黙示録17章では、「大淫婦(=ローマ)の姿が毒々しく描写された。神を冒涜する名で全身を覆われた「赤い獣にまたがり(3)とか、「紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持ち、…イエスの証人たちの血に酔いしれている(4~6)とか。
18章では、その大淫婦の悪行が具体的に描かれた。「おごり高ぶって、ぜいたくに暮らした(7)とか、政治的権力者たちと「みだらなことをした(3)したとか。そして商人たちは「豪勢なぜいたくによって富を築いた(3)。それだけではない。そのような政治・経済の一極集中によって「預言者たちと聖なる者たちの血がこの都で流された(24)。ローマが「ひとときの間に裁かれた(10)のはこのためだ、と言う。
今日の19章はそれを受けている。神は、「みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさった(2)。そして、「大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る(3)という。
おそらく我々は、「血の復讐という言い方に違和感を覚えるであろう。主イエスは「復讐するなと教えられた(マタイ5,38-42)。しかし、ヨハネはここで復讐を正当化するような言い方をしている。これをどう考えればよいのか? 当時のキリスト教会は、国家権力による迫害という状況の下で、「今に見ていろと復讐を考えることで辛うじて自らを励ましていたのだろうか? 確かに、キリスト教はその時々で少しずつ変わってきたから、黙示録にもそういう変化がないとは言えない。
ここで、キリスト教2000年の歴史を大雑把に振り返っておこう。最初、少数の信者の集団に過ぎなかったキリスト教はイエスの教えに忠実だった。第二世紀頃から急速に勢力を拡大し、この量の変化は、当然、質の変化をもたらした。とくに、第四世紀にローマ帝国の国教になってからは、教会は支配者の地位に上った。自らを低くして他者に仕えるというイエスの生き方は忘れられ、「山上の説教は余りに理想主義的であるとして無視された。もちろん、アッシジのフランチェスコのような人はいたし、一筋の清らかな流れは絶えることがなかった。それは、我々にとって救いである。だが、全体として見れば、教会は、イエスに従うよりも現実的な政治の力学に従う集団に変質してしまった。中世はしばしば「暗黒の時代といわれるが、教会はこの世的な力で世界を支配しようとし、十字軍戦争を仕掛けたり、異端審問によって内部の敵を殺したり、死刑という「血の復讐を行ったりした。明らかにイエスの教えからの逸脱である。
しかし、このような行き方は、第一次世界大戦の時に破綻する。なにしろ、「キリスト教的ヨーロッパに属するキリスト教国同士が、近代科学の粋を集めて開発した新兵器(機関銃・戦車・潜水艦・飛行機・毒ガス)を使って、「血で血を洗う大戦争を繰り広げたのだ! 人々は、「西洋の没落を実感した。「キリスト教絶対主義はもはや通用しなくなった。
しかし、この挫折を通して「聖書をもう一度、ちゃんと読まなければならないという深刻な反省が起こったのは良いことであった。研究が深められてイエスへの回帰が起こった。イエスのように、苦しむ人々の視点から物事を見ることの尊さが再発見された。ボンヘッファーの言う「下からの視点である。教派間の不毛な論争が終わり、教会の壁を越えた、エキュメニカルな協力による世界平和への努力が始まった。今、我々はこのような時代に生きているのである。そのような者として、我々は「血の復讐というような言い方を単純に受け入れることはできない。先程、黙示録の表現に「違和感を覚えると言ったのはそういう意味だ。
しかし、以上のことを考えた上で、我々は、今日の箇所には実に大切なメッセージがあることを認めなければならない。
とくに、5節以下の「小羊の婚宴という個所である。「小羊とは言うまでもなくイエス・キリストのことだ。柔和な小羊、力とは無縁の小羊が、あの大淫婦の毒々しい姿とは全く対照的に「輝く清い麻の衣を着せられた(8)花嫁と婚礼を挙げる。そのように清らかな喜びと祝福に満ちた時が来る。地上を堕落させたあの大淫婦に対する「真実で正しい神の裁きが行われる。悪い時代が過ぎ去り、新しい時が始まる。小羊の婚宴! それに、我々も招かれているというのである。
確かに、「血の復讐という表現はイエスの教えと矛盾するように見えるかもしれないが、その印象に引きずられてはならない。といっても、気に入らない言葉には「目をつぶるということではない。もっと積極的にテキストを読み解きたいのである。
たとえば、イエスは旧約聖書をどう読んだか? 彼は、律法の中で最も重要な掟は「神を愛せよと「隣人を自分のように愛せよの二つであると言い、この最も重要な言葉に集中することによって全体を把握した (マタイ 22,34-40)。旧約聖書には受け入れ難い箇所が多くあるけれども、イエスは、その中心には「愛があることを洞察した。この「愛を通して旧約聖書の全体を理解したのである。このイエスのように、そしてこのイエスを通して、我々は聖書の全体を理解しなければならない。聖書のいかなる言葉もイエスのように読み・イエスを通して理解する。これが大切である。
その時、「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた(6)という賛美が真に我々のものとなる。ヘンデルがオラトリオ『救世主』の中で、心を込めて曲をつけたように、我々も心から「ハレルヤ! 神をほめたたえよ!と歌う。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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