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「言葉の権威」

99・8・29「言葉の権威」村上 伸イザヤ書 55,8-11;ルカによる福音書 7,1-10  「百人隊長」というのは、百人の部下を持つ軍人のことである。旧日本軍の組織で言えば、「中隊長」といったところだろうか。カファルナウムに駐在するローマ軍の一員か、ユダヤの領主ヘロデ・アンテイパスの兵を束ねる将校であったのだろう。名前は分かっていない。友達をイエスのもとに送って「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではない」(6)と言わせている所からも明らかなように、異邦人である。 ルカが書いたもう一つの文書・使徒言行録には、コルネリウスという百人隊長の回心の話が出てくるが(10,1-33)、こちらは名前がはっきり分かっている。ローマ人であったらしい。 二人ともユダヤ人ではない

「イエスに従った女性たち」

99・9・12「イエスに従った女性たち」村上 伸ホセア書 11,8-11;ルカによる福音書 8,1-3  「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(1)。この旅には、「12人」も同行していた。「12人」というのは、いわゆる12使徒のことであって、イエスの弟子たちの中核メンバーである。そのリストは6章に載せられている(6,12以下)。 12人はすべて男性であったが、今日の個所には、その他に数人の女性たちが同行したと書いてある。この人々は、「悪霊を追い出して病気を癒して頂いた何人かの婦人たち」(2)とあるように、辛い過去を経験している。特に、マグダラのマリアなどは、「七つの悪霊を追い出して頂いた」(2)という。それが具体的にどのような症状を言

「あなたの罪は赦された」

99・9・5「あなたの罪は赦された」村上 伸イザヤ書 30,18-19;ルカによる福音書 7,36-50  今日の話は大変印象深い。この町に一人の「罪深い女」がいて、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(37-38)。 大変官能的な描写である。若い頃、この個所を読むと、いつも胸がドキドキしたものだ。多くの注解書は、「罪深い女」とは娼婦のことだ、と書いている。一連の仕草が艶めいて感じられるのは、そのせいもあるであろう。  だが、もっと印象的なのは、イエスの態度である。 彼はこの女性のいささか官能

「目標を目指して」

99・9・19「目標を目指して」村上 伸イザヤ書 32,15-20;ルカによる福音書 9,51-55   ルカによる福音書の主な資料の一つは、マルコによる福音書である。しかし、今日の所から後、19章ぐらいまではそれ以外の資料によっているから、マルコ福音書の連続講解説教をした時には目に触れなかった話が多い。それを順次取り上げていきたい。 51節. イエスはここで、意識的に一つの旅を始める。目標はエルサレムである。 何故エルサレムかということは、この段階ではまだかすかに暗示されているだけだ。旅が進むにつれて明らかになるであろう。しかし、皆さんには既にお分かりであろう。十字架に付けられるためである。この旅は、受難の旅だ。 「エルサレムに向かう決意」と言われているのは、そのためだ。

「人の子には枕する所もない」

99・9・26「人の子には枕する所もない」村上 伸イザヤ書 33,20-22;ルカによる福音書 9,57-62  ここには三人の人物が登場する。弟子志願者と言ってよいであろう。 最初の人は、マタイ8,19によると、律法学者であったらしい。彼は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57)と申し出た。恐らく彼は、イエスの力ある言葉に感銘を受けて、優れたラビに弟子入りするような気持ちでこう言ったのであろう。 これに対してイエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58)と答えた。「イエスに従って生きるということは、ラビに弟子入りするのとはわけが違う」、という意味が言外に込められている。 通常、ラビに弟子入りするのは知識を習得する

