらにはさらによく当てはまる、という解釈原則です。ローマ書5章15-21節でパウロはこのカル・ヴァホメルを用いています:ひとりの人アダムの違反によって罪と死が人類に入ってきたとすれば、ひとりのイエス・キリストによる義といのちはそれにもましてすべての人に満ち溢れる、ということです。
ペシェルは死海文書で有名なクムラン教団で多用された解釈法で、旧約聖書のテキストが、世の終わりに生きる自分たちの共同体に直接向けて書かれたものとして解釈する方法です。新約聖書の中では、このシリーズの第4回でとりあげた、マタイ2章14-15節におけるホセア書の引用はペシェル的解釈と考えられます。
アレゴリーは「寓喩」とも呼ばれ、表面上の字句とは異なる内容を意味する表現技法ですが、本来アレゴリー的でないテキストの言葉の裏に別の意味を読み取っていく解釈法を「アレゴリー的解釈」と呼びます。ガラテヤ書4章21-31節で、パウロがハガルをシナイ山及び地上のエルサレム、サラを天上のエルサレムに結びつけているのはその一例です。
新約聖書におけるユダヤ的解釈法についてこれ以上詳しく述べることはしませんが、結論としては、基本的に使徒たちの釈義方法は当時のユダヤ的解釈法の範疇にあったと考えることができます。これはある意味で当然のことです。聖書は特定の歴史的・文化的状況の中に生きた実在の人々によって書き記されました。1世紀のユダヤ教の中から出現したキリスト教の使徒たちが、当時のユダヤ的な聖書解釈法の強い影響を受けていたと考えるのは決して不思議なことではありません。
他方で、彼らの解釈には当時の一般のユダヤ的解釈法とは決定的に異なる「新しさ」がありました。それは端的に言えばイエス・キリストという要素です。使徒たちは十字架につけられ死んで復活したナザレのイエスがキリスト(メシヤ)であり、旧約聖書のすべてはこのイエスを指し示しているという確信に基づき、そのような視点から旧約聖書を読んでいったのです。
このような読み方は「キリスト中心的Christocentric」あるいは「キリスト論的Christological」解釈と呼ばれることが多いですが、米国の旧約聖書学者ピーター・エンズPeter Ennsは「キリスト目的的Christotelic」解釈という表現を提案しています。 これは旧約聖書の全体がキリストの死と復活というクライマックスに向かっているという終末論的前提に立って旧約聖書を解釈していこうとする方法です。
エンズの主張で重要なポイントは、「キリスト目的的」な解釈は旧約聖書の歴史的・文法的釈義だけからは導かれないということです。使徒たちは旧約聖書が導く救済史のクライマックスがイエス・キリストであることを既に知っていたが故に、特定の旧約テキストがイエスを指し示していることが(たとえ歴史的・文法的釈義からは導けなくても)分かったというのです。このような主張は、旧約聖書の歴史的・文法的釈義の有効性を制限するものであるため、当然のごとく福音派の聖書学者の間で議論を巻き起こしました。
エンズの主張をどう受け止めるかは人によって様々な立場があるでしょうが、この問題は結局、新約記者が見いだした旧約テキストの「意味」には、旧約記者がオリジナルの歴史的文脈で意図した「意味」以上のもの、「より完全な意味sensus plenior」が含まれるのか、ということに帰着します。新約記者たちの解釈法が歴史的・文法的釈義と同等のものであったとするならば、「より完全な意味」を考える必要はありません。しかし、使徒たちがキリスト目的的解釈を行ったのだとすれば、その可能性を考えざるを得ません。つまり、使徒たちが旧約テキストに見いだした「意味」は旧約記者たちの意図した「意味」を超えたものであったということになります。
歴史的・文法的方法の観点からすれば、これは恣意的な読み込み(eisegesis)であり、受け入れられない解釈法です。しかし、聖書の究極の著者は神であるとする福音主義的聖書観からするならば、旧約聖書のあるテキストが人間の記者の意図を超えた意味を新約時代に持つように神が意図されたと考えることは決しておかしなことではありません。そうなると問題は、聖書自体に見られる現象は、このような「より完全な意味」の存在を示唆しているかどうか、ということになります。
新約聖書のテキストに虚心に耳を傾けて行くなら、その答えは然りであると個人的には考えています。言い換えれば、新約聖書は歴史的・文法的方法に代表されるような解釈学的方法論だけが聖書解釈において規範的なのではないことを示しているのです。
(続く)
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He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel
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