愛がなければ

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「愛がなければ」

村上 伸
ゼカリヤ書8,1-17;

 今日の説教テキストは結婚式でよく読まれる箇所だ。パウロは「あなたがたに最高の道を教えます」(12,31)と言って、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・・」(1-3節)と語り始める。一見、キリスト者の生き方に関する一般的な教えのように見える。しかし、彼は「キリスト者の道徳」を抽象的に教えているわけではない。コリント教会の中にあった具体的な問題に心を痛めて、具体的な忠告を与えているのである。

当時、コリント教会には一種の「格差」が生じていた。この手紙の第1章は、そのことを暗示している。一方に「知恵のある者」・「能力のある者」・「家柄のよい者」がおり、他方に「無学な者」・「無力な者」・「身分の卑しい者」がいた。前者は経済的にも豊かで「強い」立場にあり、反対に後者は貧しく「弱い」立場にあって、両者の間には明らかに格差があり、そこからある種の対立・緊張が生まれた。

「強い」人たちは、「天使たちの異言を語る」能力(13章1節)や、「預言する賜物」(2節)、「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じた」(同)知性、「山を動かすほどの完全な信仰」(同)、「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」(3節)という健気な姿勢、そして、必要ならば「わが身を死に引き渡す」(同)という殉教への勇気など、霊的な賜物に豊かに恵まれていた。それ自体は、感謝すべきこと・誇るべきことに違いない。

しかし、パウロは、この強い人たちには残念ながら「愛」(アガペー)が欠けていると見ていた。アガペーとは、「美しさ」・「好もしさ」といった何らかの価値への「愛着」(エロース)ではない。イエスがそうされたように、どんな人も拒まず、どんな人に対しても心を閉ざさないこと、どんな人も大切にすることである。

そのアガペーがない、とパウロは言いたいらしい。だが、一体、「山を動かすほどの完全な信仰」を持っている人、「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」用意のある人に「愛がない」などということがあり得るだろうか?

しかし、そういうことは事実あったのだ。豊かに暮らし、さまざまな霊的能力にも恵まれている人々が、貧しさのゆえに十分な教育を受けられず、才能や能力を伸ばす経済的余裕もなく、従って知識も乏しい人々を疎んじる。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのだ」(12章22節)という認識がない。強い者たちが自らの賜物を誇り、弱い者たちの弱さを「困ったものだ」と見くびる。そのために、「あなたの知識によって、弱い人が滅びる」(8章11節)ということも起こり得たのである。このアガペーの欠如のために、コリント教会は分裂と混乱の危機に直面していた。

 パウロはこれを戒めたのである。いくら知識があっても「愛(アガペー)がなければ、無に等しい」(2)。どんなに霊的能力に恵まれていても、「愛(アガペー)がなければ、わたしに何の益もない」(3)と。

その後で、パウロは「アガペー」とは何であるかを具体的に示した。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(4-7節)。

これは、「バレンタインデー」の今日、そこら中で聞かれるような甘ったるい「愛の賛歌」などではない。人間関係をそのあるべき形に正すための具体的な戒めであって、我々の教会にとっても、今後ますます大切な教えとなるであろう。

 特に、愛は「忍耐強い」(4節)、また、「すべてに耐える」(7)と言われている点に注目したい。「忍耐強い」と訳された原語(マクロシュメオー)は、「相手のために長い間苦しみにも耐えることができる」というニュアンスを持つ言葉である。また、「耐える」(ヒュポメノー)は、「我慢してじっと担い続ける」という意味で、ローマ書8章23節の「うめきながら待ち望む」に近い。どちらの場合も時間の要素が重要である。

愛(アガペー)とは、相手のために「時間を惜しまないこと」である。短時間で直ぐ投げ出すのではなく、「苦しくても、相手のためにじっと待つこと」である。

 9日夜のNHKで、ある定時制高校の先生(女性)の話が放映された。実はこの先生は、かつて自分の授業計画や学校のスケジュールを優先させたために手痛い失敗を経験したことがあった。それからは、どんな生徒に対しても何かをこちらから押し付けるのをやめたという。夜間の学校だから、さまざまな問題を抱えた生徒たちがいる。一人の女生徒は、学校にはやって来るが教室に行って皆と一緒に勉強する気には中々なれない。先ず教員室に腰を据えて、取りとめもない話をするのだが、先生はそんな話でもじっと耳を傾ける。その内に、生徒は気を取り直し、「行ってくる」と言って教室に行くのである。このことに私は心を打たれた。

 先週の祈り会では詩編86編を学んだが、その中に「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる」(15節)という一句があった。ある旧約学者は、この「忍耐強く」を「怒るのに遅い」と訳している。このことは甚だ示唆に富んでいるのではないか。

 同じ頃新聞で、指揮者O・クレンペラーに関する記事を読んだ(毎日新聞2月9日夕刊)。この人は、晩年、若い頃のきびきびとした演奏が嘘のように極端に遅いテンポになったらしい。だが、渡辺裕さんは「テンポが遅いために、他の演奏では聞き取れない細かいパッセージが至る所で聞こえた」と書いている。遅いのはマイナスではない。ヤコブの手紙1章19節にも「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」とある。これが、アガペーの具体的な姿なのである。



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