「平和があるように」

99・10・3「平和があるように」村上 伸民数記11,24-30;ルカによる福音書 10,1-12  72人が派遣されたという。この教会の礼拝出席者はまだ70人には達していないから、この全員よりも多い人数である。前には「12人の派遣」について書かれていたが(9,1以下)、ここへ来て派遣される弟子の数が一挙に増えた。 しかし、これは単に、イエスがこの頃、急に「有名に」なって、「その活動が拡大した」ということではないだろう。 この派遣の目的は、「信者を増やす」とか、「勢力を拡大する」ためではない。「病人を癒し、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(9)と言われているように、神の国の宣教である。 貧困や病気や、憎しみや争い。悪の支配はこの世を苦しめているが、神が創られたこ

「賢い者には隠して」

99・10・10「賢い者には隠して」村上 伸イザヤ書 14,12-17;ルカによる福音書 10,17-24 イエスが派遣した72人の弟子たちは、悪が支配しているように見えるこの世界の中にも神の真実の支配が必ず来るという「神の国の福音」をあちこちの町や村で宣べ伝え、その「神の国」の到来の目に見える現われとして病人を癒したが、やがて彼らは喜んで帰って来て、こう報告した。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」(17)。実際に、自分たちでも悪霊を追い出すことができるということを、彼らは経験したのであろう。思いもかけない「成功」に、彼らはいささか有頂天になったらしい。そこでイエスは、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」(20)とたしなめた。 福音を宣べ伝えると

「善いサマリア人」

99・10・17「善いサマリア人」村上 伸レビ記 19,13-18;ルカによる福音書 10,25-37  これは有名な話である。それだけに、特にキリスト教世界では、ある通念が付きまとっていて、それが一人歩きをしている場合が多い。例えば、病院に“Good Samaritan”という名が付けられる。その場合、このサマリヤ人の行動は「病人に対する模範的な、心のこもった看護」として称えられているし、福祉活動を行う団体がこの名を付けている場合は、それはあらゆる「慈善行為」の模範として理解されているであろう。だが、今日はもう少し違った角度からこの話を読んでみたい。  この話は、ある律法学者の質問から始まっている。 「何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるか」という問いである。この問いは、

「霊による歩み」

99・10・24「霊による歩み」廣石 望エゼキエル書 37,1-14;ガラテヤ書 5,16-26 Iキリスト教は霊の宗教です。ヨハネ福音書は、「神は霊である」(4,24)と端的に言い切っています。パウロもまたこう言います。「神の霊があなた方のうちに宿っているかぎり、あなた方は肉ではなく、霊の支配下にいます。キリストの霊を持たないものは、キリストに属していません」(ロマ8,9)。使徒言行録の2章に報告された、いわゆる聖霊降臨節(ペンテコステ)の出来事は、原始キリスト教会の出発を記す出来事でした。聖霊を受けた者たちを代表して説教するペテロは、こう言います。「悔改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」(使2,38)。

「自由と愛」

99・10・31「自由と愛」陶山 義雄ガラテヤ5,1-15;ヨハネによる福音書 8,31-38 1517年10月31日、マルティン ルターはウイッテンベルグの教会扉に95ヵ条の意見書を提示しました。その後の経過については、世界史の教科書にも載せられているので教会外の人々にも良く知られている所であると思います。聖書の御言葉による教会の改革を求めたこの運動は、プロテスタントと呼ばれる新しい教会を生み出して、従来のローマ・カトリック教会とたもとを分かつようになりました。しかし、およそ500年近く経った現在、新旧両教会は今、新しい教会を目指して同じ方向に歩みを一つにし始めています。エキュメニカル運動、教会合同への運動は今、私たちが手にしている新共同訳聖書を生み出しています。これは何よりもカトリック教

「必要なことはただ一つ」

99・11・7「必要なことはただ一つ」村上 伸申命記 6,1-9 ;ルカ福音書 10,38-42   ある家庭で起こった話だ。姉のマルタは、イエスをもてなすために「あれもしなければならない、これもしなければ…」と心が急き、汗をかいて動き回っている。それなのに、妹のマリアは(ルカは「姉妹」と書いているが、これは妹に違いない!)気が回らないというか、ちゃっかりしているというか、手伝いもせずにイエスの側に腰を落ち着けて、夢中になって話を聞いている。姉は腹を立てて、イエスに八つ当たりする。どこの家でも見られる、日常の小さな出来事だ。 だが、それをきっかけにしてイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである…」(41)と答えたとい

