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- 「人の命は持ち物によらない」
2000・1・16「人の命は持ち物によらない」 村上 伸申命記 8,11-20 ;ルカ 12,13-21 現代では「遺産争い」がもつれた時、最後には法廷に持ち出される。しかし、イエスの時代、それはラビ(律法の教師)によって調停されるのが普通であった。だから、人々はこの問題をイエスの前に持ち出したのである。だが、イエスはこの「遺産争い」の調停をにべもなく断り、問題をもう少し深い次元で考えるように要求した。 つまり、遺産の分配をどうするかという「所有」の問題から、貪欲を避けるという「生き方」の問題へと人々の視線を向け変えたのである。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(15)。 貪欲は、あらゆる悪の根元である。古来、優れた宗教者や思想家は、例外なくこのことに気づいて
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- 「思い悩むな」
2000・1・23「思い悩むな」 村上 伸イザヤ書 46,3-4 ;ルカ福音書 12, 22-34 マタイ版「山上の説教」の中には、これとほとんど同じ教えがある(マタイ6,25-34)。但し、いくつかの違いがあって、例えば、マタイでは「空の鳥を見よ」となっているが、ルカでは「カラス」だ。 「烏」は、レビ記11,15(申命記 14,14)では、禿鷲・ひげ鷲・黒禿鷲・鳶・隼などと並んで「汚らわしいもの」と規定され、食べることを禁じられていた。恐らく、死んだ動物の肉を漁ったり、生きた獲物を襲って食べたりするためであろう。だが、このような烏も神に養われている、とイエスは言う。 上原の近くにも烏がいて、家庭のゴミを集める場所に朝早くから群がっている。賢い鳥で、袋をくちばしで破り、中に入っ
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- 「目を覚ましている」
2000・1・30「目を覚ましている」村上 伸出エジプト記 12,1-14;ルカ福音書 12, 35-40 先々週、「愚かな金持ち」(16節以下)について考えた。この男は突然の大豊作に喜んで自分の将来の人生設計をした。今までの「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまう」(18)という計画である。これは、別に悪いことではない。イエスも、例えば14,28以下では、行き当たりばったりの無計画な生活ではなくて、むしろ計画的であることを推奨している。人生には、矢張り計画・展望・見通しといったものが必要である。 「愚かな金持ち」の話で、イエスが「愚か」と言ったのは、計画性のことではなく、「金や物がたっぷりあるから、もう安心だ」と、それだけで気を許してしまった浅はかな人生態
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- 「キリストの平和」
2000・2・6「キリストの平和」村上 伸ミカ書 7,1-7;ルカ福音書 12, 49-53 今日のイエスの言葉は、いつになく激しい。後半部分(52-53)に家族に言及した言葉があるので、もしかしたらこの個所は、家庭生活も含めて日常の人間関係に関するイエスの倫理的な教えではないかと考える人もいるかもしれない。そうだとすれば、我々がこれまでイエスについて抱いて来たイメージの正反対である。我々の心の中には、大きな混乱が起こる。 人間関係に関して言うなら、イエスは互いに愛し合うことを教えた。これは福音書の大筋に照らして明らかである。―――相手があなたに対してどんな罪を犯しても、居丈高になってその人を裁いたりせず、暴力に対して暴力で報復することをせず、こちらから先に和解の手を差し伸べ
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- 「悔い改めなければ」
2000・2・13「悔い改めなければ」村上 伸ヨブ記 4,1-9 ;ルカ福音書 13, 1-5 今日の個所は、他のどの福音書にも出ていない、ルカの特殊資料である。ここでは、その頃起こった二つの事件が話題になっている。新聞もテレビもない時代だし、江戸時代の「瓦版」のようなものもまだない。ニュースの伝わり方はゆっくりしていた。それでも、現代の我々が想像するよりはずっと早く人々の口から口へ語り伝えられたであろう。古来、この種のニュースは「千里を走る」と言われた。 新しいニュースの一つは、ちょうどその時、何人かの人によってイエスのもとにもたらされた。ロ-マ総督ピラトが恐ろしい虐殺事件を引き起こした、というのである。はっきりしたことは分からない。ヨセフスの「古代史」にも、これらについての十分
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- 「今年もこのままに」