「死者の復活」

99・11・14「死者の復活」村上 伸コヘレトの言葉 3,1-11 ;コリント第一15,35-49   今日、我々は、この教会の関係者で先に天に召された方々を記念するためにここに集まっている。我々の教会は、この方々の祈りに支えられて今日を迎えることができた。このことを私は確信しているし、実際、彼らの祈りを受け継いで我々は今も歩みを続けているのである。ご遺族の方々と共に彼らを記念し、神の祝福に与りたい。 どの人にも、既にこの世を去ってはいるが忘れることのできない人の記憶がある。両親や祖父母、兄弟や姉妹。そして、親しい友人たち。私自身も、年齢を加えるに従って他の記憶は段々と薄れていくのに、あたかもそれに反比例するかのように、先に召された両親や、戦時中に戦死した兄、恩師の鈴木正久牧師、親しか

「"鳥たち"が生きるための場所」

99・11・21「"鳥たち"が生きるための場所」広石 望イザヤ書 2,2-5 ;マルコ 4,30-32 Iキリスト教の出発点となったイエスはユダヤ人で、パレスチナ北部のガリラヤ地方、そのナザレという村の出身です。イエス時代のガリラヤは経済的にはかなり発展していて、そこには非ユダヤ系の住民が多く住んでいる都市もいくつかありました。イエスはしかし、そうした都市には足を踏み入れず、むしろ同朋のユダヤ人が住んでいる村々を巡り歩いて、「神の国は近づいた」と告げて回りました。その際に彼は、故郷と親兄弟を捨て、無一文で放浪するという生活スタイルをとりました。そうして人々に直接語りかけ、弟子を集め、社会でつまはじきにされていた者たちとも食事を共にし、精神的・身体的な障害者はその障害を治してやった上で社

「狼が小羊と共に宿り」

99・11・28「狼が小羊と共に宿り」村上 伸イザヤ書 11,6-10 ;ローマの信徒への手紙 13,8-12 今日から「アドヴェント」に入ります。「待降節」と言い、クリスマスを待つ心の準備をしながら過ごす四週間のことです。この季節には、ことに歴史の長いヨーロッパの国々には、美しい習慣がいろいろあります。その一つが、皆さんの前にある「アドヴェント・クランツ」です。もともとドイツの風習です。最初の一週間は四本のローソクの内、一本だけに火を点すのです。次の週は二本。そうやって増やして行って、クリスマスの日には四本全部に火がともる。このようにして、心をこめてクリスマスを待つのですね。そのアドヴェントの最初の日曜日に、ソプラノの竹内智子さんやリュートの桜田亨さんをお迎えして、美しい音楽で神様をたた

「主が来られる時まで」

99・12・5「主が来られる時まで」村上 伸ヨブ記 42,1-6 ;ヤコブの手紙 5,7-11 先週の特別音楽礼拝で、まことに喜ばしい、祝福された幕開けを迎えた今年のアドヴェントも、蝋燭が二本ともって第二週を迎えた。だが、正にこの喜ばしい時に、訃報が相次いでいる。 深見さん昇天の知らせは、先週の礼拝の開始直前にもたらされた。今週の土曜日にはこの教会堂で告別式が行われることになっており、その準備をしている矢先、今度は3日(金)の午前4時に加藤勇さんが召されたという知らせが入った。慌ただしくそれに対応し、昨日の夕方6時からご自宅付近の式場で前夜式を執り行い、今日はこの礼拝が終わった後、午後2時から同じ式場で葬儀を営むことになっている。 いつかはこういう日も来ると覚悟はしていたが、一週間

「神の秘められた計画」

99・12・12「神の秘められた計画」村上 伸イザヤ書 41,8-13 ;コリント第一 4,1-5 二人の兄弟を天に送った悲しみが私たちを包む中で、そして今、二人の友が新たに入院するという気がかりな知らせを聞く中で、アドヴェントも第三週を迎えた。アドヴェント…主が来たり給う。讃美歌でも私たちは繰り返しこのフレーズを歌う。主の到来を待つ。 だが、正確に言うとこれはどういう意味だろうか。 子供たちが「もういくつ寝るとお正月」と歌うように、単に「クリスマスの祝祭が近づいて来るのを待ちこがれる」というだけの意味ではないだろう。そういう面もあっていいが、もっと深く私たちの生きる姿勢に関係している、と言わなければならない。それは、具体的に言えばどういうことだろうか。  今日の説教テキストに、コリ

「マリアの賛歌」

99・12・19「マリアの賛歌」村上 伸イザヤ書 40,9-11 ;ルカ福音書1,46-56  宗教改革者マルチン・ルターは、1521年に、この「マリアの賛歌」について素晴らしい講解を書いた。久しぶりにそれを読みたいと思って本棚を探すと、古びた岩波文庫が出てきた。吉村善夫・石原謙共訳で、昭和25(1950)年に出版されたものだ。当時のことだから藁半紙のような粗悪な紙に印刷してあり、鉛筆で線を引こうとするとすぐ破れる。読んでいる内にいくつかの書き込みが見つかった。どう見ても私の字ではないので、どういうことかと頁をめくって調べて見ると、林田雅子が洗礼を受けた日(1950年12月24日)に、森戸ゆか(松川成夫氏の夫人)さんが贈って下さったものだと分かった。不思議な感動に満たされながら読んだ。 

「喜びが満ちあふれる」

99・12・26「喜びが満ちあふれる」 村上 伸イザヤ書 60,1-7 ;第一ヨハネ1,1-4 今年のクリスマスは、この千年紀最後のクリスマスということもあってか、例年にまして華やかに感じられる。テレビでもあちこちのクリスマスの模様が放映された。至る所にイルミネーションがつけられ、ピカピカやってない所は教会ぐらいのものだ。 アナウンサーも一様に上ずった声で、声高に巷の様子を報告している。 しかし、この華やかさは表面上のものだということを、皆が知っている。失業率は依然高いし、リストラ旋風が吹き荒れている。犯罪の発生率はかつてないほど高い。犯罪を防ぐはずの警察が、信用を失っている。怪しげな宗教がはびこって人々からなけなしの金を巻き上げる。学校教育も問題に満ちている。政府も頼りにならない。

「将来と希望」

2000・1・2「将来と希望」 村上 伸エレミヤ書 29,4-14 ;マタイ 7,7-12 「日々の聖句」によると、2000年の年間標語は「わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ書29,10-14)である。この年の最初の礼拝は、この聖句について語ることにしたい。  歴史的背景について先ず説明しよう。――紀元前605年にバビロニアのネブカドレツアル王が即位してから、彼は度々ユダ王国を脅かし、597年にはエルサレムを陥れてヨヤキン王と重要人物をバビロンに強制連行した。第一次「バビロニア捕囚」である。ヨヤキンの後に即位したゼデキヤ王はバビロニアに反逆、このため、ネブカドレツアル王は一年半の包囲の後、586年エルサレ

「今の時代」

2000・1・9「今の時代」 村上 伸ヨナ書 3,1-10 ;ルカ 11,29-32 「今の時代の者たちはよこしまだ」(29節)とイエスは言う。 イエスの口を借りて、ルカはその時代に対する批判を語る。イエスを受け入れることができない今の時代、彼の説教を聞いても悔い改めようとしない今の時代、それだけではなく最後にはイエスを十字架につけて抹殺してしまう今の時代に対する批判である。 今日の個所は余り短いために意味がはっきりしないが、参考のために7章31節以下などを読むと、良く分かる。これは、どうしてもイエスを受け入れようとしなかったファリサイ派や律法の専門家たちに対する批判と関係しているのである。さて、7章には、 「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まないと、あなたがたは、『あ

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