2000・2・20「今年もこのままに」村上 伸エレミヤ書 8,8-13 ;ルカ福音書 13, 6-9 「実のならないいちじく」の譬えである。これはルカにしかない。 ところで、福音書には沢山の譬え話があるが、その殆どは「寓喩」(アレゴリー)ではない。つまり、今日のテキストで言うと、「ある人」とは誰のことか、「ブドウ園」は何を意味するか、また、「いちじく」が何で、「実」は何を意味するか、「園丁」とは誰のことか…という風に、いちいち何かに当てはめて解釈することを「寓喩的解釈」というが、イエスの譬え話の大部分はそのように解釈すべきものではない、というのである。それは恣意的な解釈につながる危険がある。 しかし、どこかに中心的なポイントがあることは間違いない。それが、ある大切な真理を暗示する。
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- 「束縛から解いて」
2000・2・27「束縛から解いて」村上 伸申命記 5,12-15 ;ルカ福音書 13, 10-17 「18年間も病の霊に取りつかれて」(11)いる女性が登場する。病状については、「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」(同)と書いてあるだけで、それ以上のことは分からない。痛みや苦痛があったのか、その他の症状を伴っていたのかどうか。こういうことは全く不明だが、会堂の片隅にひっそりと座っていたところから判断すれば、辛うじて自力で歩くことはできたのであろう。 ルカは、この人が「18年間も」この病気で苦しんでいることを、二度も繰り返して強調している。病むということは、たとえ1ヶ月でも1年でも辛い。それが、18年も続いたというのだ。 症状が一向に良くなる兆しも見えないまま
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- 「イエスの嘆き」
2000・3・5「イエスの嘆き」村上 伸エレミヤ書 22,1-5 ; ルカ福音書 13, 31-35 イエスは、一方では群集の人気を集めていたが、他方では、その宣教の当初から、ユダヤ教の指導者たち、すなわち長老・祭司長・律法学者たちの敵意に取り囲まれていた。イエスの言葉や業に類い稀れな力があることが明らかになるにつれて、敵意はつのった。5章21節などに記されている通りである。 そしてこの敵意はやがて殺意にまで高まる。このことをイエスは、ある緊迫感をもって感じとっていた。9章22節では「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺される」と予告しているが、同じ内容の言葉がその後も二度繰り返される。そして、十字架という結果につながる。これが福音書を貫いて
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- 「へりくだる者は高められる」
2000・3・12「へりくだる者は高められる」村上 伸イザヤ書 35,1-10 ; ルカ福音書 14, 7-14 「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて…」(7節)とあるが、ユダヤの社会では、「上席争い」のようなことが実際にあったのだろうか。文化の違い? 日本では、ことにキリスト教会では、こういうことは一寸考えられない。むしろ、常に「上席の譲り合い」や「末席争い」が起こる。いちいち、「上も下もありませんよ」と言って、「上はあちらです」と、神のおられる天を指し示さなければならない程だ。もちろん、ユダヤでも日本でも、上席に座る人が必ずしも傲慢とは限らない。こういうことは、一概には言えないものだ。 その点を少し掘り下げて、考えてみたい。 今日の話は、「あなたよりも身分の高
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- 「神の国での食事」
2000・3・19「神の国での食事」村上 伸イザヤ書 25,6-10 ; ルカ福音書 14, 15-24 教会暦によれば、先週から「受難節」という季節に入っている。イエスの十字架・復活までの40日間のことである。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスが、荒れ野で40日の間、悪魔の誘惑に遭ったという言い伝えに基づく。 さて、そのことを記した ルカ 4,1-3 によると、その間イエスは「何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」という。神の国の宣教を始める前に、彼は何よりも先ず、食べるものが何もないという体験をしなければならなかった。 その後でイエスは、故郷のナザレで、イザヤ書 61,1-3 に託して自らの生涯の使命を明らかにしたが(ルカ 4,16-21)、その第一は、「
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- 「自分の十字架を背負って」
2000・3・26「自分の十字架を背負って」村上 伸イザヤ書 53,1-12 ; ルカ福音書 14, 25-33 イエスに従って生きようと思うならば、自分の十字架を背負って行かなければならない。こういう意味の、我々が思わずたじろぐほど厳しい言葉である。これは、共観福音書のどれにも出てくる。その内、最も古いのはマルコ8,31以下だろうが、そこでは、イエスがご自身の十字架と復活を弟子たちに予告した直後に、この言葉が出てくる。ルカ9,21-27 でも同様である。 弟子たちに対して語られた言葉というなら、これはある程度理解できる。というのは、彼らはいわば選ばれた集団だから、一種の「エリート教育」の中でこういう厳しい生き方が要求されたと考えても、不思議はないからだ。私が陸軍の幼年学校の生徒であ
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- 「見失った一匹を捜す」
2000・4・2「見失った一匹を捜す」村上 伸エゼキエル書 34,11-16 ; ルカ福音書 15, 1-7 ルカ15章には、同じような主旨の譬えが三つ出て来る。今日の所には、「見失った羊が見つかる」という話、8節以下には「無くなった銀貨が見つかる」という話、そして11節以下には広く知られた「放蕩息子」の譬え、つまり、疾うに失われたと諦めていた息子が悔い改めて再び父のもとに帰って来るという話である。 これらの譬話は、三つとも、ルカ 5,27以下 を基本的な枠組みとしている。つまり、イエスが「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」しているのを、ファリサイ派の人々や律法学者が見咎めて非難する。それに対してイエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。…」(31節)と
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- 「帰ってきた放蕩息子」
2000・4・9「帰ってきた放蕩息子」村上 伸ホセア書 11,1-9 ; ルカ福音書 15, 11-32 これは、広く知られた「放蕩息子」の譬えである。 この譬話は、先週取り上げた「見失われた一匹の羊」(1-7)の話と同じように、ルカ 5,27以下 を基本的な枠組みとしている。即ち、イエスが「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」しているのを律法学者たちに非難された時、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」と答えたという、あの話である。 この思想は、今日のテキストの直前にある「無くした銀貨」(8-10)の譬えでは、 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10)という言い方になり、そして今日の所では、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっ
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- 「十字架につけられたイエス」
2000・4・16「十字架につけられたイエス」村上 伸イザヤ書 50,4-9 ; ルカ福音書 23, 26-43 イエスは、神の国の福音を宣教し始めた当初から、「律法原理主義」的なファリサイ派や律法学者たちとは違って、律法を、出会う一人一人の人間を生かす方向で解釈したために却って憎しみを買った。彼らは律法に違反していると言ってイエスを非難し、「罪人の仲間だ」(7,34)と攻撃した。そして、遂には「生かしては置けない」人物というレッテルを貼った。この彼らの殺意が今、イエスに向かって迸ろうとしている。 ルカの「受苦物語」を順に追って行くと、イエスは弟子たちに裏切られ(22,47-62)、逮捕されて、宗教裁判にかけられる(22,66以下)。ローマ総督ピラトの三度にわたる弁護にもかかわらず(
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- 「エマオ途上のキリスト」
2000・4・16「エマオ途上のキリスト」村上 伸ホセア書 6,1-3 ; ルカ福音書 24, 13-35 イエスが十字架上で死んでから三日目に、二人の弟子たちがエルサレムの西北12kmのところにあるエマオという村に向かって歩いていた。歩きながら、二人はこの数日間にエルサレムで起こったイエスの処刑という出来事について「話し合い、論じ合って」(14)いたが、いつの間にか一人の人が道連れになった。この段階では、二人はまだ、それがイエスだとは気づかない。その人は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17)と口を挟んできた。多分二人は、あの事件をどう受け止めたら良いか分からず、大声で「ああだ、こうだ」とやり合っていたのだろう。夢中になっていて、その人が質問してくるまでは
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- 「あなたがたに平和があるように」
2000・4・30「あなたがたに平和があるように」村上 伸出エジプト記 3,1-12 ; ルカ福音書 24, 36-49 弟子たちが集まって、イエスの十字架上での死について、三日目の朝墓が空っぽになっていたことや、あの二人の弟子がエマオに向かう途上で経験したことなどについて、まだどう受け止めたら良いか分からないままに、「話していた」 (36)。この「話していた」という短い言葉に、我々は彼らの困惑を感じ取るであろう。すると突然、その真ん中に復活したイエスが現われる。 恐らく、我々は弟子たちとは少し違った意味で「心に疑いを起こす」(38)のではないか。弟子たちの場合は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37)が、我々はその現場にいたわけではないから、もう少し単純に、「これは一
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- 「小さな事に忠実な者」
2000・5・7「小さな事に忠実な者」村上 伸レビ記 25,35-38 ; ルカ福音書 16, 1-3 この譬えはドラマのようである。舞台には先ず、ずる賢い管理人が登場する。彼は、遠く離れた所に住んでいる主人(不在地主?) の財産を管理する責任を委ねられているが、主人が傍にいないのをいいことに、その財産を「無駄使い」していたらしい(1節)。「無駄使い」とは、今日の「放漫経営」か、「特別背任」に当たるであろう。 ところが、告げ口をする人があって事が露見し、この管理人は主人に呼びつけられる。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけには行かない」(2節) と、きつく説明を要求された上に、解雇を通告される。ウマみのある地位を失う破
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- 「金持ちと貧しいラザロ」
2000・5・14「金持ちと貧しいラザロ」村上 伸イザヤ書 58,6-11 ; ルカ福音書 16, 19-31 ここには、金持ちと貧しいラザロの生活が極めて対照的な仕方で描かれている。 金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布」(19) を着ている。「紫の衣」とは、アッキ貝から取る染料で染めた高価な上着、「柔らかい麻布」はエジプト産の亜麻布のことで、これは下着に用いられる。いずれも当時の王侯貴族が着たものだ。昔、木綿よりもずっと上等という意味で、「絹物を着る」という言い方があったが、それに当たるであろう。金持ちは、こういう着心地の良いものを着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。 一方、この金持ちの「門前に」(20)、ということは「目と鼻の先に」ということだが、「ラザロというできものだらけの貧し
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- 「賛美するために戻る」
2000・5・28「賛美するために戻る」村上 伸列王記下 5,1-14 ; ルカ福音書 17,11-19 ここに「らい病」と言われているのは、「ハンセン病」と厳密に同じではないという。それも含めて、レビ記13章に「重い皮膚病」と言われているさまざまな症状のことらしい。とにかく、この症状が出た人は祭司のところに行かなければならない。そして、祭司に「あなたは汚れている」と宣告された人は、「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。…その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(13,45-46)、と定められていた。伝染を防ぐという意味もあっただろうが、村の中で交際を絶たれるわけである。 こうして、単に肉体の苦しみだけでなく、交わりか
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- 「望みなき時にも」
2000・5・21「望みなき時にも」陶山 義雄ヨブ記13章1-13節; ヨハネ福音書11章17-27節 明治学院大学のグレゴリーバンドをお迎えして、共に礼拝を捧げる機会を、この春もこうして備えられた事を大変嬉しく思います。 先ほど招詞でお読みした聖書、コロサイの信徒への手紙3章16節は、グレゴリーバンドがクラブの聖句として掲げておられます。この成句が指し示しているような働きを、40年に亙って続けてこられた事に、深い感銘を覚えます。私もこの4月で教員生活39年目を迎えました。その間、前途に大きな可能性を持った、若い人々と過ごす事ができたのは何より嬉しい事でした。そして今日のように、出会いの楽しい思い出を分かち合える、かつての学生が、グレゴリーバンドのメンバーとして賛美の歌を捧げておられる姿に
- 1ブック・レビュー 『近づいている世界の終焉』
- 2箴言2章・識別力があなたを保護する
- 3特集 ことはが選ぶ、この夏、とっておきの一冊
- 4往復メール shioya Vol.2 ドニーからもらったもの
- 5ブック・レビュー 証言者に寄り添う第三者がまとめた貴重な証言
- 6苦行に依らない、喜びと祝宴の交わり(山上の垂訓・第11回講解説教)
- 7特集 キリスト教と科学 ~矛盾? 対立?~ 教会として「科学」と向き合うために 『DNAに刻まれた神の言語』解説文抜粋から
- 8肉体の死は霊的死にどのように関係しているのですか?
- 9「基本的信頼の回復」
- 10エホバの証人の児童虐待に対する問題を改めるために断固とした処置をとる必要

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
